不定記

ここはsagittaが書きたい時に書きたいことを書くスペースである。更新は不定期。そのため日記ではなく不定記なのである。

レビュー 大野更紗『困ってるひと』

2013-03-26 | 批評のようなもの:評論
読んだのはだいぶ前だけど、一人でも多くの人におすすめしたいから、
改めてきちんとレビューをしたい。




本の帯にある、「難病女子による、エンタメ闘病記!」というのがすべてを表している。
主人公は難病女子で、闘病記なのにエンタメなのだ。信じられないかもしれないが、これ本当。

著者にして主人公の大野更紗は、1984年生まれ。僕のいっこ下だ。
彼女の印象を一言で言うなら、「猪突猛進型学者見習い女子」。
行動力と熱意があり、頭の回転がものすごく早いながらも、
論理に偏ることなく、感情や直感をないがしろにしない。
そんな彼女が、「ビルマの難民を研究しよう!」と前のめりで突っ込んで、
タイとビルマの国境に足繁く通っていたある日。

ビルマ女子は突然の病に倒れた――。
病名もなかなかつかないほどめずらしく、
何度も生死の境をさまよったり、激痛で指一本動かせなくなるほどの難病。
だけど、ここでバッドエンドになったりしないのが、
大野更紗のすごいところだ。

病には倒れたが、物書きとしては立ち上がった――!
ビルマの難民の難民を研究するために危険な国境地帯にまで行ってしまう、
「フィールドワーカー」としての本領を発揮して、
彼女は、「難病女子」という「難民」、すなわち自分を研究対象にして、
ほんとうにほんとうに面白いノンフィクションを、書き上げてしまったのだ。

この本を読んだ直後、僕は「読書メーター」の感想に、こう書いた。

この本の、この著者のすごいところは、
「変わった体験をしていること」ではないと思う。
こんなにすごい生活をしながら、それでも「この日々を文字にしよう」と思えること。
それも信じられないくらいに巧みな筆で。
「僕はこんなに大変だ。だからなんにも生み出せないよ、しょうがないだろ」と、
何かにむかって吠えている僕とは、えらい違いだ。
著者を心から、尊敬する。


本当に衝撃的だった。

この本がこんなにも面白い理由のひとつは、
とにかくなにを描写するにしても、著者の「目の付け所」が的確かつ独創的なことにあるだろう。
なにものにも興味と疑問をもち、納得できるまで考えぬく。
現状を「当たり前」などと思うことはなく、
ひとつひとつを、理解できるまでじっくり解きほぐしていく。
かといって決して冷たく分析するというわけじゃない。
ときに誰よりも熱く、誰よりも感情的なのに、
必ず一本、論理の筋が通っているのだから、共感せずにはいられない。

病気の話だけじゃない。
何を見て、何を考えて今を生きるか。
本当は、「当たり前」なことなんて何ひとつないのに、
もしかして自分は、思考停止しているのではないか。
そんなことを改めて考えるため、すべての人に読んでほしい、名著。

文庫化もされてるし、いっぱい買って配りたいくらい。

レビュー マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

2011-02-06 | 批評のようなもの:評論
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル
早川書房


おすすめ度:☆☆☆★★(3/5)

すごく良いところと、期待はずれなところと両方があったと思う。
とにかく、文章はうまくて非常に読みやすかった。

前半はほとんどサンデル氏の思想は出てこなくて、
いわゆる「正義論」の歴史的な流れや、各論を実践的な場に引き出した場合にどうなるのか、
という思考実験を丁寧に書いている。
このあたりの部分は非常に勉強になって面白かったし、
たくさんの読者がこうした問題について思いをめぐらせる、というだけでもとても価値があると思う。
「道徳をめぐる考察は、具体的状況における判断と、
そうした判断の土台となる原則の間をいったり来たりする弁証法的プロセスを踏むべきものである」
というのは「哲学」を机上の空論にしない、重要な提案であると思う。

後半になるとサンデル氏のいう「コミュニタリアニズム」や「共和主義」の思想が出てくるのだけれど、
ここについては、正直言って全く同意できなかった。
とくに「忠誠のジレンマ」についてはことごとく反発を覚えてしまった。
「反奴隷制を掲げるリーが、自分の所属するヴァージニア州への義務感から南部の軍を率いて戦った」
という話を、「彼のジレンマを生んだ忠誠には敬服せざるをえない」などといわれても、
正直言って少しも共感はできなかった。

従来の思想についての批判は現実的で冷静なのに、
持論については「可能だと、私は思う」とか「やってみないことには、わからない」などと
夢見がちとさえ言えそうな姿勢で、説得力の欠片もないことが、すごく残念。

「政治を考えるのに、道徳的な問題を全く避けて通るということは不可能なのではないか?」
という問いまではとてもよく分かる。
そこから先については、まだまだ暗中模索としかいいようがない状態であるようだ。

レビュー 福嶋麻衣子 いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』

2011-01-19 | 批評のようなもの:評論
日本の若者は不幸じゃない (ソフトバンク新書)
福嶋 麻衣子,いしたに まさき
ソフトバンククリエイティブ


おすすめ度:☆☆☆★★(3/5)

タイトルにひかれて衝動買い。
よく見てみたら、著者の福嶋さんは僕と全く同い年の1983年生まれ。
そのせいか、社会に対して思っていることが僕ととてもよく似ていて、すごく親近感を覚えた。
「日本の若者は不幸じゃない」というコンセプト自体もそうだし。

強く共感したのは、「私たちの世代は不況ネイティブである」という考え方。
「昔はよかったのに、今は不況だから不幸だ」とか言われたって、
僕らそもそもバブル時代を全く知らないよ。
だからそんなものと比べられたって困る。
「今の若者は可哀想だ」なんて言うのは、そのバブル時代につくられたものさしを、
今の時代にも当てはめて計ろうとするからじゃないのか。
そして問題なのは、そうしたものさしが親たちの世代だけではなくて、
そうした世代に影響を受けた若者たち自身の中にもあって、
自分で自分を計って「不幸だ」と思ってしまう人が少なくない、ということ。

だけどそうした人たちに対して、「若者たちは決して不幸じゃない」と著者は主張する。
かつての価値観とは違って、若者たちは10年後20年後の安定や大きな収入がなくても、
ちょっとした幸せ、「ちょい」の成功で満足できる。
オタク文化やインターネットの中で「居場所」を見つけられた若者は、それなりに幸せであって、
過去の価値観に照らし合わせて不幸を押しつける必要はないんじゃないか、という主張だ。

僕自身、この主張に賛同するところは多々ある。
僕の今の仕事量や給料を聞くと、眉をひそめて「それは大変だ」と同情してくれる大人たちがいる。
その一方で、僕自身は自分がそうした大人たちに比べて不幸だなんて思っていない。
確かに給料は多くないけれど、週末になればたくさんの友人を家に呼んで、
あり合わせの野菜や肉を鍋に放り込み、
少しずつ買い集めたお酒で安上がりな(でも美味しい)カクテルをつくって、
しょっちゅうパーティーを開いたりしている。
鍋といったら高級食材をなにか入れないと気が済まなくて、お酒は人につくってもらうもので……
なんて思っているようなバブルの価値観を引きずっている「大人」の人は、
きっとこの楽しさは分からないんだろうな、なんてむしろ同情したりするくらいだ。

だけど、手放しでは賛同できない部分もある。
とくに、将来のこと、具体的には子供のこと。
「若者は、300~400万の収入があればいいと思ってる」
「女の子は、失敗しても家族という居場所が確保されている」
と著者は言及しているが、子供を養い、長い期間育てていく、
ということを考えたらそうはいかないのが現状だろう。
それを詳しく考えずに「今の若者は不幸じゃない」といったところで、
それは問題を先延ばしにしているだけだ。

そういう話を、もっと細かく検討してほしかったのだけど、
残念ながら上記のような主張が書かれているのは冒頭の導入部だけで、
それ以降は福嶋さんが運営するアイドルライブバー「ディアステージ」と、
各地で広がる「オタク文化」の紹介的な内容になってしまう。
「若者のパワーをあらわす具体的な動き」として、
アイドル、ゲーム、アニメ、をきっかけとしたオタクの若者たちの
具体的な行動の例が挙げられているのだが、
あくまで紹介にとどまってしまっているなぁ、という印象。
初めからそういうクラスターに属している人は「そうだそうだ」と言うかもしれないけど、
そういう文化に理解がない人がこれを読んでも、むしろ余計に奇異に見えるばかりで、
「なるほど、確かに若者は不幸じゃないな」とは思わないんじゃないだろうか。

全体として、もう少し冒頭の主張を掘り下げて、
説得力のあるものにしてほしかったなぁと思うけれど、
僕と同年代の人の社会に対する価値観や、
上の世代から「不幸だ」と言われることへの違和感が、
こうして本になることで少しでも伝わるきっかけになるのなら歓迎したい。

著者たちの今後の活動に期待したいと思わせる本だった。

石井光太『物乞う仏陀』

2010-04-04 | 批評のようなもの:評論
ジャンル:ドキュメンタリー

読んでいて、言葉を失う。
特に最後のインドのくだりは、それが現実にあるということを、
とても受け入れられないと思ってしまうほどだ。
赤ん坊の頃にさらわれてきて「レンタチャイルド」にされ、
五歳になると手足を切断されて、
「障害者乞食」にされる子どもたち……。
その極悪非道のマフィアの構成員さえ、
元はさらわれてきた子ども。

「神の棄てた裸体」と同じく、
極めて一人称的なドキュメンタリー。
さらに若い頃に書かれた本書は、もっと荒削りで、
しばしば短絡的で、独善的でもある著者の行動に、
苛々させられたりもする。
でもだからこそ、胸をえぐられる。
著者の独善的な考えは、我々の代表であるように思われるからだ。

限りなく正直で、だからこそ痛い、ひとつの現実を描いた本。

森達也『神さまって何?』(14歳の世渡り術)

2010-04-04 | 批評のようなもの:評論
「宗教って何か」っていうことは一種のタブーのようなもので、
少なくとも日常ではきちんと語られることが少ないように思う。
「ああ、宗教ね、ああいうやつね」みたいな感じで、
誰もが分かったような分からないような、そういう対応をしている。
僕らの親の世代やもっと上の世代は、
敗戦後に「国家神道」が崩壊して、一度宗教観がバラバラになった、
その影響を色濃く残した教育を受けてきたから、
そういうこともあるのかもしれない。

でも、子どもたちはそういう影響から自由だ。
社会での微妙で曖昧な宗教の取り扱いについて、
純粋な疑問を抱く子どもは少なくないと思う。
そこできちんと答えてあげられる大人というのはとても少なくて、
「とにかくそういうもんなんだ」なんていう風に
抑え付けられてしまうと、日本はいつまでたっても、
宗教というものに対して、不自然な劣等意識や嫌悪感を
もったままになってしまう。

著者は宗教学の専門家ではないし、この本自体も、
本格的に宗教について学んでいる人には、不満の多いものだろう。
けれど一般的な、「ある程度の知識と視点を持った大人」として
十分な宗教に関する考え方を知る入門書としては、
良くできた本だと思う。
「14歳の世渡り術」というシリーズ名にふさわしい、
宗教というものに対する最も初歩の教科書として、
みんなに読んでもらいたいと思う。

もちろん、中高生の時にそういったものに
触れる機会のなかった大人にも。

石井光太『神の棄てた裸体』

2010-04-04 | 批評のようなもの:評論
ジャンル:ドキュメンタリー

著者が肌で体験した、異国の性と生の現実。
本書の中には十六のエピソードが書かれており、
それぞれが我々の想像を絶する、
異国での現実の光景をありありと描き出している。

体験記の中には主人公として著者自身が登場しており、
著者は冷静な観察者に徹することなどなく、
取材対象である女性たち(時に男性)の人生に関わっていく、
あくまでも一人称のドキュメンタリー。
それ故に、純粋な「事実」としての現実を、我々に伝えてくれる。
それは普遍でも、平均でもない、ただの一事実。
善とか悪とか、賢いとか愚かだとかいった、
「客観的な判断」などとは切り離されたところに事実はある。
誰がなんと言おうと、今この瞬間、
彼女たちはその現実の中に生きている。
そういうことを改めて思い知る本だった。

だからこそ、この作品に不必要な予断をもたらす可能性のある、
「イスラーム」という言葉はいらなかったのではないかと思う。
確かにここに取り上げられている人々はみな、
イスラームと関わりがある人たちではあるが、
地理的・思想的にも大きく離れていたりして、
現代の一個人にしてみればなんの交流関係もない。
むしろ共通点は「貧困」というべきであり、
彼女たちの置かれている状況にイスラームの戒律が
密接に関係しているものはむしろ少数であると言える。
それぞれのエピソードを強引に
「イスラーム」という共通点で結んでしまったがために、
読者に「イスラーム=貧困」、
あるいは「イスラーム=過酷な性」という安易なイメージが
定着してしまわないかということだけが気にかかる。9s

湯浅誠『どんとこい、貧困!』 (よりみちパン!セシリーズ)

2010-02-01 | 批評のようなもの:評論
これはすごい本だ。
さまざまな社会的なテーマを、中学生にも分かるように書いた、
理論社の「よりみちパン!セシリーズ」。
これは本当に素晴らしい本が多くて、
とても注目していたのだけど、この本は特にいい。
というか、中学生だけが読むなんてもったいない。
中学生から専門家まで、あらゆる人が読むといいと思う。

世の中はイスとりゲームのようなものだ。
イスから転げ落ちた人々が貧困になる。
「自己責任論」は「座れなかったヤツに問題がある」という考え。
だけど、「イスの数が少なかったのが問題だ」と
考えるべきじゃないのか?と湯浅氏は問題提起をする。
パン!セシリーズで僕がすごいと思うことは、
「中学生に向けて書く」ということの影響力の大きさを
著者がきちんと意識していて、
「自分の文章で中学生を言いくるめてしまわないように」、
ものすごく抑えて、いつも以上に内省的・自己批判的に
文章を選んでいるところだ。

この本は特に、前半がいい。
世間で非常によく言われている「貧困に対する反論」を、
質問形式で並べ、それにひとつひとつ答えている。
「努力しないのが悪いんじゃないの?」
「甘やかすのは本人のためにならないんじゃないの?」
「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」
「自分だけラクして得してずるいんじゃないの?」
「かわいそうだけど、仕方ないんじゃないの?」
どれも、メディアで聞き飽きた「自己責任論」の常套句。
それぞれへの答えが、ひとつひとつ丁寧で共感でき、
きちんと読者を考えさせるようにできている。

人間は実は公平なんかじゃない。
能力を発揮するための「溜め」が、それぞれ違う。
「溜め」の量によって、同じ努力でも結果の大きさが違う。
結果からさかのぼって努力の量を類推する「自己責任論」では、
この「溜め」の要素を無視しているのだ。

はっとさせられたのは、
「労働条件が悪くなる→貧困が増える→NOと言えない労働者になる
→社会全体の、労働条件がずるっと下がる」
という「貧困スパイラル」。
まさしくそういうことが社会ではものすごい勢いで進行していて、
「誰もが不幸になる社会」への道を突き進んでいることを、
肌で感じている。

僕も中学生の時にこの本に出会いたかった、と思う。
でも、今出会えてよかった、とも思う。
いつからでも遅くない。ぜひ読んで、自分の頭で、考えてほしい。

内田樹『街場の中国論』

2010-01-12 | 批評のようなもの:評論
いくつか読んだ内田氏の作品の中で一番面白かった。
テーマがはっきりしているせいだろうか。
「街場の」と言うタイトルが示すとおり、あるいはあとがきで、
「専門家ではない素人が書いた本」と言及しているとおり、
ここに出てくる中国論は「間違いなくこれが正しい」と
断言できる論拠があるものでもないし、下手すると結論がなかったりもして、
簡単にそれを鵜呑みに出来るようなものではない。
だからこそ、いいのだと僕は思う。
実際のところ数学の答えではあるまいし、
「中国論」のようなものに明確な答えが出せるはずもない。
それなのに、その道の専門家が書いた「学術書」や「啓蒙書」のようなものは、
読者に対してこれが間違いなく正しいのだ、と言う「説得」を試みてくる。
素人の読者はそれに簡単には対抗できないから、その内容を信じ込み、
ついつい他人に向かって「本の受け売り」をしてしまいたくなる。
もしそれが正しい論だったとしても、「受け売り」であるかぎりは実体を持たない。

ところがこの本は、あくまで「専門家ではない」と自称する内田氏が、
「わたしはこう思うのですが」「こうは考えられないでしょうか」と述べているだけの本だ。
「ああ、そうだなぁ」と思うのも、「それはちょっと違う気がするな」と感じるのも、
読者に委ねられている。
ただ読むだけでなく、読者が自分で考えないと成立しない本なのだ。

もちろん、だからといってとりとめもなく答えも出ない考え事を、
つらつらと並べているだけではない。
きちんと事前に調べ上げられた知識を基礎に、
今まで思い当たりもしなかった新しい考え方を提案しているから、
自分の今後の中国に対する考え方そのものが画期的に変わる。

内田氏の主張する「日中の世界像の<ずれ>」は、
普段から僕がニュースを見て疑問に感じていたことでもあったので、
とても興味深かった。

齋藤 孝『<貧乏>のススメ』

2010-01-05 | 批評のようなもの:評論
<貧乏>のススメ、というより、泥臭い生き方のススメ、とでもいった感じ。
今は色々豊かで便利だけど、そうでないからこそ実感できることはたくさんあるよ、という話。
「大学の時、みんなで人んちに居候して馬鹿やってた感覚がいい」とか、
「仕事が無くなるのが怖くて、ついつい仕事を受けちゃう、だがそれがいい」とか、
「やっぱ地元の仲間、サイコウっしょ!」みたいな、話だらけで、
啓蒙的なものでは全然無く、酒を飲んでは「若者よ、もっと楽しみたまえ」
と語り出す近所のおじさんの与太話、といった雰囲気だ。

「インターネットは便利すぎて好きじゃない」なんて発言も多くて、
いかにも懐古主義のおじさん、という体裁で、
ふつうなら僕らのような若い世代の反発をうみそうでもあるけれど、
綺麗にまとめた文章ではなくて、書いている当人が熱く語っている感じがするから、
微笑ましくて憎めないんだよなぁ。
ビリー・ジョエルと忌野清志郎がいいよ、だなんてお節介以外の何物でもないのに(笑)。

読み終えると、ふっと肩が軽くなっているような、
「まぁ、頑張りすぎ無くても、幸せは色んなところにあるさ」と言ってもらえるような本。
周りにそう言ってくれるおじさんがいない若者たちに、ぜひ。

香山リカ『多重化するリアル 心と社会の解離論』

2009-12-29 | 批評のようなもの:評論
非常に著作の多い著者だから、どの本が決定作なのかよく分からなくなってしまう。
この本は、単行本として発売されただけあって、
新書なんかよりは著者の考えを深くつかめるとは思う。

心理学や精神病理の考え方の中に、「解離性障害」というカテゴリーがあり、
その中に「自分が自分である実感が持てない」という、「離人症」という症状がある。
それはもはや「病理」「異常」という範囲に止まらず、
むしろ現代社会のスタンダードになりつつあるのではないか、
と著者は考察する。

「大きな物語の崩壊」が唱えられて久しいが、
そうした中で、自分が生きていることへの実感が薄れている。
そのため、肉体的・精神的な強い刺激を求めたリストカットや、
衝動的犯罪などが増加し、あるいは逆に、
身体性・社会性を持たない「ピュア」な自分にリアリティを感じ、
それを他人に保証されたいと求めてネット空間での出会いに依存する。
あるいは、そうした解離を受け入れられず、
それから逃れようと「強い当事者意識」を手に入れようとしたり、待ち望んだりする。

論拠や論理的な構造の乏しいやや感情的な文章ではあるが、
指摘されている事柄は現代のさまざまな出来事と符合する。
「なるほどそうか」と額面通りに受け取るよりは、
自分がそうしたことについて考えてみるきっかけとして優れている。

「二〇〇五年の風景より」として、一ヶ月ごとにその月にあった事件を元に、
さまざまな考察をめぐらせている第六章が興味深い。
二〇〇五年と言えば小泉純一郎首相率いる自民党が歴史的勝利を収め、
ライブドアの堀江社長がフジテレビの買収を仕掛けた年だ。
たった四年前でありながら、まるで夢であったかのような日々であり、
今のさまざまな問題の源流と言うべき事柄を抱えた年を
冷静な目で分析しているここの部分だけでも、今、読む価値があると言えそうだ。

森達也『いのちの食べかた』(よりみちパンセ)

2009-12-25 | 批評のようなもの:評論
おすすめ度:☆☆☆☆☆(5/5)

生きた牛や豚がどのようにして、パックに詰められた肉となって店に並ぶのか。
われわれの日常から隠されたその「あいだ」を一緒に探していこう、子供たちに呼びかける本。
誰もがきちんと目を向けたことのない、「場」の中を丁寧に解説していく、文字によるドキュメンタリー。
まず牛の額にピストルで針を打ち込んで脳震盪を起こさせ~といった描写は生々しく、
目を背けたくなるかもしれないが、しかしそれは自分が口にする肉というものに対して
実際に行われていることなのだから、著者の言うとおり、われわれは知らなくてはならない。
そういうものをきちんと伝えるものとして、この本には確かな価値がある。

けれど、話はそこで終わらない。
なぜ、「」というものがこれほどまでに人々の目から隠されているか。
それには、日本特有の「穢れ」に対する意識、そして「被差別」の人への偏見という現実が存在する。
一見、無関係に思えるタイトルの陰に隠しつつ、
マスメディアから隠されてきたことを子供たちに伝えようとするもうひとつの意図が、本書にはあるのだ。
本の後半では「被差別」に対する事実を詳細に伝え、
最終的に「思考停止をしてはならない」という命題を、読者に分かりやすく伝えてくれる。
恐ろしく読みやすいのに、この本はとても奥深い。子供にはもちろん、大人にも読んでほしい。

永江朗『インタビュー術!』(講談社現代新書)

2009-12-04 | 批評のようなもの:評論
おすすめ度:☆☆☆☆☆(5/5)

普段あまり意識していないが、世の中にはインタビューがあふれている。
新聞も雑誌もインタビューだらけだし、
実際にはゴーストライターが書いたタレントのエッセイも、
ノンフィクションものも、考え方としてはインタビューと言える。

インタビューに、
「ルポルタージュ風」「Q&Aスタイル」「モノローグ」
「対談」「座談会」なんていう種類があることさえ、
あまり考えたことがなかった。

そういうスタイルを含め、インタビュアーやライターは
会話そのものをより効果的にみせるための演出家でもある。
インタビュー記事の核にはもちろん、
インタビュイー(インタビューされる人)の話した言葉があるのだけど、
それらは意識的なもの無意識的を含めた、
作る側のフィルターを通したものになっているのだ。

そうしたインタビューの舞台裏を、
ベテランのインタビュアーでありライターである著者が、
ありのままに書く。

話された言葉を記事にする際の、
作る側の影響の大きさをきちんと自覚した上で、
「読者にとっていい記事」を目指して記事を作ると語る
著者の人柄に大変好感を持った。

これを読むと、色んなインタビューを読みたくなることは、
間違いないと思う。

吉本隆明『悪人正機』

2009-10-24 | 批評のようなもの:評論
ジャンル:エッセイ(聞き書き)
おすすめ度:☆☆☆☆★(4/5)

吉本隆明氏の文章は、簡単そうでいて、なかなか難しい。
正直言うと、こんなふうにさらっとまとめた文章から、
その意図をちゃんと理解することは僕にはなかなかできない。
だけど、糸井氏は「わからないことはわからないままで聞く」のがいいよ、
とすすめている。
なるほどなぁ、と思う。
少しずつ、わかっていけばいいのかもしれない。

でも僕はやっぱり理解できないと悔しいから、
この本をきっかけに、もう少し吉本氏が自分でまとめた文章も読んでみようかなぁ、
なんて思っている。
ここで語っていることはみんな、
どこかの文章で書いたことがあることみたいだからね。

この本で一番印象に残ったのは、
「自分が、他の人から自己評価よりも上に見られるような仕事は、
してもしょうがない」
という言葉。
自分が下に見られるのはいい、
でも、実際以上に偉い人や、優れた人に見られるようなことはやらない方がいい、
っていうのは簡単には実感できないけど、何だか深い言葉だなぁ。

曾野綾子『中年以後』

2009-10-24 | 批評のようなもの:評論
ジャンル:エッセイ
おすすめ度:☆☆☆☆★(4/5)

「中年以後にしか人生は熟さない。」

僕はまだ中年ではないけれど、希望を持てる言葉だ。
人はとかく、若さに憧れを持ちがちだ。
二十代も後半になると、「もう若くない」と言ったりする。
だけど、人生は長いんだから、
あんまり早く「大人」として完成してる、と思ってしまうのはつまらない。

曾野綾子さんは、
「若い時は、うまくやれれば成功、そうでなければ失敗、
だけど中年以後はそう単純じゃない」と言う。
価値は混乱し、お金を持っているが故に不幸になったり、
失ったものを考えて丁寧に生きるようになったり、
受け入れられなかったものを受け入れるようになったり。
「歴史から見れば、現代の中年は全部余生みたいなものだ」
と言いきっているのも印象深い。
余生だと思うと、
努力しても思い通りにならないことがあることも、
努力してないのに幸運が転がり込むこともある、ってことを知って、
あまりむきにならなくなる、というのは、なんだかいいなぁ。
僕はそんな風に思えるのはまだ先だけど、
そういう中年以後が待っていると考えると、
目先の物質的成功にばかりとらわれなくても、
結局人生はそれなりに落ち着くのかなぁなんて思う。

「なるようにしかならない」って実感するのも、悪くはないだろう。

速水敏彦『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)

2009-10-18 | 批評のようなもの:評論
ジャンル:評論
おすすめ度:☆☆☆★★(3/5)

本書は、評価が大変難しい。
とてもいいところと、とても良くないところが両方あるからだ。

目の付け所は非常にいいと思う。
本の中で挙げられている数々の具体例は、
「若者」たちと同世代である僕の目から見ても、
確かにその通りだと言えるものが多い。

他者を見下すこと=「他者軽視」はすなわち、
他者を見下すことで、強引に自分を高く評価しようという「仮想的有能感」の表れであり、
それには、

1.優れた電子機器を使いこなすことによる万能感
2.マスメディアの発達により世界を上から見下ろしているような錯覚をもつこと
3.人間関係の希薄化により、他者の本当の力量を知ろうとしないため、
他者を軽視するのが容易になっていること
4.他人の欠点を暴くようなマスコミの存在や、
人を馬鹿にすることで笑いをとるバラエティの影響などで、
人を軽く扱うような風潮が増えていること

などといった原因がある、という考察は、とても鋭いと言えるだろう。


一方で問題なのは、せっかく視点が優れているのに、
最初から最後まで
「最近の若者は他人を見下す。昔は良かったのに」
という懐古主義にあふれていることだ。
60過ぎの著者の言う「若者」の定義が曖昧であるために、
根拠としてあげているいくつかの例がかみ合っていないこともあるし、
ひどい場合には、その結論のために、
せっかくの研究データの分析に大きく色眼鏡がかかっているところも見られた。
自分で述べているとおり、
「若者だけでなく、現代人すべてが仮想的有能感に陥りやすいと言えるかもしれない」のに、
「文化の変化の影響を最も受けやすいのはやはり若者たちであろう」
などという一般論で片付けてしまっていたり、
著者の調査結果からすれば、仮想的有能感が高いのは若者と高齢者であり、
それからすると「他人を見下すのは若者と老人たち」であると言えるのに、
「より重要なのは若者の方だ」などと根拠もなく主張されてしまうと、
当事者である僕などは、どうしても反発を感じてしまう。
最後に無理矢理本をまとめるように、
「しつけを回復しよう」
「子供たちに達成感を与えて自尊感情を強化しよう」
「もっと家庭で感情を交流させる場を作ろう」
などと言っているのも、あまりにとってつけたような陳腐さで、
今までの考察は一体何だったんだ、と思わずにはいられない。


そうした問題点はあるにせよ、
今、社会にこうした傾向があるということ、
そして、それには社会的な様々な要因が関わっていることを、
問題提起したということ自体には、大きな意味があると思う。