小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

605 八千矛の神 その10

2017年08月05日 02時16分02秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生605 ―八千矛の神 その10―
 
 
 長野県上田市に鎮座する生島足島神社(いくしまたるしま神社)がそれです。
 この生島足島神社の本殿は板壁で囲ってあり、床がない。つまり土間だけであり、この土間こそが
御神体なのだといいます。また『古語拾遺』にも、祭神の生島神は大八洲の霊、つまり日本国の国魂と
あります。
 
 その『古語拾遺』に、
 
 「生嶋は大八洲之霊。今、生嶋巫が斎奉するところなり」
 
と、あります。
 このことから、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』)は、かつて難波で行われていた八十島祭の
祭神が大八洲之霊であり、この神は生島神・足島神のことである、と考察しています。
 なお、岡田精司の考察では、大八洲之霊とは国魂神であり、同時に八十島祭は太陽神を迎える
ものでもあった、としました。
 難波の式内社に難波坐生國咲國魂神社があり、これは生國魂神社に比定されていますが、その
社名から生島足島神社との関連が指摘されています。
 
 難波坐生國咲國魂神社の「咲国魂」とは、咲魂(さきたま)のことだと思われます。出雲の稲佐海岸で、
大国主の前に海を照らしながらやって来た神が、
 「吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」
と、告げる、この幸魂と同じであると見られているのです。
 ただし、社名が難波坐生國咲國魂神社ですので、祭神は、生魂、咲魂ではなく生国魂、咲国魂
だということになります。
 このことから、生島足島神社の、国土そのものを御神体とする信仰と生国魂神の信仰は同じもの
だと理解されるわけです。
 
 もっとも平安時代の『延喜式』では、八十島祭の祭神を、
 
 「住吉神四座。大依羅神四座。海神二座。垂水神二座。住道神二座」
 
と、記しており、生島神の名は含まれていません。
 この時代になると、かつては難波の浜の、熊川の河口、これは現在の高津宮や生國魂神社の鎮座
する地の近くに比定されるのですが、ここで行われていた八十島祭が住吉大社の近くで行われるように
なるなど、変化してしまっているので、八十島祭の祭神も同じくこの頃には変化をしてしまった、と考える
こともできます。
 
 しかし、岡田精司は、『延喜式』が一方で、八十島祭に参加するのは、朝廷から派遣される宮主、
神琴師、生島巫、御巫、それに住吉社の神主と祝、大依羅社祝、海神社祝、垂水社祝、住道社祝と
記していることから、やはり八十島祭の祭神は、かつては生島神も含まれていた、と考えます。
つまり、八十島祭に参加する人々の中に、生島巫が含まれており、もしも八十島祭の祭神が当初より
『延喜式』に記載されている神々であったなら、祭神とは無関係の生島巫や御巫が派遣される理由が
わかない、と岡田精司は指摘するのです。
 
 ところで住吉大社に伝わる神事に「埴使」というものがあります。
 埴使とは毎年二月、十一月の両度、住吉神社では祈年祭と新嘗祭を行うに先立って、この両祭に
用いる土器を製造するために、その埴土を大和の畝傍山頂で採取するもので、その使を「埴使」といい、
住吉神社の恒例の神事となっていることです。
 埴使一行はまず曾我川で潔斎し、旅装を祭服に改めた後、雲名梯神社を訪れ、正使が参列して
玉串を捧げ拝礼をし、副使が祝詞を奏します。
 ちなみに雲名梯神社は『延喜式』の神名帳、高市郡の筆頭に掲げられた高市御県坐鴨事代主神社に
比定されている神社です。
 そして、副使が奏する祝詞の内容なのですが、これは「この高市郡雲梯の里に鎮り坐す雲名梯神社の
大前に、往古よりの古例と定められた通り、大和の国の畝火山の埴を取って、住吉大神の祈年(または
新嘗)祭に八十平甕(やそひらか)を作って奉る例に随って、事代主神の大前に幣帛を捧げ奉り、畝火
山口神社に参出て御祭を仕え奉る状を平らけく聞こし召し給え」という意味のもので、畝火の埴土で
八十平甕を造ることを雲名梯神社の神に許可をいただく、という内容です。(以上のことは三谷栄一
『日本神話の基盤』を参考)
 
 『日本書紀』では倭氏の始祖シイネツヒコとオトウカシとともに天の香久山の土で天の平瓫(あめのひらか)
八十枚を作る話がありますが、埴使の神事も畝傍山の土で八十平甕を造るというものなのです。
 天の香久山と畝傍山の違いはありますが、しかし、『住吉大社神代記』には次のような伝承が記されて
いるのです。
 
 大神、昔皇后(神功皇后)に神託をくだし、
 「我をば天香山の社の中の埴土を取り、天平瓫を作って奉斎すれば、謀反を企てる者がおっても必ず
屈服させよう」
と、おっしゃった。
 そこで、古海人老父(こあまのおきな)に田の蓑・笠・簸を着せ、醜き者として遣わして土を取り、それを
用いて大神を祀った。それはすなわち為賀𥿻悉利祝(いかしりのはふり)、古海人らなり。ここに天平瓫を
造る。
 
 シイネツヒコとオトウカシも、天の香久山の土を採りに行く時に、ふたりは身分の賤しい者が身にまとう
衣服に着替え蓑笠をかぶり、シイネツヒコは老爺の姿に、オトウカシは老婆の姿になっているので、住吉
大社の神事と倭氏の伝承は同源のものである可能性が高くなります。
 しかも、『住吉大社神代記』が記す内容は、天の香久山の土を採りに行くのは古海人老父(こあまのおきな)で、
これはすなわち為賀𥿻悉利祝(いかしりのはふり)と古海人である、となっています。
 つまり海人が関係する、ということなのです。

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