さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

太田絢子の短歌 「50首抄」から

2017年03月19日 | 現代短歌
 「短歌往来」2017年4月号は、日本の橋の歌と、太田絢子の特集が興味深い。
足立敏彦のすぐれた「50首抄」の選歌の中から、太田絢子の歌を引きながら書いてみたい。


歪みすら美しと見つつ古き秩序破れゆく日をわれは信ずる

変節のわれにきかせる鎮魂歌あらがひて一夜眼をさましゐる

高圓山遠く来にしが一滴の泪なき眼によく霽れて見ゆ
                    『南北』

※「高圓山」に「たかまどやま」と振り仮名あり。「泪」は、なみだ。「霽れ」は「はれ」と読む。

『南北』は昭和三十九年刊。「歪み」というのは、戦前、戦後の大変動期に政治・社会・文化の各所で起きた混乱や行き過ぎなどを指す言葉だろう。「変節」というのは、思想的なものだけではなく、この歌の場合は、自分の生き方を含む広い意味で解釈した方がいいだろう。たとえば、父母の言うままに就職したり、結婚したりするつもりはなかったが、そうしてしまった、とか、そういう何か生活面の決意にかかわることを具体的なことを伏せて言ったのだ。

三首めの「一滴の泪なき眼」というのは、さんざん泣き尽くしてもう涙が残っていないという意味にもとれるが、その前にある歌をみると、涙ぐましい目で風景をみたりはしない、という強い決然たる意思を示す歌なのではないかと思う。自分の偶然の在りようを逆に必然として引き受ける、戦後の実存主義の感化なども感じさせる歌だ。

土の中より蕗のたうとりてかぎてみる愛執に遠き匂ひ放ちぬ

現代だとやや様式的な歌ということになるのかもしれないが、「蕗のたう」の香りが、日日離れることのできないわが愛執の念から遠い清らかさ、さわやかさを持っていて救われるというのは、わかるではないか。

こういう女人の歌を男性歌人が読んでいいと思って評価するという、それがいやだ、というのは、現代の鋭敏な感受性と自意識を持った女性の歌人の言う所ではあるが、この和服を着た情念のエロス表出の価値を、同性としても感ずるところはあるだろうと思うので、女性同士のそういう感情の持ち方については、作家の有吉佐和子が名作『紀ノ川』に描いた母子の葛藤を、太田家にとついだ太田絢子の人生と多少重ねてみたら、類推的により理解が深まるところがあるのかもしれない。

周囲の家族が全部歌人だから、こういう抑制した様式的なもの言いに託すわけである。そういう歌に痺れた男性読者がゆるせない、というのが、また新時代の女性歌人の思いだから、そこはぐるぐる循環してしまう。かと言って、このようにしか表現し得なかった思いを汲まなければ、作者に気の毒だ。


めぐり幾里もあらぬ小さき島に来て眠る時海は胸元の高さ

あぢさゐの玉の孤立をたしかむる紫ふかき六月の聲

わが前に置きし林檎がうつすらと埃を被るまでの日空虚か充實か 

                       『飛梅千里』

二首めの「あぢさゐの玉の孤立」も、へたに同じ「潮音」の葛原妙子の歌と比較したりするのでなくて、上に私がのべたような固有のこだわり、内面の屈折とかかわらせて読んでみたら、修辞のかたちを吟味するだけではない読みとして、作者の存念も晴れるというものであろう。

飛鳥路の石白くしてあたたかき冬陽の中のわれの夢殿

 この歌の「夢殿」は、現実の夢殿に接していながら作られたものであると同時に、まさにおのれの内世界を信ずる歌なのでもあって、やわらかく美しい調べを通して、幽暗の宗教的思念を明るい陽光のもとに引き出してみせている。太子の信仰が、時をへだてて浪漫的な追想として昇華されたかたち、そのような歌として読むことができるだろう。

彩雲をまきつつ流るる長江の秋の一日われ浮びをり
                      『雲南』
 ※「彩」に「あや」と振り仮名。


 旅の中で美的なイデーを官能的なまでに現前化して感ずる能力は、女性が強く持っているものだと思うが、「秋の一日われ浮びをり」というのは、うらやましい浮遊感だ。この高揚は、古典詩を携える旅でなければ得難いものだろう。ヨーロッパ人にとってのギリシャやイタリアが、日本人にとっては中国の故地である。

蝕甚の闇に聲して月見草一寸ほどの芽を出せる宵

 日食の日に、こんな素敵な歌が作れるのは、心の持ちようが深いからだ。こういうところに短歌にかかわる人たちの感性と思考の修練がある。情念の修行を言葉を介して日々積み重ねている。

享年八拾七と言はるるか米壽の和服匂ふをたたむ
                  『月影』

 下句のゆるやかな言い方にしみじみとした夫への思いがにじむ。
和服を着ていた時代の愛の表現と言ったらいいだろうか。

人生は花むらさきのつゆくさの咲くいちりんにも及ばざるなり
                  『桃夭』

 ここには、自身の加齢をふまえながら、山川草木悉皆成仏のなかに自らもまぎれていきたいとする日本的な感性の持つ深い謙遜があらわれている。草花を介してのべられた人生哲学。戦後のヒューマニズムを発条として開始された太田絢子の感性の旅は、ここに至って人間存在への問いかけを含むところに行きついたのだ。
 
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