場所にまつわる記憶と省察

時間と空間のはざまに浮き沈みする記憶をたどる旅

秩父最奥の地・栃本

2017-07-15 13:52:03 | 歴史、記憶、紀行
 栃本は中山道と甲州路を結ぶ脇街道--旧秩父甲州往還のほとりにある。現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。
 そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。かつてそこは宿場もあり、関所のある場所として重要な役割を果たしてきたところであった。最盛期栃本の賑わいはどれほどのものだったのだろうか。旅人が行きかう街道は、つねに活気に満ちあふれていたのだろう。それが、今は、山深く分け入った奥所にある、ひっそりと息づく山村に変わり果てている。
 満々とした秩父湖の水面を左手に眺めながら、さらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。栃本の集落である。
 今でこそ、屋根はトタンで葺かれ、そこらにある民家とさほど変わらぬ造りになっているが、かつては、栗の柾目板を葺いた屋根であった。それでも内部に入ると昔のままの造りの家もあるという。歴史的には、これらの民家は、秩父甲州往還の宿場の旅籠として使われてきたものであった。それが、今の世の要請に答えて山里の民宿としてよみがえっている。
 それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は鮮明であった。尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちるような地形。それを目にした時、私は軽いめまいのようなものに襲われたものである。
 その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛行機の窓から外界を眺めた時と似ていた。視線がぐんぐんと斜面を転がり落ち、左手の荒川の谷底に吸い込まれてゆくのであった。やはりこの地は山深いのである。こんな辺鄙な場所で生活するには、いろいろと不便がともなうことだろうし、苦労もあることだろう。今は村営のバスが山ふもとの三峰口から出ているとはいえ、不便さは一向に解決していないのである。
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 旧秩父甲州往還は、その名が示すように、中山道の熊谷宿から寄居、秩父、大滝村とたどり、雁坂峠を越えて甲州へと通じる街道であった。とりわけ、秩父の山中に入ってからの、栃本~雁坂峠間の四里四丁の険阻な道は難所とされ、旅人は大いに難儀したという。この街道、じつは栃本を通り過ぎたところで、二手に分かれる。左すると、前記の雁坂峠越えの甲州路であり、右すると十文字峠を越えて信州側に抜けることができた。
 いずれの道をめざす旅人も、とりあえず栃本で旅装を解き、そこで一泊したあと、甲州あるいは信州に旅立ったのである。
 そもそもこの街道が開発されたのは、戦国の世の武田信玄の時代である。信玄は、このルートを甲州と武蔵を結ぶ最短距離の道として着目し、軍用道として街道の一層の整備に力を注いだ。以来、秩父甲州往還は、武州、上州、甲斐、駿河を結ぶ重要路になったのである。
 この往還道は、江戸時代になってからも、文物の交流ルートとしてだけではなく三峰詣、善行寺詣、身延山詣、秩父札所めぐりなどの庶民の巡礼道として栄えた。
 さらに、明治になってからは、生糸が交易の中心になったこともあり、繭を扱う商人の行き来がさかんになった。秩父でとれた繭は、山梨県側の川浦に運ばれ、そこから塩山に送られた。そして、帰りは、馬の背に米が積まれたのである。
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 ところで、この栃本に関所が設けられたのはいつ頃のことなのだろうか。記録によれば、竹田信玄が勢力を張っていた天文年間から永禄年間の頃であるとされている。永禄12年には信玄が、小田原北条を攻めるためにこの街道を使って秩父に侵入した。 
 時代は下って、江戸幕府が開かれたのちの慶長19年になって関東代官頭の伊奈氏がこの関所を整備。それ以来、関所は、幕藩体制の防備の拠点という重要な役割をになうことになる。
 幕府がここに、代々世襲の関守を常駐させ、つねに厳重な警備を怠らなかったというのも、そうした役割に重きおいたためであった。栃本の関所が、中山道の松井田の関、東海道の箱根の関とともに、関東三関のひとつに数えあげられたのも、こうした位置づけがあったからこそである。実際、この関所の関守として、代々この職務を世襲したのは大村氏といった。大村氏は明治2年にここが廃止になるまで、十代、二百五十年という長い間にわたって世襲している。
 当時の関所のあらましは、東西に関門を置き、街道の両側に木柵と板矢来を配するといったものものしいもので、関所は大村氏の家宅もかねていたのである。
 現在見る建物は天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で、外観は木造平屋建て切妻造り、瓦葺き、間口約13メートル、奥行9メートルという規模で、一見するとふつうの民家風の造りである。が、内部をのぞくと、東妻側に、番士が座る十畳の上段の間の張り出しがあり、西寄りには、板敷き玄関、それにつづく十畳の玄関の間がしつらえてあり、この建物が関守屋敷であることを改めて知らされる。
 関所には三道具、十手、捕縄が常備されていたといわれ、通行手形をもたない違法な旅人はすぐに捕らえられたのである。 
 この関所の往来が許可されたのは、明け六つから暮れ六つの間であったといい、江戸初期の寛永20年の記録によると、ここを一日百人をこえる通行人が行き来したという。実は、関所の置かれた大滝村は交通の要衝であったということばかりの理由ではなかった。
 江戸幕府は、この地域の原生林から採れる材木に目をつけていた。原生林は御林山と呼ばれ、当時、この一帯は「東国第一の御宝山」と称されていたところであった。その広さは、実に東西二十里、南北四里にも及んだといい、大血川の上流地域から中津川の南西部にひろがる地域である。
 幕府がここに関所を設けた本当の狙いは、この地域からの原木の盗伐を監視するのが目的であったからだと言われている。
 ところで、奥秩父の原生林と呼ばれる、この地の森林相は、どんな樹木からなっているのだろうか。よく知られているものを数えあげただけでも、ブナ、ミズナラ、カバノキ、シデ、カエデ、シラビソなどその種類は多い。こうした豊富な樹木を、幕府は建築材として伐採し、その一方で、山の一部は、地元の村民に伐採権として授けられた。それは百姓稼ぎと呼ばれたもので、地元の村人たちは、この山から伐れた材木を、一定の目的に限ってなら使える権利を認められていたのである。伐採された木材は、筏師の手によって、荒川の激流を下り、江戸の町に運ばれた。
 明治になって御用林は官林となるが、明治12年の取り調べ書によると、官林は七万二七八七町歩、村人の稼山が四万三六七二町歩余と記されている。意外に、稼山の持ち分が多かったことが知れる。
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 それにしても、栃本の景観はそこを訪れる人に、自然の苛酷さを改めて感じさせる迫力をもっている。斜面にへばりつくように建つ民家のたたずまいといい、急峻な斜面を利用してつくられている田畑といい、こうした地形に足を踏みしめて生きなければならない、村人の日々の生活の計り知れない困難さを思う。
 とはいえ、元禄3年(1690)の記録によれば、すでに村内の人口は千八百余りに達していたという。当時は、農作物といえば、田は一枚もなく、麦や粟、稗、豆類、そば、芋などがわずかに採れるだけで、あとは幕府から与えられた御林山の一部(稼山)を村人が共同使用して、そこからの林産物や山の幸で生計を立てるといった状態であった。
 そういえば、この地には、土地の人が「さかさっぽり」と呼ぶ独特の耕地農法がある。傾斜の強い斜面に畑地をつくらざるを得なかった農民たちが考え出した耕法で、それは畑地を耕すのに斜面の上から下に向かって鍬を入れてゆくという方法なのである。
 常識的には、こうした地形では、下から上に移動しなければ、身体の安定がつくれないものである。それを逆に上から下に移動しながら、耕作するというのである。逆さ掘りと呼ばれるゆえんである。実際、下から上に移動しながら土を掘り返してみると、土が下方に転がり落ちて、作業にならない。それでなくとも、石ころのまざりあった、いかにも地味の悪そうな耕地である。
 そこで、身体を斜面下方に向け、インガと呼ばれる八尺ほどもある柄の長い鍬を使って、土を掘り起こすという耕法を考え出したわけだ。身体の安定感を欠いたこの作業は、さぞかし、重労働であるにちがいない。第一農作業に時間がかかる。 
 帰りぎわ、街道脇に、一本の形のいいトチの古木を見つけた。それは、若葉を陽に輝かせながら存在感ある風貌で立っていた。あたかも栃本の名の由来を語る生き証人のように、その大木はどっしりと立ち尽くしていた。まさに栃本は秩父最奥の耕地なのである。



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