赤い芥子白い芥子

2017-05-15 00:00:46 | 日記
先週、友人と海辺に住みたいという話で夜な夜な盛り上がった。暮らしに求めるものがピタッと合うような気の合う友人で、第一希望が静岡という部分までまったく同じだった。


去年・今年と下田へ旅行に行ったことも相まって、立派な海に立派な山まである静岡という場所が、ほんとうに心満たされる素晴らしいところであることを知った。

肌に合う環境にいれば、自分も気分良く日常が送れるのだと知り嬉しくなった。



いつだったか、社会の負け組に位置している人間であると静かに気づいたある日、自分がこれから戦わなくてはならない人生の品質をようやく目の当たりにした。それは果てしのない遠いものを見るようだった。だけどまあ、あまり悲しくもならなかった。


ほんの二・三年前までは、ただただ生きることが辛いだけで、原因の輪郭さえ見えていなかった。

しかし今ではなぜ・いつ・どんな状況下で・何を根拠に自分が不適の烙印を押される側の人間なのか、ひとつひとつの根拠と道筋を話すことができる。知能検査へ通ったり、心と向き合ったり、オベンキョしたり、そんなことを繰り返したのち、納得した。



これまでそんなことを延々と語っては、他人の理解を求めていた気がする。自分が必死で学ばなければ身につかないものを本能的に得ている人に嫉妬した。
「おめーが大変なことはもうわかったよ」いい加減、身体中から怒りの突っ込みも聞こえている。口を開けば不平不満や苦労自慢、そんな大人になってしまっているのだろうな。そんなもんは美しくもなんともないんだよ。おまえは文豪でもコメンテーターでもないんだから、綴る文字は、ただの醜い戯言の大衆。ダラダラとした卑屈な心情の散文は、読み手を疲労させるだけの甚だしい自己満足。被害妄想を見極めて、嫌なことは嫌だと本人に言ってみろよ。自分はこういうことが苦手だから、こういう手助けをしてもらえると助かります!他人に助けてほしいのなら、なにか求めるのならちゃんとそこまで言ってみろや。お高く止まって、ひとに理解を求めてんじゃねえ。そんなふうに思う所存。



何年か生きてみたが、根っからの田舎者だった。葉っぱや海の音を感じることがなによりの幸せだということは今でも変わらない。何かを生み出す側の人間ではないということに焦りや劣等感を覚えるような、そんな高貴な場所では端から戦っておらんものの、掃除や食事や睡眠や、ひととして当たり前のことを当たり前に出来ることが幸せなのだと、そう願って生きてきた。名もなき負け犬はこれからもしたたかに、出来ることを信じ抜く勇気を持たなきゃならんのだろう。ハリボテの前向きなど、言うが易し。そんなものではなく、嘘のない自身の希望を心で見たい。



もう長いこと、自分に優しくしてくれた人・自分を助けてくれた人に、同じ質量を鸚鵡返しするよう努めていた気がする。
しかし優しさというものはもしかしたら、貰った人へ返すものではなく、まだ見ぬ温かさを求めている心若き人間へ受け渡してゆくものなのかもしれない。



ずっと、理解者や認めてくれる人を求めてきたけれど、自分は助けてもらう側の人間なのだと思ってきたけれど、、、
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 憧憬を | トップ |   

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。