ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
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山田ときさんを偲ぶー5   「子どもと生きようとして➁」

2016-05-01 09:25:35 | Weblog

山田ときさんを偲ぶー5

 

   ー 子どもと生きようとして ー➁

 

 そのころ(注―昭和11年頃・野村芳兵衛を中心に『生活学校』を創刊〈10年〉)、いわゆる生活綴方運動は、その絶頂に達し、国分先生は東北地方の先生たちとの連絡に大わらわだった。また、全国的なつながりも密接になり、よく文集や手紙が学校に 送られてきた。『綴方生活』『生活学校』『工程』などの雑誌も、つぎつぎと送られてきた。わかい人たちの教室交流もさかんだった。だから、私も、そういうものを見せてももらうことが 多くなり、師範学校などでは、習わなかった教育の考え方に、少しずつ目をひらかれていった。

 しかし、山形県というところは、とてもめんどうなところだし、今は亡くなった村山俊太 郎先生なども、意見の発表を封じられていたので、国分先生たちは、ひざもとをかためるために大へん苦労していた。前に集っていたという『山形国語日曜会』の人々が、ささやかな 連絡をとっているだけだった。学校でも、「北方性」などということばは使わなかったように思う。ごく地味な教室経営と、学校経営の能率化に努力していた。

 きくところによると、前の校長は、相当やかましく、全国からきた手紙、はがきにはいちいち目をとおし、たまには、先生の手に渡らないでしまうことさえあり、なかでも平野婦 美子さんからの便りは、女であるという理由からも、殊に警戒されたとのことだった。

 国分先生は、こんな便りがあるたびに、「こんな仕事も、子どものためにみんなやればいいんだがね。ほら、平野さんはこんなこともやっているよ」と教えてくださるのだった。人よりボンクラの私でも、なるほど、子どものためにはよい仕事だなあというくらいのことはわかった。そしてできないながらも、いろいろまねしはじめた。生れてはじめて『長瀞子ども』という文集もつくったりした。

 学芸会がきて劇の練習のだんになり、どんなものを選べばよいか迷っては、また相談にいき、「子どもたちの文化活動としての劇でなくてはならない。特定の子どもだけの出演にならないよう、なるべくクラス全体の子どもを生かし、喜ばせるようなものでなくてはいけない」と教えられた。

 男組でやった、先生脚色の『一本のローソク』(『こぶしの花―国分一太郎の世界―』北の風出版・2011年に収録)という、西欧文化輸入当時の農村における 文化の低さを現した劇などは、全く一クラス総動員のもので、学校中の子どもたちをわきた たせたものだった。それは海岸に流れてきたローソクを、知ったかぶりの男が、「目なし魚だ」 と鑑定し、珍らしいものだから、村人がみんなでごちそうになろうというので、大ぜい集り、大鍋に煮、大わらわで膳立ての準備をしたところが溶けてなくなってしまった。一同驚異の目を見はって大鍋をのぞいているという筋だった。

 そんなわけで、自分で、でたらめの曲を探してきては、セリフのなかにもりこみ、一人で も多くの子どもたちを生かそうと努力したものだった。

 また紙芝居といえば、一銭飴やのおじちゃんだけがやるものだと考えられていたあのころ、 絵も文も先生自作のものを農繁期の託児所や、一・二年の教室などでやっては、小さな子どもたちを喜ばせ、なつかれていた。

 それから、理科、地理、国史などの授業にも力を入れられ、いろいろ工夫してやられていたが、なかでも、理科の授業などは、教生時代に附属で見てきたのとは、かなりちがった形 態で、やっぱり子どもたちの生活から引出し、子どもたちの生活に帰結させることの大事な ことに目をひからせられた。私は理科の方はわからないのだが、「さくらは花びらが何枚で、 おしべが何本、めしべが何本などという教科書では、科学教育はできないのだ」ということ をきかされて、なるほどなあと思っていた。

 私はここの一年間で、私たちは、まず子どもたちの幸福になる仕事をしなければいけない こと、それは農村文化を引上げるしごとでなければならないこと、その前提として村の子ど もから文盲をなくする必要のあることなどをつかみとった。

 この生きかたが、今もなお、私の脳髄から離れない。そして雑務に追われてばかりいて、 教案をたてるどころか、ろくな教材研究もできずに、うつろな気持で教壇にたつことのあまりにも多くなった今の生活を考えるとき、自責の念にかられ、またそのようなゆとりのある 教育活動のできる条件を獲得するための組合運動の重要性をしみじみと思う。宮原誠一先生がおっしゃられた『たそがれ教師』の姿をあまりにもありありと自分に見られて、かなしくなるのである。

                   山田とき著『路ひとすじ』(東洋書館・1952年・P15~P17)より