小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

615 物部氏と出雲 その3

2017年12月07日 00時16分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生615 ―物部氏と出雲 その3―


 それから、あらためて考えてみると、天語にせよ『万葉集』巻16-3807にせよ「雄略紀」にせよ、
共通しているのは采女の他にも、歌によって許されるという筋書きになっていることが挙げられるの
ですが、
この歌によって、というところに何か意味はあるのでしょうか。
 前章では、土橋寛の『古代歌謡と儀礼の研究』を採り上げ、その中で、本来は民間行事であった
国見や歌垣が、民間においては花見などの行事となり、または物語文学へと発展していった一方、
宮中にも取り入れられて王権祭祀に発展した、と考察がなされていることを紹介しました。
 本来は地方の素朴な寿ぎ(ことほぎ)であった歌物語がやがて中央の儀礼として取り込まれるように
なったものが天語であり神語であった、というのが土橋寛の考察です。

 そのようなもののひとつとして語部の存在も忘れるわけにはいきません。
 語部は新天皇が即位すると上京して壽詞(よごと)を唱和することを職務としていましたが、その
壽詞の内容はそれぞれの語部たちの地方に伝わる神話であったものと思われ、それが天皇の世につな
がるといった内容になっていたものと思われます。
 出雲国造の神賀詞奏上も語部と同じもので、神賀詞の内容も、大名持神(大国主)がその御子神
たちとともに皇室を護っている、というものになっています。

 このような歌が、慶事の時だけではなく実は軍事においても用いられているのです。
 『古事記』や『日本書紀』に登場する久米歌などがそれに当たります。
 久米歌はその名が示すように、久米氏によって歌われた歌のことですが、久米氏は神武東征において
活躍した氏族です。
 その久米歌ですが、『古事記』に登場するものを挙げてみると、宇陀の兄宇迦斯(エウカシ)を
討った時に歌ったものがあり、歌の内容はユーモラスなものであると同時に、「これは人を嘲笑する
ものである」となっています。

 この久米歌は兄宇迦斯を討った後に歌われたものですが、反対に忍坂の大室にて八十建(ヤソタケル)を
討った時は、その前に歌われています。
 この時は、歌が歌わることを合図にして、一斉に八十建に襲い掛かるというものに久米歌が使われて
いましたが、こちらの歌の内容も、「久米の子らが 武器を持って 殺してしまおう 久米の子らが 
武器を持って 今から殺してしまうぞ」と、戦いの歌になっています。

 『古事記』では、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が出雲建(イズモタケル)を討った後に、

やつめさす 出雲建が佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)さわまき さ身無しにあわれ

と、歌ったとありますが、これも久米歌と同じものであることは言うまでもありません。
 さらに言えばこの歌そのものが伝承となっていることは、『日本書紀』では出雲振根が飯入根を謀殺
した時に、

 八雲たつ 出雲梟帥が佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さわ)巻き さ身なしにあわれ

と、歌っていることからもうかがうことができます。

 このような歌はやがて久米舞や吉師舞など、宮中において行わるものに発展していきますが、これも、
征討する側からの服属儀礼となったものと言えます。

 しかしながら、物部氏に関して言えば、歌謡が付加された伝承を持たないという問題があります。
 ならば、采女、吉備氏以外に物部氏と海人をつなぐものは他にないのでしょうか。
 実は、日向三代の神話に物部氏が関係している、というところを見過ごしてはならないと思います。

 天孫降臨から神武東征の間の系譜は一般に日向三代と呼ばれます。

 番能邇邇芸命(ホノニニギノミコト) 妻・大山津見神の娘、木之花佐久夜毘売
 ↓
 火遠理命(ホオリノミコト) 妻・綿津見神の娘、豊玉毘売
 ↓
 鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト) 妻・綿津見神の娘、玉依比売
 ↓
 神武天皇

と、なります。
 天孫降臨したホノニニギは日向に降り、以降日向に住んだので、神武天皇に至る三代を日向三代と
呼ぶわけです。

 このうち、2代目にあたるホオリノミコトと3代目にあたるウガヤフキアエズノミコトはともに
綿津見神の娘を妻にしているわけですが、初代であるホノニニギノミコトは大山津見神の娘を妻に
しているのです。
 その大山津見神を祀る神社の中でも総本社が愛媛県今治市の大山祇神社(おおやまづみ神社)です。
 ところで「伊予国風土記逸文」には、この神について奇妙なことが記されているのです。

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