万照寺とは、相川の京町通りのはずれにある寺だと言えば分かりやすいだろう。この寺は諏訪町鉛坂にあり、万行寺と専照寺が、昭和十七年に合併して万照寺となった。現在の寺地は、万行寺があった場所だ。この寺の裏には大岡源右衛門、源三郎父子の墓があり、慶安の事変と関係のある寺らしい。私は、寺の中にいた奥様と目があったので「慶安の事変って何ですか?」と尋ねてみた。すると奥さんは「私は歴史には詳しくなくて。。。主人は詳しいんですけどね、今留守にしているものですからすいませんねえ~」と言った。そして奥さんは「ああ、そうそう、ここから見る道遊の割戸が綺麗に見えると言って皆さん写真を撮っていかれますよ。昔は今ほど緑が多くなかったので良く見えたのですが、最近は緑が増えて麓などは草木に埋まっているくらいです」と嘆いた。そして「昔は歩いてここまで来る人が多かったのですが、最近は休日高速千円になったので皆さん車でパアーっと来て、パアーと帰る人が多いんです。団塊の世代の人は来てくれるんですけどね」と続けた。ま、旅もそれだけ安直になったと言う事か。
その昔、徳川家光が48歳で病死した後、11歳の息子である幼君徳川家綱が将軍職を継ぐこととなった。これを知った由井正雪や丸橋忠弥らは、幕府転覆、浪人救済を大義名分とした倒幕運動を起こした。これが世に言う「慶安の事変」である。そして丸橋忠弥らに槍の道場を貸したりして彼と親交のあった大岡源三郎は、幕府転覆に加担したとして佐渡への流刑に処せられた。大岡は丸橋忠弥から習った槍を教える道場を万照寺近くの諏訪町に開設し、それで生計を立てていた。そして最後は相川の街を一望できる春日崎の高台で自刃して果てた。幕府の権威そのものたる佐渡奉行所がある相川に向けて切腹を試みたのは大岡の幕府に対する敵愾心の強さを示していたと言えよう。そして大岡父子の亡骸は槍道場の近くにあるこの万照寺に葬られたのだと私は推測している。