あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

所沢航空記念公園でのポリス・コンサートへ(埼玉)

2016-05-23 18:05:38 | 所沢だより
 2016年5月22日(日)

 お昼の12時15分から13時まで、所沢航空記念公園の野外ステージで、埼玉県警察
音楽隊と埼玉県警察カラーガード隊による「ポリス・コンサート」が開催されることを知
っていたので、12時頃に航空記念公園に行く。

 公園内にある所沢航空発祥記念館の方から音楽が聞こえてきたので回ったら、C−46
型輸送機の前で、プレ演奏が始まっていた。




 2曲ほど演奏のあと、野外ステージで演奏会があることの案内があり、隊員達が向かっ
たので、その後ろに従って南西側斜面にある野外ステージに行く。




 会場にはすでに、かなりの観客が入っていた。


 演奏の前に所沢警察署職員からのお知らせがあり、振り込め詐欺が相変わらず増大して
いるので注意するようにとの周知だった。
     
 それによれば、昨年の埼玉県内の振り込め詐欺被害は全国ワースト1で、そのうち所沢
市内の被害は県内ワースト2だとのこと。

 今年も多数被害に遭っていて、5月8日現在の所沢警察署管内の被害件数は14件(前
年比+2)、被害総額3,947万円(前年比+937万円)で、県内ワースト1という。

 性別では男性3人、女性11人で、女性が圧倒的に多い。年代では60代3人、70代
4人、80代5人、その他2人で、やはり高齢者が狙われているようだ。

 手口は、手渡し詐欺10件、還付金詐欺1件、架空請求詐欺3件で、発生地域別件数も
分かっていて、市内12の町で1件ずつ、三ヶ島地区が2件だという。

 わが家には、すぐに手渡せるようなお金が何10万も何100万もあるわけないが、被
害にかからぬよう、怪しい電話には出ないようにしている。

 記したのが長くなってしまったが、この話はほんの数分で終わり、12時15分からコ
ンサートが始まった。
 

 島田隊長の指揮により、30数名の隊員の一糸乱れぬ演奏が続く。










 ステージの左手の木々は、すっかり緑が濃くなっている。




 会場の南側、樹間からは高校野球の県大会も行われる所沢航空公園野球場のフェンスが
望まれる。
     



      今日のプログラム
     

 6番目「パパはマンボがお好き」の演奏から。




 最後の2曲では、県警カラーガード隊の隊員が大きな旗を振り、華麗な演技を見せてく
れた。






 アンコール曲一つをプラスして、13時過ぎに演奏が終わった。

 なお、この会場ではもう1度、9月25日(日)の同じ時刻、12時15分から13時
まで、同じ埼玉県警察音楽隊と埼玉県警察カラーガラード隊によるポリス・コンサートが
計画されている。

 だが、この野外ステージは5月4日の当ブログでも記したように、県の厳しい財政事情
から、転用または廃止を検討することになっているようなので、来年度は開催されなくな
るかもしれない。


 蛇足ながら、会場を出て北側のロウバイ園を通過したら、1月にたくさん花を見せてく
れたロウバイの、実が大きくなっていた。

    

        



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所沢市の西郊、緑の狭山丘陵を歩く(埼玉)

2016-05-22 19:02:26 | ウオーキング
 2016年5月21日(土)

 所沢市と西武鉄道との合同企画、「所沢市みどりのふれあいウオーク」に参加した。


 受付は、西武池袋線小手指(こてさし)駅南口↑から5分の北野公園。

 9時〜10時30分の受付だが、私は受付を済ませて市のイメージマスコット「トコろ
ん」に見送られ、9時33分に出発した。


         

 市道を南西に進んで国道463号バイパスに出て、誓詞橋(せいしばし)交差点まで進
む。南側近くに、「所沢市埋蔵文化財調査センター」がある。


 市内の埋蔵文化財の調査と保存、資料や調査成果の展示、天然記念物ミヤコタナゴの保
護などのために開設された施設である。

    
 通常は平日のみ開館しているが、今日は特別公開していたので入館し、発掘された土器
や調査資料、国指定天然記念物ミヤコタナゴなどの展示を一巡して観賞した。
    

 南に少しの道路際に、「小手指原古戦場」碑が立っている。この辺りは、鎌倉時代末期
から南北朝時代にかけてしばしば合戦のあったところ。
        
 特に歴史的な合戦のひとつ、元弘3年(1333)5月11日の新田義貞の鎌倉攻めで
は、迎え撃つ鎌倉幕府軍との間でこの地で30余回も打ち合うも勝敗つかず、翌日幕府軍
は分倍河原(ぶばいがわら)(東京・府中市)に退き、22日には幕府軍の北条高時らが
鎌倉で自害し、鎌倉幕府は滅亡したという。

    
 背後にある森に覆われた白幡塚は、源氏の末裔(まつえい)である新田義貞が陣を張り、
源氏の旗印とされる白幡を立てたという伝承があるとか。塚の頂上には、2基の小さいほ
こらが祭られている。
    


 白幡塚を下りて、茶の木に囲まれた農道を進む。周辺には、特産・狭山茶の茶畑が多く、
しばらく畑の中の道を進むと、茶の製造販売を手がけている茶園も見られた。





 そばの稲荷神社に寄り、小休止して水分補給をする。でも、すぐ近くの「クロスケの家」
の前では、湯茶と冷茶のサービスがあった。


 クロスケの家は、狭山丘陵の自然と文化財をナショナルトラストの手法で保全する活動
を行う「トトロのふるさと基金」の事務所で、建物は国登録有形文化財である。


 寄付金で購入した土地は「トトロの森」と名付け、ボランティアの人などと一緒に維持
管理作業を行っていて、私は作業には参加出来ないが会員として協力している。


 今日は建物内も公開していて、ウオーカーもたくさん立ち寄り、見学したりトトロの基
金のグッズを購入したりしていた。



 隣接する宝玉院↑前を左折して、交通量の多い南側の県道179号を少し進む。早稲田
大入口交差点で県道と分かれ、正門への道を横断して早稲田大学所沢キャンパスの北側沿
いを西進する。



 キャンパスの西端付近まで進み、西側高台にある金仙寺(こんせんじ)への石段を上が
る。4月3日の花まつりにも見に来た、本堂前に立つ樹齢140年余りのシダレザクラは、
緑に覆われていた。


 金仙寺は、約千百年前に覚堂という僧が、弘法大師空海の作という阿弥陀如来を本尊と
して現在地の西方に開山したと伝えられ、この地には、天正18年(1590)に再建さ
れたとのこと。

    
 花の寺として知られ、境内にはカルミヤやアジサイ、ユキノシタなどが花を見せ、西側
の花畑にはコスモスやポピーなどが色鮮やか。
        



 そばの、わらぶき屋根の小屋で小休止するウオーカーもいる。



 畑に咲くルピナスやジャガイモ、近くの北斜面に並ぶキリの花などを眺めながら、比良
の丘(ひらのおか)に向かう斜面を上がって行くと、北側の展望が開けてきた。
    





    
 大きな桑の木に、熟し初めた桑の実がたくさん実る。芝草に覆われたピーク、比良の丘
にはベンチもあり、爽やかな風に吹かれながらの休憩は気持ちよい。



 上がってくるウオーカー、近くの茶畑や南側の狭山丘陵の新緑、東方に見える所沢市街
中心部の高層マンション群などを眺めながら、小休止した。




 比良の丘の西側からコースは林間に入った。

 「さいたま緑の森の博物館」のある入間市との市境付近をピークに左に180度迂回し
て、全コースの4分の1前後の距離にわたり林間を進んだ。
     

 狭山湖の堰堤(えんてい)が近づくにつれて林が切れ、ブドウ畑の北側に三ヶ島集落の
家並みなどが見晴らせ、トトロのふるさと基金が獲得した森のひとつ、「トトロの森」第
4号地の竹林の横を通過する。


 間もなく狭山湖北東端に出て、堰堤に向かってソメイヨシノの古木の多い遊歩道を進む。
木の下では、昼食するウオーカーも多い。



 水をたたえた狭山湖が現れ、堰堤北端の東屋で昼食するグループを見ながら堰堤を南へ
と進んだ。




 湖の奥には、この水源になっている奥多摩の大岳山(おおたけさん)や御前山(ごぜん
やま)周辺らしい山並みが望まれるが、霞んでいてしっかりとは判別しがたい。



 南東端にある2つの取水塔が近づき、堰堤の南端まで進むと、平成14年(2002)
に終えた堤体の耐震強化工事完成を記念して建てた、当時の石原都知事の書になる記念碑
が立っていた。
         
 そばの東屋に12時28分に着き、昼食にした。

 ちなみに、狭山湖(山口貯水池)は昭和9年(1934)の完成。堤体強化後の規模は、
堤高35m、堤頂の長さ691m、有効貯水量約2千万立方m(東京ドーム約16個分)
で、都民の水道使用量の約4日分になるという。

 12時45分に東屋を出て、最後のコースに向かう。南側の多摩湖との間の県道55号
まで進んで多摩湖遊歩道を東南へ。
      
 多摩湖上池の堰堤北岸に近い交差点を左折して北に向かって下り、西武ライオンズの本
拠地、西武ドームに近いゴールの狭山不動尊下広場に、13時10分に着いた。

 ゴール受付を終え、参加賞である今日の西武ライオン対福岡ソフトバンクホークス戦の
一塁側内野指定席C席のチケットをもらう。

 せっかくだからと、西武ドームに直行して一塁側入口を入る。もう一つの参加賞、狭山
茶のペットボトルももらい、13時に試合開始したばかりのライオンズ対ソフトバンクホ
ークス戦を、一塁側ソフトバンクのブルペンそば、前から4列目で観戦する。





 同点の5回裏まで観戦したが、暑さと疲れで眠気がするのでここらで球場を後にして、
西武球場前駅↓14時48分発西所沢行き電車で帰途につく。


(天気 晴、距離 12辧地図(1/2.5万) 所沢、歩行地 所沢市、歩数
 20,900、累積標高差 約310m)




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東松山から坂戸へ、高坂台地下の湧水と田園地帯を巡る(埼玉)

2016-05-17 21:43:00 | カントリーウオーク
 2016年5月15日(日)

 埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループの第233回例会に参加する。集
合は東武東上線の高坂(たかさか)駅、3組に分かれて10時8分に東口を出発した。
 
 == 七清水せせらぎ緑道を行く ==
 
 線路に平行する住宅地の間の旧道を北へ、古くからお住まいの家が多いようで、それぞ
れの庭にいろいろな花が咲き競う。
         

 民家を改装したらしい喫茶店の広い敷地には、大きなシダレザクラが2本立つ。養蚕を
していたのか、屋根に小屋根を乗せが民家も見られた。


         
 初めて見たキウイの花↑の咲く家もある。眺めていたらご主人に声をかけられ、「キウ
イの下の変わった花は何か知っているか」と問われる。コンニャクの花だった。
            

 T字路を右折して県道344号を信号で渡り、台地上の旧道を東に進む。眼下にリバー
サイドパークのグランドが見下ろせる。

 少し先で、林間の踏み跡を上がって背後の墓地から高斉寺(こうさいじ)に入る。墓地
の隅に「史跡 加賀爪累代之墓所」の標石が立ち、そばの墓地にその加賀爪(かがつめ)
一族10人の墓が並んでいた。県の旧跡である。

 加賀爪氏は徳川家に仕えて禄高1万石を領し、この地に大きな陣営を置いた領主とのこ
と。加賀爪忠澄は関ヶ原や大阪の役に戦功あり、江戸町奉行に登用されたが、加賀爪直澄
の代に成瀬氏と領地問題を起こし、天和元年(1681)に領地を没収されたという。

 それにしても、加賀爪氏という名の領主がこの地を治めていたということは、私は初め
て知った。


 本堂は端正な構え、門前にりっぱな庚申塚が立っていた。

 南側の道路に出て、すぐ先から高坂台地下を南に延びる「七清水せせらぎ緑道」へ。こ
の周辺の河岸段丘のがけ下に「高坂の七清水」と呼ぶ湧水が続いている。


 そばのがけ下に、そのひとつ「高斉寺下の清水」があるが、湧水量は少なそう。


 遊歩道沿いは緑が多く、アジサイがもうすぐ開花しそう。ウツギは咲き出していた。
    

     
 池の横を通過し、キショウブがたくさん咲き出した一帯は「東光院下の清水」。近くの
モミジが、淡い彩りの花を見せる。


    

 東西に走る市道の下をトンネルで抜け、緑道はその先で左へと台地下をカーブする。
    
 カシワバアジサイのつぼみがふくらみ、よく育ったムラサキツメクサが増え、たくさん
花を付けたウツギもある。
     


 緑道が終わり国道407号を横断した左側一帯は折本山公園。広い草地にたくさんのシ
ロツメクサが咲き、その向こうに近年完成した大規模商業団地の建物が見える。


 折本山公園の東端まで進んで県道212号を渡り、舌状に延びた正代(しょうだい)の
台地下の歩道に回る。


 左側の湿地と調整池では、オオヨシキリのさえずりが賑やか。


    
 台地の斜面にヒョウタンボクが咲き、下草にたくさん咲くのはナヨクサフジのよう。あ
まり見たことのない白い花も咲いていた。
    

         

 舌状台地の尖端付近で正代の台地に上がり、御霊(ごりよう)神社に向かう。神社近く
の小さな交差点際に、天明元年(1781)と宝暦8年(1758)に亡くなった女性を
供養して建立した、石の地蔵尊があった。
         


 御霊神社は、武蔵国を平定した源義平(みなもとのよしひら)の霊を、この地に館(や
かた)があった地頭の小代行平(しょうだいゆきひら)が祭ったといわれているとのこと。

 本殿の背後に、文政13年(1830)造立の道祖神と、不規則な凹みのある石塔が並
んでいた。
    

 南側の石段際には、市の名木で樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mという大
ケヤキが、高く枝を広げていた。
     


 境内背後の西北側地続きに青蓮寺(しょうれんじ)があり、本堂左手に「小代重俊供養
塔」と記された、弘安4年(1281)銘の大きな板石塔婆が木造の建物に祭られている。
         
 ここ正代は、児玉党に属する小代氏が館を構えていたとのこと。4代重俊は勲功により
肥後国(熊本)野原荘(のはらのしよう)の地頭を命じられ、蒙古襲来の防御と領内の争
い鎮圧のために移り住んだが、重俊の仁徳を慕い、また一族の供養のために縁ある小代氏
一族関係者が建立したと記されているという。

 正面の石段を下ったがけ下からは「青蓮寺の清水」が湧出し、コンクリート張りの湧水
には大きなコイが泳いでいた。


 台地下を西南に向かい、やはりコンクリート張りの「宮鼻の清水」前を通過する。東側
には休耕田の多い田園地帯が広がる。



 宮鼻集落の南東端、台地の縁に八幡神社が祭られ、境内には「八幡神社の大ケヤキ」と
呼ぶケヤキの古木が立っていた。
     
 以前は県の木に選定されていて、根回り8m、推定樹齢は約700年以上とか。長くご
神木として親しまれてきたが、幾多の台風などで主幹部が空洞化してしまっているのが惜
しまれる。でも、根元の太さがその歴史を伝えている。

 宮鼻集落の西南端にある香林寺は、最近再建したようで、本堂も山門も白木が真新しい。


 左手のお堂の前に、文化14年(1817)銘の如意輪観音と享和3年(1813)銘
の馬頭観世音像が並ぶ。六地蔵を祭る、山門横の地蔵堂も新しい。
    

 正午を過ぎたので、大きなドームの見える方角に急ぐ。車の途切れるのを待って九十九
川(つくもがわ)の北側で国道407号を横断する。国道際に「近衛師団長浅香宮殿下演
習御統監之地」と記された石碑が立っていた。
         

 九十九川を渡り、南地区体育館も併設されている昼食地の高坂市民活動センターに、12
時26分に着いた。
 
 == 越辺川を渡り坂戸市へ ==

 昼食後ミーティングを終えて、13時25分に市民活動センターを出た。南側で国道を
横断し、送電線に平行する田んぼの中の道を南へ。水田に水を入れる時期になったようで、
道路沿いの流れにはきれいな水が流れている。



 越辺川の左岸を越えて、新しい木橋の島田橋を渡る。以前は時代劇などのロケにも使わ
れた趣ある木橋だったが、近年の水害で流され架け替えられたもの。


 右岸堤防を下った路傍には、地蔵尊など10数基の石塔が並んでいた。



 越辺川と水田に周囲を囲まれた島田集落に入り、東に向かう。豊富な屋敷林に囲まれた
民家が多く、長い生け垣に囲まれた敷地の広い民家も目に付く。


 島田囃(しまだばやし)の山車(だし)車庫の横を通過し、集落の東端付近から集落を
出て、広々とした田園地帯を南下する。水入り前の田んぼが多いが、中には田植えを終え
た水田もある。


 ほぼ真っ直ぐに進み、自然堤防のままの飯盛川の土手に上がる。豊富な草に覆われた堤
防は、春先に黄色の花で彩られたと思われる実のついたナノハナが多い。


 次の橋まで西進して車道を横切り、すぐ先の歩道橋を渡って南側の坂戸市総合運動公園
に入る。2004年の第59回国体のソフトボール競技会場になったという、野球場のネ
ット裏観覧席で、暑くなった日射しを避けて休憩した。

         
 そばの坂戸市のマスコットキャラクター像の立つ池の前で記念撮影をして、公園の南西
側へ。



 園路をたくさんのちびっ子を乗せた豆自動車が走り、その先の広場では「第13回さか
ど民商まつり」が終わろうとしていた。


 バザーの間を抜け、緑陰で休む人、終わりを告げる中央舞台など、市民で賑わう会場を
一巡して入口に戻り、会場を後にする。


 南側をU字状に回って西進して片柳集落に入った。ヒノキの境内林に囲まれた飯盛神社
で小休止する。


 飯盛川を渡って芦山町の新しい戸建て住宅街を進み、ゴールの北坂戸駅に14時53分
に着いた。

(参加 12人、天気 曇後晴、距離 11辧地図(1/2.5万) 東松山、川越北部、
 歩行地 東松山市、坂戸市、歩数 21,200)




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見ごろになった所沢航空記念公園のバラ(埼玉)

2016-05-16 20:52:09 | 所沢だより
 2016年5月16日(月)

 今年も、所沢航空記念公園のバラが見頃になりました。バラ園は公園の中央部、放送塔
下のフジ棚の回りのわずかなエリアですが、いろいろな色の花を見ることができます。




    



         

 1株ずつ違う色なので、ぐるりと回ってみます。


    

         

    



    



    


 花によって少しずつ開花具合は違うで、これから見ごろになりそうな花もあります。


    

    

 バラ園から、西側の沈床茶園と呼ぶ方面を眺めたところ。




    

          

 純白のバラも。


    

    

 北西側に展示されているC−46型輸送機も、バラを眺めているのでしょうか…。


    


 3つのエリアに分かれたバラ園をひと回りしたので、この辺りから離れました。




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歩き遍路用「四国遍路ひとり歩き同行二人」[地図編]の新版発売

2016-05-13 20:50:36 | 四国遍路あれこれ
 2016年5月13日(金)

 歩いて四国遍路をする人に欠かせない地図として知られる、へんろみち保存協力会発行
の「四国遍路ひとり歩き同行二人」[地図編]の最新版・第11版が5月9日(月)から発
売されました。
      

 一つ以前の第10版・第1刷が2013年3月8日の発行ですから、約3年ぶりの改版
になります。下は第10版の表紙、今回の表紙では表紙左側にあった方位磁石記号が消え
ています。
                     
 
 ほかに、どんな修正や変化があったのか、ひととおり比べてみて気付いたことは以下の
通りです。

 一番気付いたのは、地図の彩色が淡くなり、標高の高い山地エリアの文字などに多少わ
かりにくさのあった10版に比べ、11版では淡い色彩になり、見やすくなりました。

       こちらは第11版の地図の一部分
      

               ほぼ同じエリアの第10版。
              

 新たに追加された情報として、巻末の「四国霊場と宿泊施設一覧表」の後に、「縦断図」
が盛り込まれました。

 1番から88番霊場までの順路にて、標高がどのように変わるのかが分かるので、歩行
時間の検討や次の宿泊地を決める際などの参考になると思います。
    

 もう一つの追加は、地図の最後に「高野山七口(町石道・京大阪道・三谷坂・女人道)」
の図及び「高野山」図が追加になり、結願後に高野山にお礼参りをするお遍路さんのため
に役立つものと思われます。

 各頁の地図も、宿泊施設やコンビニエンスストア、休憩所、公衆トイレ、遍路小屋など
も最新の情報に修正されたようです。

 ちなみに遍路小屋の掲載状況を調べたところ、現在55の遍路小屋が完成していますが、
そのうち第53号茶処みとよ高瀬(平成26.11.23完成)までは掲載されています
が、その後完成した第54号四万十(平成27.7.24完成)と第55号横屋(新居浜)
(平成28.3.18完成)は未掲載です。
 
 なお、遍路小屋の詳細については「ヘンロ小屋だより」のサイトをご覧下さい。

 これから歩き遍路をご計画の方は、最新のこの第11版を入手されて、日々のスケジュ
ール造りなどに活用されることをお勧めします。

 地図編のみの本体価格2,500円(現在の税込み2,700円)、首都圏の方は、東京
駅八重洲口にある八重洲ブックセンター8階の地図・旅行ガイドの売り場で入手できます。

 1番霊場霊山寺売店など幾つかの霊場でも発売されていますが、事前に入手したい方は、
発行元のへんろみち保存協力会から通信販売で購入できます。本書の発売か所や通信販売
での申し込み方法などは、「へんろみち保存協力会」のサイトをご覧下さい。





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横浜中華街から港の見える丘公園へ(神奈川)

2016-05-09 22:06:18 | Weblog
 2016年5月7日(土)

 好天で気温も25℃を超えるとの予報の今日は、横浜中華街での昼食後、周辺を少しだ
け回ってみることにした。

 わが家の最寄り駅からも、西武池袋線、東京メトロ副都心線、東急東横線経由で直通電
車のある、みなとみらい線の元町・中華街駅に11時15分に下車し、近くの天長門から
横浜中華街の西端の通りを進む。


 通りの中ほどにある横浜媽祖廟(まそびょう)↓は、媽祖という人物をまつる道教の寺
院のよう。2006年3月に、開港から150周年を迎えた横浜の新名所として落慶開廟
したとのこと。

 「媽祖」は北宋時代に実在した女性で、小さいころから才知に長け、その神通力は中国
国中に広まり、その後、航海を守る海の神、自然災害や疫病、戦争、盗賊などの守護神と
して中国・台湾のほか華僑が住む世界各地で信仰されているという。

 その先の朱雀門(すざくもん)まで進んで方向違いと分かり、少し戻り関帝廟(かんて
いびょう)通りに回って市場通り門前を過ぎ、中華街のもう一つの寺院、関帝廟前を通過
する。
     


 関帝廟は、関帝(関羽・関聖帝君・関帝聖君とも言う)を祭る廟で、関羽は信義や義侠
心に厚い武将として名高く、民衆により様々な伝承や信仰が産まれて信仰を高め、また後
の王朝によって神格化されていったとのこと。

 また、関羽は義に厚いとされることから商売の神として祭られ、世界中に華僑が散らば
っていったときに、商売が繁盛する様にと、その居住区に関帝廟を立てたようで、世界中
の中華街などで関帝廟を見ることが出来るという。



 関帝廟通りの西端にある重慶飯店別館↑に入り、正午過ぎから4人でコース料理を楽し
む。私は、横浜中華街で中国料理の食事をした記憶は無く、初めてのことのように思う。

 ゆっくりと昼食を楽しみ14時頃に重慶飯店別館を出て、中華街から延びる中山路を南
下して、中村川の上にかかる首都高速狩場線に平行する通りへ。通りにあったビルの前に、
色鮮やかなシャクナゲが咲き出していた。
        

 西の橋交差点で石川川を渡る。上を走るのが首都高狩場線。


 橋を渡って元町交差点から元町通りに入る。


 200m余り進んだ交差点で右折して、汐汲坂(しおくみざか)通りへ。


 少し先からかなりの急坂となり、その途中の横浜学園の塀に、中島敦の「山月記」文学
碑の説明板があり、ここがゆかりの地だという。

 私は「山月記」を読んだことはないが、教科書にも取り上げられた時期があるようだ。

 フェリス女学院高の横を過ぎ、急坂を上り終えて稜線上を走る山手本通りの潮汲坂交差
点に出た。左折して東に向かう。


 元町公園近くの「末日聖徒イエス・キリスト教会」の前に、1901年から布教活動を
行っていた4人の宣教師のプレートがあり、4人がどのような行動をとったかなどが記さ
れていた。
       


 元町公園の西南端付近に「べーリックホール」と呼ぶ建物があり、内部も公開されてい
たが入らず、緑豊富な建物周辺のみを眺める。


 イギリス人貿易商ベリック氏の邸宅として、1930年に建築されたとのこと。現存す
る戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、建築学的にも価値のある建物らしい。

 周辺の木立の下には、クリスマスローズがたくさん咲いていた。


 次の交差点を過ぎると、山手本通りは緩やかに左カーブして元町公園の主要エリア沿い
となり、すぐ先にエリスマン邸があった。ここも公開されていたが、入館は省く。

 エリスマン邸は、日本の建築界に大きな影響を与え「現代建築の父」と呼ばれたアント
ニン・レーモンドの設計。絹糸貿易商エリスマン氏の私邸として1926年に建築され、
ここ元町公園には1990年に移築復元されたという。

 建物の背後からは、公園の谷間部分の豊富な緑が見下ろせる。


 山手本通り際には、アジサイの仲間らしい花も咲く。


 エリスマン邸のそばは変則四差路になっていて、その北東側は「えの木てい」と呼ぶ、
ホームメイドケーキやチェリーサンドが人気らしいカフェが見える。



 元町公園沿いを北に向かう。公園内にあるレトロスタイルの公衆電話ボックス。現用で
通話可能である。
       

 公園の緑が切れた一角からは、西方の市街地が望まれた。


     通りの右手には洋風建築が続くが、そのひとつ山手資料館のよう。
    


 次の交差点際に山手資料館入口があり、庭園のバラが見頃になっていた。 

 山手資料館は、明治42年(1909)本牧本郷町に建てられた中澤兼吉邸の洋館部分
を移築したものとか。明治期の木造洋館として大変貴重な建物で、横浜市の歴史的建造物
の認定されている。
    



        

 隣のカフェの、屋外テーブルでひと休みするのも良さそう。


     この辺りの山手本通りからは、北西に横浜マリンタワーが望まれる。
     

 通り沿いの生け垣には、数え知れぬほどのピラカンサの花があふれていた。晩秋には真
っ赤な実がいっぱい見られそう。
    

 その先の西洋建築は、山手十番館。

 昭和42年(1967)に明治100年を記念して建てられたもので、1階はカフェで
2階はフレンチレストランらしい。


 元町公園が終わって外国人墓地沿いとなり、入口付近の交差点の北東側に小公園があり、
ハーブやバラなど、たくさんの花が咲き競う。
    



 ピンクのシャリンバイも、たくさん花を見せていた。


     


 
 外国人墓地入口際の交差点から、山手通りは右折して東に向かう。小公園の北側の建物
は、神奈川県内の気象観測を続けている横浜地方気象台。


 その先右手は、かつて日本で初めて「ハムレット」を上映したゲーテ座を活用した岩崎
博物館。服飾に関する資料を展示しているという。



 さらに進んだ突き当たりが、港の見える丘公園。入口周辺もバラが咲き競い、近くの植
え込みには、草花がたくさん咲き競っていた。


 だがここで、デジカメのバッテリー切れとなり、スペアを用意してこなかったので、た
くさんの花や、公園の展望台からの横浜ベイぶれ一時などの展望を撮ることはできなかっ
た。


 植栽の間から、わずかに望まれたベイブリッジ。


 展望台からフランス山と呼ぶ一角を抜けて公園の西北端まで進み、元町通りの東端から
元町・中華街駅に戻り、帰途についた。




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みどりの日の所沢航空記念公園へ(埼玉)

2016-05-04 17:37:38 | 所沢だより
 2016年5月4日(水)

 みどりの日の今日、早暁に降った雨は上がり、午前中から青空が広がりました。大型連
休も残りわずかとなりましたが、どこにも行く予定を立ててないので、市内ウオーキング
で所沢航空記念公園に向かいました。

 公園に近い、防衛医科大学病院横のケヤキ並木もすっかり緑の葉が茂り、良い緑陰をつ
くって夏日となった暑さを和らげてくれています。
     

 所沢市役所の南西側から、航空記念公園に入りました。日本庭園の入口前のケヤキも、
気持ちよい若葉を広げて迎えてくれました。


 日本庭園には、思ったほど花は咲いていませんが、これはわずかに咲き残るシャクナゲ。
    

     
 日本庭園の中央部、池の南側からは小さい滝が流れ落ち、北側の茶室「彩翔亭(さいし
ょうてい)」寄りには、コウホネが咲き出しています。
         

 そばのスイレンも、1輪だけ花が咲いていました。いつもはもっと遅かったように思い
ますが…
    

 池の西側、ケヤキやソメイヨシノなどの広葉樹林も緑いっぱいに。
     

 池の南東側の築山に、1株だけシャクナゲが咲き残っていました。
    

 東側の竹林には、かなり延びたタケノコが何本も望まれます。
     

 竹林の木陰で咲く花。


         盛りを過ぎたシャガ。
        

 公園中央部の放送塔と北側の航空発祥記念館との間にあるC−46型輸送機前に、きれ
いな彩りのグループが見えました。


 ダンスでも披露してくれるのでしょうか。10代前半のグループのよう。


 日本庭園の南東側にある野外ステージでは、間もなく音楽会が始まりそうで、呼び込み
の声が。



 でも、この野外ステージは、今朝の新聞の埼玉版によると、「県所有の庁舎や公園など
の公共施設について、将来の財政負担を減らそうとしていて、計10施設が「廃止を含め
て検討」」の対象施設のひとつになっているようで、「転用または廃止を検討」すること
にしているとのこと。

 たしかに利用ひん度は少なそうで、これまでウオーキングで何度も近くを通っても、音
楽などが聞こえる日はあまりなかったように思います。

 放送塔から南に延びる広い遊歩道の、中央部にある花壇にはたくさんの花が咲き競って
いました。






 近くには珍しく出店も来ていて、多くの人が冷たい飲み物などを求めていました。


 南東に下った「むさしの川」と呼ぶせせらぎも、普段は水が無いのですが今日は流れて
いて、ちびっ子たちの楽しい遊び場に。


       

 北側の高台に向かって広がる芝生広場も、緑がいっぱい。




 むさしの川の下流、しょうぶ田にも水が入りました。


 その流れが流入する池の、南西側遊歩道を覆うモミジの新緑。


    

 池の西側にある中の島近くでは、カメが並んで甲羅干し(こうらぼし)中。





 池の東南端まで進んで池をふり返り、公園を後にして南側の国道463号の「航空記念
公園」交差点に出て、所沢市街中心部に向かいました。




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アートウオークセラピーで横須賀市津久井を歩く(神奈川)

2016-05-02 22:33:36 | カントリーウオーク
 2016年4月24日(日)

 先月の初回は休んだ、山浦敬子さんの今年2回目の「アートウオークセラピー」と呼ぶ
ウオーキングに参加した。

 集合は京浜急行久里浜線の津久井浜駅。午前中は雨の予報のためか、参加者は敬子さん
のほかは茅ヶ崎のIさんと私のみ。10時ちょうどにスタートする。

 小雨模様なのでポンチョを被り歩き出したが、大したことはなく、間もなく脱ぐことが
出来た。

     
 まずは駅の北側にある浅間神社へ。聖武天皇の天平年中〈729〜48〉、僧 行基
(ぎょうき)が来て駿河国の浅間神社を勧請(かんじよう)したと伝わるとのこと。

 社殿は急石段上にあり、豊富な広葉樹林に覆われていた。

 駅前に戻り、線路の高架下を横切る道路を北西に向かい、すぐのT字路から津久井三丁
目の集落に入る。周辺にはカボチャ畑が多く、花や小さな実が見られる。


    

 200mあまり進んで看板に従い、ミカン運搬用レールの横の階段を上がり、往生院に
行く。
     
 永禄元年(1558)の開創と伝わる浄土宗の寺。本尊は、「三浦七阿弥陀」第6番の
阿弥陀三尊とか。


       
 狭い境内の周囲を墓地が囲み、本堂横に水子地蔵が立つ。本堂前に育苗中の野菜の苗が
置かれ、墓の多くが長谷川姓だった。



 下の道路に戻り先に進む。かやぶき屋根にトタンを被せた民家が2棟あり、そばの畑に
見慣れぬ花が咲く。
    
 畑にいたご主人に聞くと、セイヨウアカメガシだという。ほかに、畑の作物のこと、西
側の津久井高のこと、長谷川姓が多いことなどの話を交わした。


 次のY字路を右に入ると、キャベツのナノハナがいっぱいに咲く。キャベツから、この
ようなナノハナが咲くとは知らなかった。
    

 ちなみに、2日後に薬局でもらったナノハナの資料に、「主なアブラナ科の野菜は、ダ
イコン、カブ、キャベツ、ブロッコリ−、小松菜、チンゲンサイ、白菜などで、これらの
花はすべてナノハナになる」と記されていた。

 次第に高度が上がって周辺に気持ちよい新緑が広がり、眼下には畑や民家が望まれる。


 路傍に古い青面金剛(しょうめんこんごう)など6基が集められていて、中の二つには、
明和5年(1768)と天保10年(1839)と刻まれていた。



 高度が上がり、行く手に砲台山(204m)や武山(200m)山頂のアンテナなど
が望まれ、左手眼下に津久井五丁目の民家や畑が広がる。


 そばの畑のブロッコリーからも、ナノハナが咲き出す。


 標高50m近くまで上がり、背後の墓地から東光寺境内に下りた。

 東光寺は約1,200年前、最初訪ねた往生院同様、行基菩薩が諸国行脚の際この地に
来て草庵を結び、夢のお告げにより日光・月光菩薩と十二神将像を彫刻して、この寺を建
てたという。


 鐘楼は年代を感じるたずまい。仁王門の横に、「三浦一族碑」とも記された「津久井義
行公碑」が立っていた。
        
 津久井次郎義行は、三浦半島を治めた三浦一族の統領、三浦大介義昭の弟で、この津久
井の地名をとり津久井氏と称したとか。当寺を治国理民の祈祷所と定めて中興し、その威
光は三浦全郷に聞こえたという。


 寺の東側一帯にイチゴ栽培用の大きなビニールハウス棟が並ぶ。そのひとつに数台の車
で来た人が入り、30分で食べ放題のイチゴ狩りを楽しんでいた。
    

 その横から北へ、高度を上げて行くとミカン畑があり、ミカンの花が開花しようとして
いた。
    


 谷戸作堰(せき)と呼ぶ、いまは水の涸れた潅漑(かんがい)用ため池の横から西側の
道路に回る。すぐ先のY字路際に周辺の観光農園の案内図があり、イチゴやジャガイモ、
サツマイモ、ミカンの収穫を楽しめる場所がたくさん記されていた。


 北に砲台山が近づき、眼下には観光農園の大規模なビニールハウス棟が広がる。


 南東に少し下り、11時38分にせせらぎ公園に入り、東屋(あずまや)で昼食にした。

 公園は、もと水間戸堰と呼ぶため池だったよう。公園のせせらぎの上には、小さな吊り
橋が架かる。


 食事を終えて記念撮影をして、12時過ぎに公園を出る。


          こちらは、敬子さんに撮ってもらった写真のコピー。
         

 南西に緩やかに下り、津久井五丁目の集落中心部へ。Y字路際に馬頭観音や庚申塔、青
面金剛などが並び、石の小さな祠(ほこら)も祭られていた。



 集落を北西に進むと民家の斜面に大株のツツジが数本咲き競い、コデマリも花いっぱい。


 さらに緩斜面を上がって円乗院へ。本堂前にバショウが立ち並び、この地の暖かさが知
れる。



 車道をS字状に上がり集落を抜けると、ピーク付近からは集落の展望が広がり、南西に
アンテナの林立する一角が望まれる。

 帰宅後調べたら、三浦市初声町高円坊(はつせまちこうえんぼう)にある総務省の三浦
電波監視センター。短波帯と宇宙電波の監視をしている日本唯一の施設のようだ。

 思い出すと、半世紀以上前の1960年代前半の職場で、「電波監理局初声」の名を知
ったが、当時は郵政相の施設だった。

 蛇足ながら、当時の二つの職場では全国各地の地名を知ることが多く、ウオーキングな
どでその地に行くと、それら地名や関連の公共機関とか企業名などをいまも思い出す。


 道路際はビニールシートに覆われた畑が多く、シートの中は大豆の小さな苗だった。

 下りとなった三つ目のカーブ点の木の下にも3基の青面金剛石像が並び、その二つの年
号は文化年代(1804〜18)である。
    

 今日もらった地図の西端、須軽谷(すがるや)の扇山集落まで進み、山腹に祭られた八
幡神社に上がる。


 拝殿の右手に、トタン板に三方を囲まれた古木があり、どうもこのウオークで以前来た
ことがあるように思われた。
     
 帰宅後確認したら、2014年11月23日に来た、須軽谷八幡神社だった。入って来
た方向が違うので、覆われた古木を見るまで気付かなかったのだ。

 正面の石鳥居には、天保10年(1839)と刻まれていた。


 同じ道を戻り、扇山集落の東端辺りからは別の道を少し迂回してまたもとの道に出た。
S字状カーブの南端付近の十字路から、横須賀市と三浦市の市境を走る稜線上の道を南へ
と向かう。

 東方に海と房総の山らしいのが望まれるが、霞んではっきりとは認識できない


 放置されたアブラナ科の野菜から咲き出したナノハナ畑が広がり、背後に武山の稜線が
望まれる。


 この辺りでスケッチタイムとし、敬子さんは短時間で1枚描きあげた。


 周辺に広がる、カボチャや大豆などの畑を眺めながらの道は、車も通らず安心して歩け
る。


 地図上の標高54mの十字路際にも、嘉永元年(1848)と刻まれた青面金剛など、
6基の石像が並んでいた。



 市境を離れて津久井四丁目まで下り、道は南東に向かう。いまは珍しい裸電線に止まっ
ているのは何だろう。I さんはハトだろうと言うが、もっと小さい鳥のようにも見える。


 下のグランドから歓声の聞こえる津久井高の南西側高みや老人ホーム前を通過し、津久
井浜駅の上を通過する跨道上まで戻る。


 線路の北側を下り、津久井駅には14時ちょうどに着いた。

 あちこちでウグイスがさえずり、緩やかなアップダウンで変わる新緑の山並みや野菜畑
などの眺望を楽しみ、車もほとんど気にすることなく歩け、気持ちよいカントリーウオー
クだった。

(天気 小雨後曇、距離 7辧地図(1/2.5万) 浦賀、歩行地 横須賀市、歩数
 14,400、累積標高差 約400m)
 



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木曽福島・奈良井宿を経て松本へ(長野)〈後半〉

2016-04-30 23:09:47 | Weblog
 2016年4月20日(水)〈後半〉  == 松本市街中心部の湧水を巡る ==

 奈良井駅からのJR中央線下り普通ワンマンカーは塩尻で篠ノ井線に入り、終点の松本
駅に14時15分に着いた。

 帰路の上り特急電車まで約2時間半余りある。その間に松本市の中心街周辺にある湧水
巡りをすることにして、駅の改札口近くにあった観光案内所で「信州松本城下町湧水群」
というパンフレットをもらう。

 松本は、女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)の複合扇状地により、豊富な地
下水が湧出する湧水地帯。市街地中心部には、いまも多くの自噴井戸や湧水が点在し、市
民の手により手厚く保護されていて、「平成の名水百選」にも選定されている。

 私は、2008年8月2日にも市内の湧水巡りをしているが、もらったパンフレットを
見ると、さらに湧水の数が増えていた。今回も、ほぼ同じエリアを回ることにして、14
時25分に松本駅お城口(東口)広場に下りた。


 駅前広場は以前より拡張されて広いスペースとなり、広場の北側に「深志の湧水」と呼
ぶ新しい湧水があった。


 傍らに、北アルプス槍ヶ岳開山の祖、播龍上人(ばんりゅうしょうにん)の立像がある。
播龍上人は幾多の困難を乗り越え、文政11年(1828)7月20日に槍ヶ岳山頂を極
めた。
     
 「日本アルプス」の命名者イギリス人ウィリアム・ガウランドの登頂に先立つこと50
年で、岳都松本市の駅頭にその業績を称えて建立したのだという。

 この先あちこちで見た松本市のマンホールデザインは、松本手まりを描いたもの。
    

 駅前から北北東に延びる通りを進み、東西に走る伊勢町通りへ。交差点際のMウイング
というビルの前に、やはり松本手まりを形どったからくり時計があった。

 午前10時〜午後8時の毎正時に、2曲を演奏するという。

 伊勢町通りの街路樹のアメリカハナミズキが、開花しはじめていた。


 少し北進して女鳥羽川左岸の開智橋際に出る。東側の中央大手橋に回ると、次の千歳橋
近くでたくさんのこいのぼりが、風をはらんで気持ちよさそうに泳いでいた。




 松本中央通を北へ、二つ目の交差点際には「西堀公園井戸」があり、掛樋(かけひ)か
ら湧水が流れ出ている。


 東進して松本城への通り、大名町通りとのT字路際、大手門駐車場の南東隅は「大名町
大手門井戸」。

 御影石造りの上部から細い流れが落ち、井戸の傍らに新しい双体道祖神が設置されてい
た。
        

     
 大名町通りの街路樹は、「かおり風景百選」に選定されたシナノキで、若葉が爽やかな
彩り。花は夏に咲き、芳香があるという。
    

 北進して次の通りを西に少しで、地図に「お城の見える井戸」と記されているが、その
辺りを探したが無い。でも確かに、細い通りの間から北に、松本城が望まれた。
     

 大名町通りに戻り、次の松本城南交差点に向かう。途中の古書店は、松本城天守を形ど
った造り。松本城はすぐ先である。
     

 松本城南交差点の松本信金前には「大名小路井戸」があり、3つの吐水口から湧水が流
れ落ちていた。


 そばに、松本藩歴代藩主の姓と年代が記されていて、6家23代の藩主が135年にわ
たり松本を支配していたことが知れる。
    

        
 東に向かい東門の井戸を目指す。民家にムラサキモクレンが咲き、信州特有の本棟(ほ
んむね)造りの食事処や、蔵造りの和菓子店前を過ぎる。




 上土通りとのT字路際、上土・下町会館前が「東門の井戸」。豊富な湧水が出ていたの
で、のどを潤す。ここは松本城東門跡で最大の馬出しの場所とか。町民や農民はここから
城内に入ったという。


 南に延びる上土通りは「大正ロマンの街」と呼ばれ、大正時代の建物が幾つか残る。こ
れはそのひとつ、松本市下町会館。
     

 近くには、私も使ったことのある古いカメラや8弍納無,鯤造戮薪垢あった。


 つぎのT字路を左折し、突き当たりで国道143号・善光寺街道へ。春の限定品「わさ
びの花の醤油漬」の標示にひかれて漬物店水城に入り、その漬物を求める。



 さらに南東へと右左折して、女鳥羽川の北に平行する通りへ。市街地唯一の造り酒屋、
善哉(よいかな)酒造の店舗前に「女鳥羽の泉」が湧出していた。敷地内の地下30mか
ら自噴しているのだという。



 念来寺橋で女鳥羽川を渡り、旧念来寺の鐘楼が目につく妙昌寺境内に入る。

    
 旧念来寺鐘楼は、宝永2年(1705)の建立で長野県宝。江戸時代中期のこの地方の
寺院建築の様子を今に伝える、大変貴重なもののよう。そばのハナモモが花盛りだった。
     

 境内に「妙昌寺の井戸」があるが、渇水期には枯れるようで、湧水は見られなかった。


 女鳥羽川左岸沿いを次の鍛冶橋際まで進む。左折した南に延びる通りの路傍に「伊織
(いおり)霊水」があり、そばに鈴木伊織の墓が立つ。


 鈴木伊織は貞享3年(1686)、重税に反対した農民一揆に関わった農民たちの助命
救済に奔走した武士という。
     

 石造りの湧水は以前来た時のままだったが、水を飲むために用意された善意のひしゃく
が、何者かに持ち去られていたのが残念だ。
        

 南側の中町通りに入り西へ、駅方向に向かう。大橋通りとの交差点際に「西伊澤屋辻井
戸」と呼ぶポンプ井戸があり、手押しポンプを押すと豊富な湧水が流れ出た。
     

    
 民家にアメリカハナミズキの咲く大橋通りを南下し、小さい流れの蛇川の先で右折する。
瑞松寺の斜向かいの中村眼科の前には、新しい「中村眼科の湧水」が流れ出ている。


 すぐ先が、松本の湧水群で最も知られ、松本市特別史跡の「源智(げんち)の井戸」。
松本市水道局の水源のひとつで、松本に城下町が形成される以前から飲料に用いられた古
い歴史をもっているという。

 古い所有者は小笠原氏の家臣、河辺縫殿助源智(かわべぬいのすけげんち)で、その名
をとって「源智の井戸」と呼ばれるようになったようだ。

 天保14年(1843)刊行の「善光寺道名所図会」↓にも「当国第一の名水」と記さ
れ、松本の町の酒造業者はことごとくこの水を使い、歴代の領主も保護したとか。明治
13年(1880)の明治天皇巡幸時には、この水が御膳水として使用されたという。
    
     (現地(源智)にあった「源智の井戸」リーフレットから)

 いつもポリタンクを幾つも持ってきて水汲みする人がいるが、今日も1人来ていた。

 次の十字路を北進して仲町通りに向かう。途中の民家の玄関横からも、湧水が流れ落ち
ている。
       


 仲町通りの角にある谷口はきもの店は、正保4年(1647)の創業とか。その一隅に、
地下9mの井戸から汲み上げた「檜物屋(ひものや)の井戸」が、流れ落ちていた。
     


 次の交差点際の草庵別館前には、「草庵の井戸」がある。
     


 これらの店を始め、中町通には白壁土蔵造りの店が連なっている。


    
 大きな蔵造りは、「中町・蔵シック館」とも呼ぶ「松本市中町蔵の会館」。その前のポ
ンプ井戸は「中町蔵の井戸」で、地下25mから汲み上げているという。


 次の交差点を左折して南へ、この通りの藤森病院は明治22年(1889)の開院との
こと。現在の新病院建設時に掘った専用水道用の深井戸からの水が、「亀の泉」として流
れ出ていた。
     

 蛇川の流れを横断して、次の高砂通りを左折して西進する。この通りは人形町通りとも
呼ばれ、五月人形を並べた人形店が連なる。


 先ほど通った本町通りの南側を横断して公園通りに入り、JR松本駅に16時40分に
戻った。


 松本駅構内で弁当と缶ビールを求め、16時58分発上り特急スーパーあずさ28号に
乗る。

 松本へは、やまさんの安曇野のカントリウオーク地図づくりや、国際ウオーキングトレ
イル実踏、単独での塩の道歩きなどで何度も来ているが、いつも普通電車の乗り継ぎで帰
っていた。今回のように特急に乗るのは何年ぶりだろうか思い出せない。

 それにしても3日間好天に恵まれ、サクラなど春の花や豊富な新緑を目にして、各地を
巡ることが出来た。ウオーキングといえるほどの距離は歩かなかったが、充実した春旅を
楽しんだ。





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木曽福島・奈良井宿を経て松本へ(長野)(前半)

2016-04-29 23:16:55 | Weblog
 2016年4月20日(水)(前半)  == 中山道 木曽福島と奈良井宿 ==

 最終日も好天に恵まれた。8時半前に駅近くのビジネスホテルを出て、名古屋駅から9
時00分発JR中央本線下り特急しなの5号に乗る。


 普通電車への乗換駅、木曽福島に10時24分に着いた。次の普通電車まで40分ある
ので、途中下車して駅周辺を少しだけ回ることにする。木曽福島は、中山道ウオークで
2006年10月12日に泊まって以来の9年半ぶり。



 駅前の観光案内所で観光地図をもらい、北東に緩やかに下る。

    
 左下からの道と合流したY字路付近の家には巣が多いようで、ツバメが幾つも低空を飛
び交い、徐行を依頼する立て札もある。
       

    
 そばの民家の路傍に中山道の標石と、新しい双体道祖神が祭られていた。周辺の店舗に
は、新入幕を遂げた大相撲の地元力士を激励する張り紙がある。
       

 中山道ウオークの際に泊まった宿「むらちや」付近まで行き、折り返して駅前に戻る。
       

       
 駅前交番付近からは、周辺に咲き出したサクラなどの花が望まれる。


      

 駅に戻りホームに上がったら、線路際にD51775号機が保存されているのが見えた。



 木曽福島駅11時04分発下り普通電車に乗る。車中から、残雪の中央アルプスの山並
みが望まれた。


 今日の観光予定地のひとつ、中山道(なかせんどう)木曽路 奈良井宿(きそじ ならい
しゅく)の玄関口、奈良井駅に11時25分に着く。

 奈良井宿は、標高1,197mの鳥居峠上り口にある鎮(しずめ)神社を京都側の境に、
奈良井川左岸沿いを緩やかに下る約1劼砲錣燭訥並みを形成する日本最長の宿場である。

 身近な歴史的資産の再確認と継承・維持を目的の街並み保存運動が、他に先駆けて昭和
43年(1968)から始まった。その後、昭和53年に国の重要伝統的建物保存地区に選
定、さらに平成19年(2007)には、「美しい日本の歴史的風土百選」に選定される
など、景観を生かした地域づくりを継承している。

 私は中山道ウオークで、2002年9月と2006年10月に訪れており、3度目にな
る。次の下り電車までの2時間で、その後の奈良井宿の観光をすることにした。


 まずは、駅のそばのそば処「楽々亭」に入り、おろしとろろそば(1,000円)で腹
ごしらえ。
    

 店のそばのサクラの若木が、ちょうど見ごろである。



 すぐ先から、奈良井宿に連なる町家(まちや)の家並みが始まる。町家の一つに掲げら
れた温度計は17℃、ちょうど良い気温である。


 奈良井宿には6つの水場があり、飲料水などに利用されているが、これは最初の水場。
ひしゃくで飲むとまろやかな味わいで美味しい。
    


 町家の各々には様々な飾り物があり、それを見るのも楽しみなもの。



 家並みには木曽漆器を扱う店が多く、そのひとつ「さわや漆器店}に入り、木曽漆器の
箸(はし)を求めた。
    

        




 3つ目の「横水」と呼ぶ水場を過ぎる。そばの町家にはツバメが巣を作り、姿を見せて
いた。
    

 近くの大宝寺は、天正10年(1582)、奈良井義高が自らの菩提寺として開山した
と伝わる。


 境内には、昭和の初め近隣の薮(やぶ)から発見され、隠れキリシタンが信仰のために
密かにつくったといわれるマリア地蔵があるというが、拝観(有料)は省く。



 さらに同じような造りの町家が続き、中ほどに「奈良井会館」と呼ぶ観光案内所がある。
       


 そばのT字路を入ると「本陣跡」の標柱が立ち、そばのソメイヨシノや奥の郵便局周辺
のサクラも見頃になっていた。



 旅館や漢方薬の薬局、食事処などが連なり、次の水場も現れた。


    



 文政(1818〜)から明治まで下問屋(しもとんや)を務めたという御宿「伊勢屋」
は、脇本陣も兼ねていたようで、建物も当時のものらしい。


    

 近くの上問屋(かみとんや)史料館は天保年間(1830〜)の建築で、もと手塚家住
宅。国の重要文化財で、明治13年(1880)6月28日に明治天皇の行在所(あんざ
いしよ)となり、当時の部屋がそのまま残るというが、入館(入館料300円)は省いた。



 道路が鍵型(かぎがた)に曲がる鍵の手のところのソメイヨシノも満開、その下には鍵
の手の水場がある。
      

 奈良井宿のマンホールデザインには、コイらしい魚が描かれていた。
    

 すぐ先の中村家は櫛問屋(くしどんや)として栄え、出梁(だしばり)造り、鎧庇
(よろいひさし)、猿頭(さるがしら)など奈良井宿の町家の特徴をよく残していて、国
の重要伝統的建物群中の代表的な民家で、奈良井宿保存のきっかけともなっ貴重な建物と
か。

 塩尻市有形文化財で、史料館として公開(入館料300円)されている。

 道路を挟んで唯一、医院のような洋風建物があり、奈良井宿では場違いな感じだが、他
の町では有形文化財になりそう。



 T字路際に観光客で賑わう土産店が並び、T字路の南西側には奈良井宿民芸会館がある。



 その先少しで奈良井宿の西端となり、緩やかな鍵の手のところに復元された高札場
(こうさつば)が立っていた。



 高札場の場所は宿場間の距離を測る起点で、京(京都)方の入口でもあったとか。
そばに宮の沢の水場もある。

 奈良井宿の水場は生活用水の確保や、火災発生時、連なる家々への延焼防止のために、
山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられ、中山道を歩く多くの旅人ののども潤し
たとのこと。

 6カ所の水場はそれぞれに水場組合を作り、維持管理を行っているという。水場の背後
には、庚申塔や道祖神などが並んでいた。



 水場の先から鳥居峠への山道が始まり、その入口に鎮神社が祭られている。拝殿に参拝
後、駅に向かって折り返すこととする。


 神社から奈良井宿を見ると、気付かなかったが次第に高度を上げていたことが分かる。



 13時10分頃奈良井駅に戻る。上りホーム際にも2本のソメイヨシノが花開き、奈良
井宿の春の到来を告げていた。



 13時25分発下りワンマンカーに乗り、松本駅に向かう。(続く)





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