いろは蔵の並ぶ通りを「いろは蔵通り」といいますが、実際には点在する、といった方が正しい気もしない
ではないです。
で、いろは蔵とはそもそも何か?
廻船業者として名をはせた食野家をはじめとする江戸時代の豪商や地主たちの所有する蔵が海岸一帯に建ち
並んでいて、その数が48だったことから「いろは蔵」と呼ばれているそうです。
「いろは」は四十七文字なのですが、末尾に「京」もしくは「ん」を加えて四十八文字にすることがあるから
です。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は吉良邸に討ち入りした赤穂浪士の人数が47人だったことからきていますが、
こちらは、いろは四十七文字派ですね。
もっとも現在では海岸線も西に移り、蔵も10ほどしか残っていないとか。
現存する蔵も今は住宅として使用されているようです。
そういったところで、くるまみちを戻ることにしました。
くるまみちから南に入ったところにある泉佐野ふるさと町屋館。
旧新川家住宅、とも呼ばれます。
江戸時代に建てられた町屋で、中を見学することもできます。
この家の最後の主人となった、当時の新川家の当主はお仕事で九州に引っ越すことになったため、この家を手放す
ことにしたのですが、文化遺産として市が買い取ることになったんだとか。でも実際の管理はボランティアの人たちで
行われているようです。
泉佐野ふるさと町屋館の前をすぎ、辻を左に折れると白壁に囲まれた明厳寺が見えます。
さらに進んでいくと、長者の名残を新たに発見。
覚野兵蔵家の米蔵です。
国登録有形文化財に認定されています。
かつて、この場所には米穀肥料を扱う有力商人の覚野兵蔵家のお屋敷がありました。現在その屋敷は存在しませんが、
米蔵だけは残されました。
泉佐野市のホームページには「迷宮都市 佐野町場」とありますが、まあ確かに碁盤の目のような区画ではありません。
でも、これはこれで赴きがあるとも言えるんでしょうけども。
街道を歩いているとよく昔ながらの丸ポストが現役で残されているのですが、街道から外れたところにも丸ポストが
残されているのはちょっと珍しいかもですね。
昔さながらに着物姿の人が歩いていても何の違和感もない雰囲気ですね。
さて、そのまま歩いて行き、西方寺へと向かいます。
ではないです。
で、いろは蔵とはそもそも何か?
廻船業者として名をはせた食野家をはじめとする江戸時代の豪商や地主たちの所有する蔵が海岸一帯に建ち
並んでいて、その数が48だったことから「いろは蔵」と呼ばれているそうです。
「いろは」は四十七文字なのですが、末尾に「京」もしくは「ん」を加えて四十八文字にすることがあるから
です。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は吉良邸に討ち入りした赤穂浪士の人数が47人だったことからきていますが、
こちらは、いろは四十七文字派ですね。
もっとも現在では海岸線も西に移り、蔵も10ほどしか残っていないとか。
現存する蔵も今は住宅として使用されているようです。
そういったところで、くるまみちを戻ることにしました。
くるまみちから南に入ったところにある泉佐野ふるさと町屋館。
旧新川家住宅、とも呼ばれます。
江戸時代に建てられた町屋で、中を見学することもできます。
この家の最後の主人となった、当時の新川家の当主はお仕事で九州に引っ越すことになったため、この家を手放す
ことにしたのですが、文化遺産として市が買い取ることになったんだとか。でも実際の管理はボランティアの人たちで
行われているようです。
泉佐野ふるさと町屋館の前をすぎ、辻を左に折れると白壁に囲まれた明厳寺が見えます。
さらに進んでいくと、長者の名残を新たに発見。
覚野兵蔵家の米蔵です。
国登録有形文化財に認定されています。
かつて、この場所には米穀肥料を扱う有力商人の覚野兵蔵家のお屋敷がありました。現在その屋敷は存在しませんが、
米蔵だけは残されました。
泉佐野市のホームページには「迷宮都市 佐野町場」とありますが、まあ確かに碁盤の目のような区画ではありません。
でも、これはこれで赴きがあるとも言えるんでしょうけども。
街道を歩いているとよく昔ながらの丸ポストが現役で残されているのですが、街道から外れたところにも丸ポストが
残されているのはちょっと珍しいかもですね。
昔さながらに着物姿の人が歩いていても何の違和感もない雰囲気ですね。
さて、そのまま歩いて行き、西方寺へと向かいます。