場所にまつわる記憶と省察

時間と空間のはざまに浮き沈みする記憶をたどる旅

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比叡山 -霊気ただよう場所が今も-

2017-08-13 22:40:18 | 歴史、記憶、紀行
  比叡山延暦寺は比叡の山嶺深くに位置している。天台密教の聖地として歴史にその名をとどめる比叡とはいかなる地なのであろうか。
 桜の花が爛漫と咲き乱れ、春の気配が濃くただよう京の町中をバスで北に向かって走ること小一時間ばかりで比叡山中にたどりついた。
 染みわたるような青葉の中に降り立った時の印象は、この山の途方もない山深さであった。それも道理である。標高八四八メ-トルの大比叡を主峰とする比叡山塊の外周は実に百キロに及ぶというのであるから。
         *   *
 私がまず訪ねたのは山頂にいたる手前にある無動寺谷だった。
 無動寺谷というのは、「三塔十六谷」と呼ばれる比叡山三塔(東塔、西塔、横川)のうち東塔に属し、別名、南山ともいわれている地である。この無動寺谷は、天台修行の行者が七年間、一千日という長い年月を山中を駆けめぐる、千日回峰行という荒行をおこなう地として知られている。
 その千日回峰行をおこなう場所とは、どんな風景がひろがるところなのか、それを見たかった。
 バス停無動寺で降りると、すぐに「無動寺参道」と刻んだ石標があらわれた。
 さっそく杉林の生い茂る山道を下ってゆく。歩くにしたがい、森閑とした山の雰囲気がどんどん濃くなってくる。
 ほどなく両脇に狛犬をしたがえた石の鳥居があらわれる。そばに「無動寺参道」と刻まれた石標が立っている。
 舗装された参道はきれいに掃き清められていて快適な森林浴の気分である。
 樹間をとおして朝の明るい陽がさしこんでくる。鴬の声が谷にこだましている。枝移りする小鳥たちの小さな影が動く。左側の深い谷を巻くように参道はつづく。
 ふいに、回峰行者の白装束が前方からあらわれたような錯覚にとらわれる。春光のなせるわざであったか。
 やがて、参道は二手にわかれた。右、弁財天、左、明王堂とある。まずは弁財天への道をたどる。ここにも「大辧財天宮」の名を刻んだ石標があり、さきほどと同じ大きさの鳥居が立っている。
幾つもの小さな朱の鳥居をくぐってゆく。灯明台が道の両側に立ち並んでいる。せまい参道は曲がりながら、奥へ奥へとつづく。やがて樹林が濃くなると道がつき、鳥居があらわれた。
 弁財天を祀る社は山を背にして、せまい境内の一角にひっそりと立っていた。ここは白蛇出現の霊地とされる場所で、それを信仰する「白蛇講」があり、その本部が置かれているという。
 人気のない薄暗い境内に佇んでいると、白蛇出現の伝説が妙になまなましく感じられてくる。早々に、その場を離れたくなり、背を押されるように先ほどの分岐点までもどる。
 ふたたび無動寺参道である。さきほどまでの身体を押さえつけられたような緊張感がほぐれているのに気づく。下り勾配の道をしばらく歩く。
 やがて、城塞のように積み上げられた高い石垣があらわれる。見上げると庇の深い建物が複雑に入り組んで石垣の上に立っている。 千日回峰修行の道場ともなっている明王堂もそのような石垣の上にあった。
石段を上ると棚のように突き出たせまい台地があり、そこに小体なお堂が立っている。唐破風を張り出した白木のお堂は質実の気がみなぎっている。
 朝の勤行のさなかなのだろう。清冷な山の朝にふさわしい、腹に響くような読経の声が障子の向こうから流れてくる。思わず気持ちがひきしまる。
 無動寺谷は平安初期の貞観八年(865)、相応という名の僧が不動明王を信仰して開いた谷である。相応は谷を開いたあと、明王堂をこの地に建て、山中をひたすら歩いて修行をした。それが千日回峰行のはじめであるとされる。
 回峰行者が不動明王の化身とされ、人々に尊ばれるようになるのは、そういう由来からである。
 ところで、その修行とは、山中に設けられた一周七里半の道程を毎日、五時間ほどかけてめぐることを勤めとする。蓮華笠をかぶり、白装束に草鞋という身支度での歩行である。
 ちなみに、千日回峰をするということは、じつに四万キロを歩くという計算になる。四万キロというのは地球をひとまわりする距離になるというから、やはり大変な修行なのである。尋常なことでは達せられない行であり、白装束に身をつつむというのは、まさに死をも覚悟した姿勢のあらわれといえる。
紅梅がかすかに匂う明王堂の崖上から前方を見やると、霞みの中に琵琶湖が横たわっているのが眺められた。山中深くたどって来たあとに、ふいに海のような広大な湖を見るとは思わなかった。その風景の変化に少なからず驚かされた。
 琵琶湖が近いということに促されたわけではないが、私はさらに無動寺谷の谷道を下ってみる誘惑にかられた。
明王堂の石段を下りて、まず目にしたのが法曼院政所という表札のかかる大きな伽藍の僧坊だった。さきほど下から眺めた庇の深い大屋根の建物である。
 法曼院は無動寺谷の総本坊とされる寺で、千日回峰を修了した僧が住職となり、回峰行者の身辺の世話をしているという。洗濯物が干されていて、人が生活していることをうかがわせた。
さらに急坂の谷道を下ってゆく。
 じつは、この谷道、歴史に名を刻む道なのである。
 時は元亀二年(1571)九月十二日のことだ。織田信長の命で、比叡山の焼き打ちが決行された時、配下の明智光秀が大軍をしたがえて琵琶湖側の坂本口から押し登った道なのである。
 今、その道には当時の痕跡などどこにも見当たらないが、ここを兵士の大集団が通ったということを想像するだけでも感慨深いものがこみあげてくる。
 押し黙って登る彼らの胸の内には、さまざまな感情が揺れ動いていたことだろう。残してきた妻子を思いながら、ただ義務感で登る者、叡山にこもる僧兵の横暴に怒りを燃やす者、ひたすら手柄を得ようと功名心に猛る者、----そうしたさまざまな思いを抱いた人間の集団が通り過ぎた道なのである。が、いまその道は深い静寂のなかにある。
 やがて、谷の底と思われる場所に玉照院、 大乗院、宝珠院、護摩堂など幾つかの僧坊があらわれた。が、すぐ近くにあると思えた琵琶湖はまだ先のようだった。
           *   *
 無動寺谷をあとにして、次に私が訪れたのは根本中堂だった。
その名前が示すように比叡山の中核にあたるこの建物(総本堂)は、やはり叡山山中の堂宇のなかでも、群をぬいて規模壮大な伽藍を備えていた。
はじめて眺めたのが、杉林の間から見下ろすような角度であったためか、大地を押さえつけるような大屋根が、じつに印象的だった。
伽藍の大なることは近寄るにしたがって実感させられた。まず、境内に足を踏み入れてそれを知る。つぎに、正面の石段をあがって見上げた時、再度、実感する。
 大きさばかりではない。淡い藍色を帯びた、四方に優美に裾をひろげる大屋根と鮮やかな朱に塗り込められた外壁が周囲の杉の林と見事に調和している。
 信長の比叡山焼き打ちや、幾度かの雷火で焼失したあと、今見るような姿になったのは徳川三代将軍、家光の時代だという。
 天台宗独特の仏殿様式でつくられているといわれる建物は世界遺産に登録されてもいる。 が、それは木造建築というあやうさを宿命的に背負う遺産である。過去の歴史がそれを証明している。
 にもかかわらず、これからもありつづけなければならないのである。薄暗い内陣の奥に灯されている不滅の灯が、それを意思しているように私には思えたのである。
 根本中堂をあとにして、つぎに訪れたのは
横川だった。横川と書いて「よかわ」と読む。横川は南北にのびる叡山の稜線の北端のその東側、つまり琵琶湖側に位置する奥域である。 横川といっても川が流れているわけではない。地形的にはちょうど尾根から谷に下る斜面に位置する。斜面であるが、そこにはいくつかの平坦な台地が開けていて、かつてそれら台地に多数の堂塔が立っていたという。  根本中堂から山中をマイクロバスに揺られること二〇分ほどで横川に着く。
雑木林の中をぬうように参道をたどるほどに、涼しげな小鳥の声が聞こえてくる。ときおり、鴬の声もまじる。
 参道沿いに解説版が並んでいる。それは、この地にゆかりのある高僧たちの事跡を絵解きしたもので、法然にはじまり、栄西、親鸞、日蓮、道元らの若き修行時代のことが描かれていた。
 かつて、比叡山が宗派を問わない日本仏教の一大センターであり、誰もが一度は修行に訪れる場所であったということが、それによって分かる。 
 やがて、前方、杉木立の奥に朱色の建物が見えてくる。それは忽然とあらわれた。せり上がる屋根が陽を受けて鮮やかに映えている。 
それが横川の中心にある横川の中堂だった。斜面を利用してつくられた、懸掛造りのその建物は華やかな印象だった。なかでも、迫り出した部分の橋脚の朱が鮮やかに浮きあがって、周囲の緑と好対照をなしている。規模は小さいが根本中堂にはない、華奢な美しさにあふれている。
さらに、緑陰をくぐりぬけるようにして奥域にすすむ。
 参道沿いに幾つもの苔むした石碑が目撃される。「横川元三大師道」と刻まれた道標が立っている。その参道が歴史ある古い道であることをあらためて知らされる。
 しばらく行き、道がつきたと思える頃、前方に一面に砂利の敷かれた明るい空間がひらけた。左手奥に瀟洒な山門があり、その奥に大屋根の美しい僧坊が見える。
           *    *
 それは元三大師堂とよばれる建物だった。元三大師とは叡山中興の租として知られる元三慈慧大師のことで、大師はこの地に住まい、修行したことで知られている。信者の間では「横川のお大師さん」の名でも親しまれ、厄よけ大師、おみくじの大師の異名ももつ。元三の名は、正月三日に亡くなられたところからそう呼ばれるようになったという。
 叡山を開基した最澄の時代に、人跡未到であったこの地を開いたのは、最澄を継いだ弟子の円仁という僧だった。この人は、一般には慈覚大師の名で知られている人物である。 慈覚大師の足跡は、この叡山だけでなく、東北や関東の地にも多く刻まれ、開基を慈覚大師とする寺をよく見かける。円仁が各地に寺を建て、天台宗の布教に専心した功績は大きい。
その後、円仁の遺志をついで横川に本拠を置いたのが良源、すなわち元三慈慧大師である。
 良源も円仁と同じようにこの地を愛し終生この地に住まった。天台学に熱心で、四季おりおり弟子たちを集めては法華経の講義に事欠かなかったという。
 二十年にわたり、天台座主として叡山のすべてを取り仕切り、横川を東塔、西塔と並ぶ修行の地にしたのも大師だった。
 その間、横川教学ともいわれる教学をひろめ、数多の弟子を育てたという。門下三千人というのも、あながち誇張した数ではないかも知れない。
 大師については次ぎのような逸話が伝えられている。
当時、疫病がはやっていた。大師は民を救うべく鏡を前に禅定に入った。瞑想しつづけると、やがて大師は、骨と皮ばかりの姿になった。鏡に写るその姿はまるで鬼の姿だった。 
 ある時、絵心のあるひとりの弟子が鏡に写る大師の姿を描き大師に見せると、版木にそれを写しとれ、と命じられた。
 やせ細り、鬼のようになった顔に長い角を生やした魁偉なその座像は大師の死後、大師堂の本尊として祀られることになった。
 それは「角大師」とよばれ、厄よけ、疫病のお守り札とされることにもなる。
 また、この座像についてはつぎのような話が残されている。
あの信長の叡山焼き打ちの最中のことである。大師堂も戦火に遭遇し、本尊である「角大師」もあわやという危機に見舞われた。
 執事の福定坊という僧がその座像を背負って逃れようとした。が、信長は先刻、叡山のすべて僧の殺害を命令していた。押し寄せる信長軍に囲まれた今、逃れる術はもはやなかった。が、大切な御本尊は何としてでも守らねばならなかった。
 福定坊は逃げまどっていた。その時だった。行く手に信長軍の一団が立ちふさがった。もはや万事休すだった。
 すると、軍勢を統率するひとりの武将が前に進み出て、「背負っている座像を一目拝ませてくれまいか」と懇願した。意外なことだった。
 福定坊が頼みに応じると、武将は座像を前に深々と拝礼した。そのあと、琵琶湖の堅田の彼方を指さして、あの方角に逃れよ、と告げた。
 福定坊は感謝の礼を述べ、別れ際に、「あなた様には仏の報恩があるでしょう」と告げて去って行った。
 この話のなかの武将こそ、のちに天下を取った羽柴秀吉だというのである。真偽のほどは定かではないが、叡山に伝わる伝承である。
           *   *
元三大講堂を辞したあと、横川の山中を漫然と歩いてみた。
 老杉の林のなかに恵心堂という名の瀟洒な建物があった。恵心僧都(源信)が念仏三昧するために建てたとされる庵で、かの有名な『往生要集』はここで著されたという。彼は大師の四哲の弟子のひとりでもあった。
日蓮が修行したとされる白木造りの定光院という寺もあった。道元が得度したという事跡もあった。如法堂という名の朱も鮮やかな二重塔が木立のなかに隠れるように立っていた。
 最後に、大師の霊廟を訪ねてみたいと思った。
 霊廟は山道を分け入った杉とブナの林のなかに静かに鎮まっていた。鳥居をくぐり、小さな堂宇の奥に墓所はあった。雑草の生い茂るなかに傘をかぶったような石塔がひっそりと立っていた。
 そこは霊気が凝縮しているような場所だった。ちなみに、この地は京の町の北東、つまり鬼門にあたり、叡山の最奥にある場所であるという。
 その証拠に、墓所の奥は切り立った崖になっている。いかにも山が尽きたという感じがする場所である。
 山に事があるたびに鳴動すると今も信じられている霊廟。そうした怪異譚にも真実味が感じられるほど霊気がただよっていた。
 大師は鬼門の地をみずからの墓所と定め、魔を封じる役目に任じたということなのだろうか。
 













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