小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

597 八千矛の神 その1

2017年06月16日 01時54分46秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生597 ―八千矛の神 その1―
 
 
 大国主とは本来ローカルな神でした。それが中央政権と結びつき、多くの氏族たちの
神話とつながるようになったのです。
 しかし、大国主を祭祀する立場であった出雲臣、すなわち出雲国造がいつ頃大和政権と
結びついたのかについては今なお決着を見ないのが現実です。
 『日本書紀』に最初に登場する出雲臣は崇神天皇六十年の記事に登場する出雲振根
(イズモフルネ)とその一族です。
 ですが、『出雲国風土記』に神門臣古禰(かむどのおみふるね)の名があり、これが出雲
振根と同一人物と見られること、『日本書紀』の出雲振根の伝承が出雲西部を舞台にして
いることなどから、意宇郡(おう郡)を拠点としていた出雲臣とは別の系統であろうと、と
いわれています。
 それでは、意宇郡の出雲臣で最初に『日本書紀』に登場する人物は、となると、「仁徳天皇
即位前紀」の出てくる淤宇宿禰(おうのすくね)が、その意宇郡の出雲臣である、とされて
います。
 
 ただし『出雲国造世系譜』は出雲振根らをその系譜に組み込んでいるので、出雲国造の
「正史」では振根たちも意宇郡の出雲臣の一員ということになっているのです。
 とは言え、多くの研究者たちは、意宇郡の出雲臣と振根を別の氏族と見ているようです。
 『日本書紀』の「崇神紀」では、振根は大和政権の討伐軍に敗れ去ることになっており、
これによって、出雲西部が大和政権の支配下に組み込まれるようになったという史実がある、
と考える傾向にあるようですが、出雲臣が意宇郡を捨てて出雲西部に遷った背景にこれを
求めます。
 
 その一方で、振根を出雲臣の一員と考える研究者たちもおり、そのひとりが水野祐(『古代の
出雲と大和』)です。
 水野祐は、以下のように考えています。
 
 4世紀、大和政権の西進運動の一環として吉備を服属させた後、吉備氏族と物部氏族の
手で出雲が統合された。
 その結果、親大和的であった意宇郡の出雲臣族は、大和に対して杵築を含めた西出雲を
大和側に割譲した。それが出雲における大和政権の屯田である。
 ところが出雲臣族の内部の二派の抗争は、振根に代表される反大和派が圧勝し、親大和派は
一旦は意宇の地を去って、飯梨川流域の野城方面に後退した。
 その後、中央において王朝交替がおきると、親大和派は新王朝と結びついて勢力を盛り返し、
振根の反大和派を圧倒して意宇の地に入った。
 それにより、反大和派は西出雲の杵築に去り、かつての大和政権の屯田であった西出雲に
よって抗争した。
 そして5世紀になって、意宇の親大和派によって振根は滅ぼされた。
 
 これが水野祐の考察なのですが、さらには、水野祐は先述の、『日本書紀』の「仁徳天皇即位
前紀」に記された淤宇宿禰の事件にも言及しています。
 そもそも、『日本書紀』の「仁徳天皇即位前紀」の記事とは、応神天皇の皇子、額田大中彦
皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と屯倉を掌ろうとして、屯田司である淤宇宿禰に、
 「この屯田は、本来は山守のものである。だから吾が治めようと思う。汝は屯田に関わるな」
と、迫ったことによるものです。
 このため淤宇宿禰は皇太子(ウジノワキイラツコ。同じく応神天皇の皇子)にこのことを訴え、
皇太子、はオオサザキ皇子(後の仁徳天皇。同様に応神天皇の皇子)にこれを相談せよ、と
答えます。
 それで淤宇宿禰が今度はオオサザキ皇子に相談しますと、皇子は事情に詳しい倭直吾子籠
(あごこ)に、
 「倭の屯田は本来山守のものというのは、どういう理由なのだ?」
と、尋ねますと吾子籠は、
 「垂仁天皇の時代に、皇太子のオオタラシヒコ尊(後の景行天皇)に倭の屯田を定められまし
たが、この時に、
 『倭の屯田は常に天皇のものである。たとえ兄弟といえども天皇でない者が掌ることはできない』
と、おっしゃられました。だから山守のものではありません」
と、答えます。
 
 以前にもお話ししましたが、この伝承については、淤宇宿禰が本当に屯倉の管理を司る役職に
ついていたのであれば、屯倉の所有者についての知識を持ち合わせていなかったのは不自然
である、という理由などから史実性を疑う研究者が多くいます。
 
 しかし、水野祐は、「倭の屯倉」を大和にある屯倉ではなく出雲国内に設定された大和政権の
屯倉だとします。
 つまりは、出雲にあった屯田の管理と経営を現地の首長である淤宇宿禰に委託していたけども、
額田大中彦皇子が淤宇宿禰から屯田を取り上げて自分の所領にしようとしたので、淤宇宿禰が
その不法を大和に訴え出たもの、と解釈しているのです。
 
 そして、水野祐は、出雲の統一は仁徳天皇の時代のこと、と考察しています。
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