小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

391 住吉大社の埴使の神事

2015年05月25日 00時51分19秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生391 ―住吉大社の埴使の神事―
 
 
 住吉大社の司祭氏族である津守氏は、『先代旧辞本紀』によれば天照国照彦天火明櫛玉
饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)五世の孫建筒草命を
祖とする、とあります。
 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は太陽神であったと考えられていますし、神功皇后のいわ
ゆる三韓征伐に際しては住吉三神が神託をするなど、神功皇后・応神天皇にも関わるので、
住吉大社と津守氏が八十島祭に関与していても何ら不思議はないように思えます。
 
 すると、津守氏の関わりは、岡田精司が考察する、八十島祭の国魂神と太陽神の祭儀のうち、
太陽神の祭祀の方だと考えるべきなのですが、そのように単純にはいかないようです。
 住吉大社と津守氏には、国魂神の祭祀の性格も見られるのです。
 
 住吉大社に伝わる神事に「埴使」というものがあります。
 この神事については、三谷栄一の『日本神話の基盤』に詳しいのでこれを引用してみます。
なお、三谷栄一は、真弓常忠の『天香山と畝火』を参考にしていることを追記しておきます。
また、文中の中略部分、改行はこちらで行ったものであることをお断りしておきます。
 
 
 埴使とは毎年二月、十一月の両度、住吉神社では祈年祭と新嘗祭を行うに先立って、この
両祭に用いる土器を製造するために、その埴土をわざわざ大和の畝傍山頂で採取する役で
ある。その使を特に「埴使」といい、住吉神社の恒例の神事となっていることである。
 埴使は当日早朝斎戒して神前を拝し、直接畝火へは向かわず、手前の曾我川のほとりに
ある雲名梯社(うなて社)に向うのである。『摂津名所図会』によれば、「当年初冠せし神人
此役を勤む。烏帽子狩衣を着し、祓を修し、馬上行列あり。路次一日にして彼所に至る」とある。
 一行はまず曾我川で潔斎し、旅装を祭服に改めたので、この川を「装束川」といい、社を
「装束の宮」とも称したという。雲名梯神社は(中略)『延喜式』の神名帳、高市郡の筆頭に掲
げられた『高市御県坐鴨事代主神社』のことである。ここでは正使は参列して玉串を捧げ拝礼を
するにすぎないが、副使が祝詞を奏する。その内容はほぼ「この高市郡雲梯の里に鎮り坐す
雲名梯神社の大前に、往古よりの古例と定められた通り、大和の国の畝火山の埴を取って、
住吉大神の祈年(または新嘗)祭に八十平甕(やそひらか)を作って奉る例に随って、事代主神の
大前に幣帛を捧げ奉り、畝火山口神社に参出て御祭を仕え奉る状を平らけく聞こし召し給え」と
いう意味のもので、畝火の埴土を取ることをまず雲名梯神社の事代主神におことわりするわけで
ある。このことは真弓氏も触れているように、副使が祝詞奏上することと畝火山の埴土を取るこ
とを、なぜこの社で事代主神に奏上してことわらなければならないのかが重要な問題である。
 さて、雲名梯神社における祭典がすむと畝火山口神社に向う。畝火山口神社は、神名帳に
「畝火山口坐神社」とある由緒ある社だが、何故か息長足姫命、表筒男命、豊受姫命を祀り、
「畝火明神」また「神功社」と称し、宮司は累代社家大谷家で、今は雲名梯神社宮司も兼ねて
いるが、武内宿禰の祖としている。神名帳所載の「東大谷日女命神社」にも関係あろうと真弓氏は
推定されているが、恐らく首肯されるところであろう。息長足姫命、表筒男命を祭神とするのは、
住吉神社といかに深い関係があるかを物語るものでなければならない。
 
 
 以上が三谷栄一『日本神話の基盤』に書かれている内容なのですが、畝傍山の土を採取して
八十平甕を作る、というのは国魂神の祭祀を思わせるものです。
 
 ところで、文中には、畝火山口神社の祭神が息長足姫命、表筒男命、豊受姫命で、うち息長
足姫命(神功皇后)と住吉三神の一柱である表筒男命が祭神であるのは理解できる、と三谷
栄一はしているのですが、豊受姫命については、ホムタワケ(応神天皇)が名を交換した気比
大神のまたの名が御食津大神であり、これが豊受大神同様に食の神の名と思われることと
無関係ではないでしょう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿