小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

545 出雲臣と青の人々 その18

2016年11月08日 00時58分36秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生545 ―出雲臣と青の人々 その18―
 
 
 ずいぶんと壬申の乱に時間を費やしてしまいましたが、ここまで青(あお、おう)の人々、そして
武蔵国の青の神社と出雲のつながりを採り上げ、それから、青の地名と古墳を近くに有する三社の
南宮が大海人皇子(天武天皇)と関わることを採り上げてきました。
 そして、青の人々もまた壬申の乱において大海人皇子側に多く与していることにも気づかれたか
と思います。
 ですが、公平な第三者の目から見ると、大海人皇子は「反逆者」なのです。
 ふつう、天智天皇の次の天皇は天武天皇とされています。
 しかし、天智天皇は38代天皇で、天武天皇は40代天皇です。つまり、両者の間に39代天皇が
存在していたことになります。
 それが、弘文天皇、すなわち大友皇子です。
 
 『日本書紀』は大友皇子の即位は記していません。「天智紀」の次は「天武紀」になっています。
 ところが、江戸時代に水戸藩主徳川光圀が編纂した『大日本史』は大友皇子が天皇の位についた、
としたのです。
 そして、明治三年、大友皇子は弘文天皇の諱号が与えられ晴れて39代天皇と認められたのです。
 それまで大友皇子が天皇になったのかいないのか、という議論はもっぱら即位したのかどうか、と
いうものでした。
 大友皇子を天皇とする人々は、天智崩御後の混乱のために即位の儀式を行うことができなかったが、
実質は天皇として近江朝に君臨していた、と考えたのです。
 まして、『日本書紀』は天武天皇の系統の時代に編纂されたものですから、大友皇子が天皇であった
とは書かないでしょう。
 
 それでは、青の人々が反逆者である大海人皇子に与した理由は何だったのでしょうか。
 考えられる理由は、これまで見てきたように、青の人々は製鉄に関係し、そして製鉄に関わる人々は
太陽信仰を有していたということです。
 このことが、以前に、
 「二十六日、朝に、(大海人皇子は)朝明郡(あさけ郡)の迹太川の川辺にて天照大御神を遥拝たまう」
とある、『日本書紀』の記事が「注目すべき記事」だと称した理由なのです。
 
 この記事は、大海人皇子が吉野を脱出して安八磨郡に向かう途中の出来事を述べています。
 ただし、この記事で問題となるのは、この時代に天照大御神を祭神とする伊勢神宮が成立していたのか、
ということです。
 伊勢神宮の成立について、雄略天皇の時代に成立したとする意見もありますが、天武朝以降とする
意見も多く、壬申の乱において伊勢神宮が成立していたか否かはっきりしないのです。
 それに天照大御神は皇祖神です。もちろん大海人皇子も皇族ですが、この時点においては近江朝の
大友皇子こそが正統なのです。天照大御神を拝む理由は何だったのでしょうか。
 
 思うにこれは太陽神を拝むというパフォーマンスだったのではなかったでしょうか。
 そう考える理由のひとつに、大海人皇子が遥拝した地が朝明郡だったことが挙げられます。
 朝明郡は伊勢の朝日郎の本拠とされるところであり、朝日郎は伊勢津彦と重なります。「伊勢国風土記
逸文」の伊勢津彦は太陽神の性格を持ち、このことからも伊勢国は古くより太陽神の坐す国と見られて
いたと思われます。
 太陽神を拝む、という行為は青の人々に訴えるパフォーマンスだったのではないでしょうか。
 
 翻って近江朝はどうだったのでしょうか。
 乙巳の変で蘇我氏本宗が中大兄皇子(天智天皇)らに滅ぼされた時の天皇は皇極天皇でした。この
時の都は明日香です。
 乙巳の変の後、皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位します。
 孝徳天皇は難波宮に遷りますが、難波は太陽神を迎える八十島祭の斎場でもあるのです。
 ところが、中大兄皇子は皇極上皇や朝廷の人々を引き連れて明日香に戻ってしまい、朝廷は難波と
明日香に分裂してしまったのです。
 その後中大兄皇子は天智天皇として即位しますが、今度は都を近江の大津宮に遷してしまいます。
近江朝の誕生です。
 即位前に行われた白村江の戦いの後処理など、天智天皇にはやるべき案件が山積みでした。こうした
中で、太陽祭祀は行われたのでしょうか。
 
 興味深い歌が『万葉集』に収録されています。
 まずは、天智天皇薨去の際に額田王が詠んだ挽歌(死者を悼む歌)です。
 
やすみしし 我ご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも
 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は 去き別れなむ (巻2―155)
 
 次に、天武天皇薨去の際に皇后(持統天皇)が詠んだ挽歌です。
 
 明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 我が大君 高光る 日の皇子 いかさまに
 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡きし波に 潮気のみ 香れる国に 味こり あやにともしき
 高照らす 日の皇子 (巻2-162)
 
 この二首の挽歌を比べた時に、たまたまのことでしょうか、天武天皇への挽歌には「高光る日の御子
(この歌では「高光る日の皇子」)」という一文があるのに対して、天智天皇への挽歌にはこれがないの
です。
 このことは天智天皇のスタンスを示唆しているような気がしてならないのです。
 以下のことはもちろん想像の範囲を超えません。
 蘇我氏本宗が権勢をふるった時代、日本は新しい国の姿を求めて改造を進めてきました。それが乙巳の変を
招き、新しく権力を握った者たちによって大化の改新が始まりましたが、それも孝徳天皇と中大兄皇子とで
分裂してしまったのですが、中大兄皇子すなわち天智天皇は「高光る日の御子」をも古い思想として捨てて
しまったのかもしれません。
 一方、太陽信仰を復権させたのが天武天皇だったのではないでしょうか。
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