小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

541 出雲臣と青の人々 その14

2016年10月28日 00時56分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生541 ―出雲臣と青の人々 その14―
 
 
 東国や吉備、筑紫に協力の要請する使者を送るのと並行して、近江朝は穂積臣百足(ほづみの
おみももたり)とその弟の五百枝(いおえ)、それに物部首日向(もののべのおびとひむか)を
倭古京に派遣します。
 その指令内容は倭古京の武器庫に保管されている武器を近江に運ぶことでした。
 
 大海人皇子もまた、倭古京の重要性を認識していました。
 ゆえにひとつの手を打っていたものと思われます。
 
 すでに触れたことではあるのですが、あらためて振り返ってみます。
 大海人皇子が倭古京の留守司である高坂王のもとに派遣して駅鈴を求めた時、使者の三名の
うち、逢臣志摩(おうのおみしま)には、
 「もし高坂王が駅鈴を拒否した場合、至急朕のもとに戻って来てそのことを報せよ」
と、指示し、大分君恵尺(おおきだのみきえさか)には、
 「もし高坂王が駅鈴を拒否した場合、近江京に駈けて、高市皇子と大津皇子の両名をつれて
伊勢で合流せよ」
と、指示しました。
 ところが、残るもうひとりの使者、黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)に関しては何の指示を
与えたのか『日本書紀』には何も書かれていないのですが、これについて、おそらく大伴連馬来田
(おおとものむらじまぐた)のもとに行くように指示したのではないか、と、しました。
 なぜなら、結果として高坂王の拒否にあい、大海人皇子らは吉野を脱出することになるのですが、
宇陀郡の吾城(あき=宇陀市大宇陀区に比定)まで来た時に、黄書造大伴が大伴連馬来田と一緒に
大海人皇子一行に追いつき合流しているからです。
 そして、おそらくは馬来田だけでなく、その弟の大伴連吹負(おおとものむらじふけい)とも合議を
したものと思われます。
 兄の馬来田が大海人皇子と合流した後も、吹負は大和に留まっていました。
 しかし、大海人皇子が野上行宮に入ったその二日後の六月二十九日、吹負は行動に移ります。
 坂上直熊毛(さかのうえのあたいくまけ)、秦造熊(はたのみやつこくま)らと共謀して近江から
派遣されてきた穂積臣百足を殺害し、穂積臣五百枝と物部首日向を拘束したのです。
 さらに、高坂王と稚狭王(わかさ王)の両名に、味方につくか否かの決断を迫り、大海人皇子に従
うという言葉を引き出したのです。
 
 倭古京を制圧することに成功した吹負は、大海人皇子のもとに使者を送ってこのことを報告し、
喜んだ大海人皇子は吹負を将軍に任命しました。
 ちょうど時を同じくして、三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)と鴨君蝦夷(かものきみえみし)らが
吹負のもとに駈けつけました。
 
 三輪君と鴨君は同族どうしの関係にあります。ともにオオタタネコを始祖にしており、このことは
『古事記』と『日本書紀』がともに記すところです。 
 しかも、オオタタネコは大物主の子(『日本書紀』)あるいは子孫(『古事記』)なので、同じく大物主の
孫である神八井耳命を始祖とする太氏や小子辺氏らとは、大物主を通して同族とも言える関係に
あるのです。
 オオタタネコの子孫という、やはり「青(オウ)」の一族である三輪君と鴨君が大海人皇子側についた
のです。
 
 
 七月二日、ついに壬申の乱は新たな展開を見せます。
 それまで関ヶ原に布陣していた大海人軍がついに動いたのです。
 大海人皇子は、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)、多臣品治(おうのおみほむち)、三輪君子首
(みわのおみこびと)、置始連菟(おきそのむらじうさぎ)らに数万の兵を副えて倭古京に派遣し、
同時に、村国連男依(むらくにのむらじおより)、書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)、和珥部臣君手
(わにべのおみきみて)、胆香瓦臣阿倍(いかがおのおみあへ)らにやはり数万の兵を副えて、近江に
向けて進軍させたのです。
 
 紀臣阿閉麻呂ら倭古京に派遣された部隊は、『日本書紀』によれば、伊勢国から宇陀郡を経由
するルートを進んだようです。
 ところが、その道中で驚くべき報せを受けます。
 大伴連吹負が乃楽山(ならやま。現在では平城山と表記)において、近江朝の将軍、大野君果安
(おおののきみはたやす)の軍と戦い敗れた、というのです。
 この報せを受けた阿閉麻呂は、置始連菟を先行部隊として倭古京に急行させます。
 
 菟の部隊が墨坂(現在の宇陀市榛原)まで来た時、馬に乗った吹負が敗走してきました。この時
吹負に従っていた者はわずかに一名か二名であった、と『日本書紀』は記します。
 おそらく吹負も、紀臣阿閉麻呂らがこちらに向かっているという連絡を受けていたものと思われます。
宇陀に向えば阿閉麻呂らと合流できると考えたのでしょう。
 
 菟と吹負らは金綱井(かなづなのい。所在未詳。橿原市今井町付近とする説が有力)に宿営します。
 散り散りになっていた兵たちも次第にこの駐屯地に集まってきました。
 
 この時、大海人軍に神託がくだるのです。

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