小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

546 製鉄の人々の伝承と出雲の神 その1

2016年11月11日 01時30分39秒 | 大国主の誕生
大国主の伝承546 ―製鉄の人々の伝承と出雲の神―
 
 
 製鉄に関わる人々は製銅にも関わっていました。
 これは、製銅を行っていた人々がその後に大陸から伝わった製鉄を行うようになった、と
いうことではなく、日本では製銅と製鉄の技術がほぼ同時に伝わった、と考えられている
からです。
 最近の考古学の成果により、製鉄が始まった時期はそれまで古墳時代と言われていた
ものが弥生時代後期にはすでに始まっていたと考えられるようになりました。
 そのため、製鉄に関係する氏族のゆかりの地からは銅鐸が発見されることが多いのです。
 
 それでは、青(おう)の人々と製鉄の関係を伝承から見ていきたいと思います。
 まず、太(おう)氏ですが、少子部氏と同じく神八井耳命を始祖とします。
 神八井耳命は神武天皇と皇后伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)との間に生まれた皇子です。
 イスケヨリヒメは『古事記』に記される名で、『日本書紀』では姫踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタラ
イスズヒメノミコト)と記されています。この名前には「踏鞴(たたら)」が含まれていることに
注目していただきたいのです。踏鞴は、金属の精錬に必要な風を送りだす送風機ですが、
踏鞴板を踏んで空気(風)を送り込みます。アニメ映画『もののけ姫』にも踏鞴が登場するので
どのようなものかご存知の方も多いのではないでしょうか。
 『古事記』でもイスケヨリヒメは改名した後の名で、元は富登多多良伊須須岐比売命(ホト
タタライススキヒメノミコト)であった、と記されています。しかも、イスケヨリヒメの母は勢夜陀
多良比売(セヤタタラヒメ)といい、母娘ともに「たたら」がその名に含まれているのです。
 
 イスケヨリヒメは大物主神の娘ですが、三輪君、鴨君の始祖であるオオタタネコもまた大物主の
子、もしくはその子孫です。
 オオタタネコの「タタ」もまた踏鞴のことと考えられるのです。
 オオタタネコというと、須恵器の技術者集団を統括していた人物というイメージを持たれがち
ですが、製銅にも関係していたようです。
 前に採り上げた、出雲の加茂岩倉遺跡で発見された加茂岩倉21号銅鐸と同じ流水文銅鐸が
大阪府堺市にありますが、これはオオタタネコの本拠に比定される旧陶器村で発見されたと
伝えられています。
 
 兵庫県川西市の多太神社(ただ神社)もオオタタネコに関係します。
 現在この神社の祭神は、イザナキ、イザナミ、ヤマトタケル、仁徳天皇の4柱ですが、言い伝えに
よると、元は、神直(みわのあたい)氏が始祖のオオタタネコを祀るために創建したものであると
いいます。
 なお、同じ川西市市内には多田神社があり、こちらも「ただ神社」というので、区別するために
多太神社は「たぶと神社」とも呼ばれるそうです。
 この川西市と、隣接する猪名川町にまたがって多田銀山が存在していて、かつては銅も採掘
されていたそうです。奈良東大寺の大仏建立のための銅もここで採れたものが使用されたと
いいます。
 
 一方の太氏ですが、こちらも銅鐸の伝承が残されています。
 と、言うのは三重県四日市市大鐘町のことで、この地名の由来は地中に大きな鐘が埋もれて
いたことからきたといい、おそらく銅鐸のことと思われます。
 そして、大鐘町には太神社(おおの神社)が鎮座し、式内社の大神社に比定されています。
 谷川健一の『青銅の神の足跡』によると、太神社の神職は明治まで代々船木直(ふなきの
あたい)の末裔が務めてきた、とありますが、船木直は太氏と同族です。
 このことは、『古事記』にも、
 
神八井耳命は、意富臣、小子辺連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、
雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、
伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の始祖。
 
と、記されています。
 ところが、『住吉大社神代記』は、伊勢津彦を伊勢の船木氏の祖としているのです。
 『住吉大社神代記』がそのように記す理由は、伊勢船木氏の本拠が朝明郡であることが関係
しているのかもしれません。
 それと言うのも伊勢津彦が朝日郎と重なるからで、朝日郎は朝明郡を本拠にしていたと言われ
ているのです。
 朝日郎という名もそうですが、伊勢津彦には太陽神としての性格がその伝承から見て取ることが
できます。神八井耳命は大物主の孫にあたるわけですが、大物主もまた太陽神であったと考えら
れています。
 太氏が祭祀していた多神社も太陽信仰の場でもあります。
 
 さて、「伊勢国風土記逸文」によれば伊勢津彦は別名を出雲建子命(イズモタケコノミコト)と
いいます。
 なぜ出雲なのか。
 前章の「出雲臣と青の人々」の中で、天武天皇が信濃に都を造営する計画を抱いていたことに
触れましたが、実はそこには伊勢と信濃と出雲をつなぐ線が隠されているのです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿