「佐渡国は700年代に成立し、一時越後国に編入されたが、天平勝宝四年(752)に分離独立し元に復した。国府は国仲平野の国府川流域に置かれたが、現在その位置を特定するのは難しい。ただ、1975年真野町竹田で農地の整備作業の際に発掘された下国府(しもこう)遺跡では、二棟の掘立柱(ほったてばしら・地面に穴を掘り、そこに柱を立てた)の建物と多くの須恵器、土器が出土し、佐渡国府に関連する官衙又は官舎跡ではないかと推定され、翌年に国の史跡に指定された」。従って、発掘時期はそれほど古くはない。「掘立柱建物跡には、木の植え込みがある。東西34m、南北36mの四角形の遺構は、二重の堀に囲まれている」と物の本には解説されているが、実際に現場を訪ねてみたら、堀は二重ではなく一重でしかなかった。何をもって二重と言うのだろうか?「この遺跡の所在地は、17世紀末の元禄検地帳に「下国府」の名で記されていること、そして南に佐渡国分寺があることなどから、佐渡国府に関係する建物の一つと考えられている」以上が歴史的解釈である。私は、冬のとある日に、この史跡を訪ねてみた。県道の南線に面しており、大佐渡山脈を背景にして建つ遺構だが、木の植込みとそれを取り囲む堤のような物があるだけの殺風景な場所である。歴史に興味のない人にはこの遺構の価値などは分かるまい。
一方、下国府遺跡の近くには檀風城跡がある。現在では北越佐渡工場の敷地になっている。「雑太(さわた)元城」とも呼ばれており、本間氏惣領である雑太本間氏の初期居館跡とされている。正中の変で佐渡に流された日野資朝を預かることになった本間山城入道という人物はこの館に居を構えていたとされており、資朝の歌から檀風城の名で呼ばれるようになった。その歌とは、「秋たけし檀(まゆみ)の梢(こずえ)吹く風に沢田(雑太・さわた)の里は紅葉しにけり」というものだ。城跡には、「日野贈二位公旧跡」と書かれた石碑があるとの事だったがそれはついぞ見つけられなかった。
ネットで検索したら、佐渡には雑田城と呼ばれる城跡が二つある事が分かった。一つは阿仏坊妙宣寺のある台地上にあり、もう1つは下国府遺跡の近くにある。どちらかが、古い時代の雑田城(日野資朝が幽閉されて殺害され、熊若丸がその復讐を果たしたという「太平記」に出てくる南北朝時代の城)で、もう一方が戦国期の城ではないかと思われている。「現状ではその構造から、県道沿いの檀風城の碑が建っている所が雑田元城で、妙宣寺のある所が戦国期の城ではないかとされているが、妙宣寺の建立が古い時代であったことや、妙宣寺の境内に日野資朝の墓地があることなどから、両者の関係は正反対ではないかという考え方もあり、今の所歴史学者の間でも結論は出ていない」そうだ。











