不定記

ここはsagittaが書きたい時に書きたいことを書くスペースである。更新は不定期。そのため日記ではなく不定記なのである。

芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』

2010-09-30 | 批評のようなもの:その他
古代マヤ・アステカ不可思議大全


すてきな本に出会った。

読んで良かった本とか、他の人に勧めたい本とか、そういうのにはたくさん出会ってる。
でも、本そのものに惚れて、これから先何十年も家の本棚に置いておきたい!なんて思った本は本当に久しぶりだ。
本文に使われている紙の質とか、ソフトカバーで派手すぎないけど楽しげな色の装丁とか、全体の雰囲気も相当好き。
自宅ブックカフェ(笑)の本棚の、特等席に置かれること決定。

前置きが長くなったけど、この本について。
マイナーだけど、面白いとこだらけのアメリカ大陸の神話や、
遺跡からおぼろげに分かってきた暮らしぶりなどを、マニアックに書きまくった本。
マヤ! アステカ! なんかわくわくするけど、難しくて、くわしいことは全然知らない、って人がほとんどだろうと思う。
僕もその一人。でも、なんかわくわくする、ってステキだよね。
全然知らないのも、これから新鮮に驚ける要素がつまっている、ってことだし。

そして、全編手書き。
さらっと言ったけど、とんでもないことだ。
イラストはもちろん、びっしりと書かれた文字が全部手書きのものを、取り込んで印刷してある。
ほぼ全ページ黒一色で、細いペンでひたすらに手書きされたその本の見た目は
もはや、中学校とかの学級新聞そのもの。
もっとも、今は学級新聞だってパソコンで作るのかもしれないけどね。
なんでそんなめんどくさいことをしたんだ!と誰だって思う。
パソコンに比べて労力がハンパない。
それに、正直言って読むのも大変。
活字ならさらさらと読み流せるのに、手書きだといちいち頭の中で解読するからか、
予想以上に読むのに時間がかかる。
いつのまにか僕らはすっかり活字文化に染まっているんだなぁ、なんて思う。
でもそれでも、この本が手書きであることはすごい魅力だ。
僕らからすると全く馴染みがなくて、遠い存在であるマヤ、アステカの文明が、
手書きの文字によってすごく近く感じられる。
えらい学者先生がまとめた考古学の本じゃなくって、好奇心旺盛で変わり者なクラスの友達が、
目を輝かせながら語ってくれる不思議な話。そんな感じ。

内容はといえば、意外にも「簡単、すぐわかる!」という感じじゃない。
出てくる内容もごちゃごちゃしてるし、そもそも分厚い(約300ページ!)。
しかも、これでもか、というほどに詰め込まれた脱線的な、トリビアっぽい情報だらけで、
どれが本筋かわからなくなったりもする。
でもそれがまた、自分の話に興奮しながら熱く語る友人っぽくていいんだよなぁ。
考えてみれば、古代の神話なんていう役に立たないことに夢中になっているんだから、
合理的なことなんかとは無縁で、脱線こそが楽しいんだもんなぁ。
世の中、分かりやすいとか、手間をかけないことがもてはやされてるけどね、無駄はロマンなのですよ。

偉そうな学問っぽくはないと言ったけど、だからと言っていい加減に作られてるわけじゃない。
そこはオタクらしい熱心さを発揮して(笑)、大量の参考文献を参照して膨大な情報量になっている。
もともと学会でもまだわからないことだらけの文明だし、門外漢の気楽さもあって、
ちょっとトンデモな説も、「こんなことを言っている人もいます」なんて取り上げているのがまた楽しいんだよなぁ。

そんなわけで、一気に読み終えて「役に立った」とかなんとか言うんじゃなく、
家においておいて、何年後でも、気が向いたときに手に取りたくなる、そんな素敵な本なのでした。

ギリシャとかエジプトとかの本もあるらしいぜ!
これは本棚に並べねばなー。
見てみたい人は、うちに遊びに来るといいよ(笑)!

楽しむことと楽しまされること。

2010-09-20 | 思うこと
ツイッターで、
「最近は、子どもたちが公園で集まって無言で携帯ゲームをしている」
という話が出たのをきっかけに、少し考えてみた。

僕より上の世代の人なんかは、この話を聞いて、あるいは実際にそういうのを見て、
眉をひそめる人が多いだろう。

教員経験もある、乙武洋匡さんはツイッターで、
「大人の不甲斐なさを突き付けられているようで、猛省。」
とコメントした。
僕も個人的には乙武さんの意見に近い。

一方で、
「それは時代の流れなのだから、批判することではない」という意見もある。
これもまたその通りだ。
僕らも、「第一次コンピューターゲーム世代」として、
大人たちに「ゲームなんてやるのはやめなさい」といわれて、
「ふん、昔のことしか知らない年寄りにはわかんねぇよ」なんて、
反発したりもした。
だから、頭ごなしにゲームを否定するような言葉には、今でもかちんと来たりする。
親たちの世代だって、「テレビっ子」などとよばれてその親の世代からはあきれられたもんだ。
人間ははるか古代から「最近の若いやつらは……」と言い続けてきたんだから、
子どもの遊びを批判するようになったらもう若くない証拠なのかもしれない。

でも、とはいいながらも、やっぱり僕が子供にはゲームばかりして欲しくない、と思ってしまうのは、
コンピューターゲームというものが、結局のところ、
すごく受動的なものにしかなり得ないからだと思う。
自由に好きなところにいける、と思わせて、実は決まり切った道筋を追いかけている。
自分で楽しむのではなく、楽しまされている。

別に、それが悪いというわけではない。そういうエンターテインメントなんだから。
それを理解している大人が、「ちょっくらたのしまされてやるか」
と思ってやる分にはすごく素敵なものだと思う。
だけど、まだ色々な楽しさを知らずにいる子供が、そんなすごいものに直面してしまうと、
「楽しまされる」事が当たり前になってしまうのではないだろうか。
「楽しみ」というのは、お金を払って、新しいゲームを買うことで得られるものだ。
そんなふうに思ってしまっても、なんの不思議もないと思う。

つまり、ゲームの「与えられた楽しさ」っていうのは、
「一見、何もないところに、楽しみを見つける」という機会を、
ものすごく暴力的に奪っているような気がする。
僕は、子供の頃ゲームを買ってもらえなくて、
だから友達を半ば強引に遊びに誘って、それはもう色んな遊びを考えた。
アウトドアなタイプではなかったから、外で走り回るものばかりではなかったけど、
探検ごっこ風に、近所の山を登って石やらなんやらを掘り返してみたり、
マンガや小説もどきを書いて回したり、
キャラクターを作ってサイコロをふってできるゲームを考え出したり。
そして最終的にはTRPGというものに辿り着いた。
同じゲームでも、コンピューターゲームと違って、
想像の余地がものすごくある、極めて能動的な、遊び。
僕がものを書くようになったきっかけと言っても、過言じゃない。
もしもあの時、自由にいくらでもゲームが手に入る状況にいたら、
僕は今、きっとこんな風にはなっていないだろうな、と思う。

「楽しまされること」と「楽しむこと」はイコールじゃない、ということに気付いたことは、
僕の人生にとってはとても大切なことだったんだ。

ゲームばかりする子どもが悪いんじゃない。
この場合、子どもはむしろ被害者に近いんじゃないだろうか。
「ゲームばかりする子ども」というのは、大人にとっては都合がいいのだ。
走り回らないし、静かだし、危ないことをしないし、手がかからない。
ゲームを買い与えることで、子どもに対する責任を果たした気になってしまう大人は、
少なくないと思う。
大人と子どもの利害が一致すれば、
そういう子供が爆発的に増えるのはそりゃあもう当たり前だ。

こんな風に考えてみたところで、子どももいない今の僕では、
単なる理想論というか、空想の話にしかならない。
けど、いつか子どもができた日に、こんなことを考えたことを
少しだけ思い出せたらいいかもしれない。
そんなふうにも思う。
子どものためというのではなく、自分が生きる未来のために、
未来の子どもたちへの思いはつきない。

穏やかな休日に、再び生まれ直す。

2010-09-19 | 雑記
「多忙は怠惰の隠れ蓑」とは、確か糸井重里さんが言った言葉。
まさしくその通りで、ここ三ヶ月、仕事が忙しいからといって、
すごくいろいろなものをおろそかにしていたなぁと、
ふと時間に余裕ができた休日に、そんなことを思う。

家事とか、家の中の片付けとかはもちろん、
人と会うこと、話をすること、文章を書くこと、本を読むこと。
「今は忙しいから無理」ってのはまぁ、
本当ではあるんだけど、なんだか寂しくなる言葉だよな。

忙しいのはこれからも、あと数ヶ月は続きそうな感じだけど、
少なくとも気分だけは、いろいろなものを捨てずに、
穏やかに生きていたいなぁ。
本当は、全く少しも、時間がないって訳じゃないんだよ。
ただなんか色々焦って、時間がもったいない気がして、
自分や、周りの人や、大好きなものに、冷たく当たってしまう。
そういうのは、もう嫌なんだ。

だから、この穏やかな休日に、ひとつ宣言。
今日をきっかけに僕は、また生まれ直します。
忙しいのは変わらず、大変で、時につらいけれど、
だから具体的には、何にも変わらないかもしれないけど。
こころだけ、気分だけは、おろそかにしないで、
大切なものを大切に思うことを忘れないようにしようと思います。

こうやってふと、息をついて休んでみれば、
僕が生きてきた軌跡が、たくさんの人々とのつながりや、
作り上げてきた思い出の中に見つけられるんだもの。
何だ、僕、ちゃんと生きてきたんじゃないか。

最近はどうもツイッターばっかりですが(笑)、
もうちょっとまとまった文章も、書くようにしていきたいな。
まずは、日記やブログの更新から。
ちょっとずつ、ね。

気分だけは生まれ変わった僕を、また、よろしくね。