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内田典子さんのこと

2013-01-04 12:04:40 | ともに生きる現場
 12月31日、年も押し迫った大みそか、私は新座にある内田典子さんのお宅を訪れた。福岡から告別式にかけつけられたなかった私は、どうしてもご仏前にお参りに行きたかった。突然の訪問だったのに、ご主人の勇治さんが駅まで迎えに来てくださった。一人娘の貴子さんも在宅されていた。
 長く新座市の社会教育職員としてつとめてきた内田さんがこの世を去ったのは、60歳で定年退職されて、わずか1年余り後の昨年7月のこと。25年間の公民館勤務ののち、退職まで8年の福祉業務、2年間の出納室長をつとめられた。「毎年、希望を出しているのに、ついに、社会教育に戻れなかったわ」と笑っていた内田さんを思いだす。「はんさむウーマン」という劇団をつくり北京女性会議に女性問題に関する演劇を携えていくなど、めざましい実践力を発揮していたのに(だからこそ?)現場を離れることになっても、内田さんは一市民として女性問題学習の現場を離れることはなかった。
 生活保護の世界にいても、彼女は常に社会教育人だった。彼女はとにかく、「一生懸命聞く」ことに徹したという。これは社会教育で長いことやってきたことと同じだと彼女は言っていた。「大変でしたね、私も同じ立場にいるかもしれない」そういうと、たいていの人が泣いてしまう。受け止めてくれる人がこれまでいなかったんだと思う。けれども「聞きすぎです。話半分、嘘半分で聞いてください」「僕はここにくるまでは性善説でした。しかしここにきて性悪説にかわりました。あまりに騙されすぎて。」と仲間のケースワーカーにいわれてしまう。彼らはかなり傷ついていた。けれども内田さんは揺らがない。「これは国の制度なんですから。よくがんばってここまできましたね。その力があるんですから、その力をこれからの人生の組み立てに使ってください」そういえば、相談に来た人も、これからのことに力になってくれるんだな、とうけとめてくれたという。

 子宮がんを3年前に克服されていたのだが、最後に彼女の命を奪ったのはすい臓がんだった。女性問題がライフワークだった内田さんにとって、新たにはじめた家裁調停委員の仕事は女性の権利を守る視点からもまさに彼女の力を存分に活かせる新天地、現場では次期会長にと嘱望されてすでに必要な会議にもではじめていたらしい。何もかも、まだまだこれからの人だった。講師としてもまだまだこれからだった。ご主人が派遣依頼の書類を束にしてもってきてくださった。すでに全国に、こんなにも飛び回って話していた、その足跡の記録として大切に保管されていた。夫である勇治さんの、妻への深い敬意を感じた。

 「私はどんなことがあっても女性の味方」といいきっていた内田さんのことばが印象に残っている。その懐の広さを、私も一人の女性としてかどうかわからないが、安心して頼みにしていた。職業人としてというよりも、人と人として出会わせていただいていたのだろう。私だけではない。5年間埼玉大学で授業をしていただき、学生たちに多くの影響を与えてくださった。またそれ以前に「肝高の阿麻和利」さいたま公演実現の際、応援を求めたところ、市民実行委員として力強く学生たちにつきあい応援してくださった。ゼミ生の朋恵さんは、彼女と高校時代に出会ったから埼玉大学で社会教育を学ぶことになり、今は横浜市職員をしている。学生たちとの出会いも私と同様、生きざまを交わし合う出会いだったに違いない。

 ただ私は自分がジェンダー問題を専門としていないこともあって、彼女自身の歩みや家庭人としての姿についてはよく知らなかった。お宅で夫の勇治さんから見せていただいた写真のなかの若い日の内田さんはスマートかつとても美人で、まさかのちにジャンヌダルクのようなたくましさをかもしだすとは思えない姿だった。それになるほどと思わされたのは、「僕は彼女に教育されました」という勇治さんのことばに象徴される、社会教育の現場でも、家庭のなかでも、ともに活動し・ちゃんと葛藤し、生きてきた夫婦のありようだった。社会教育のしごとをはじめたころは、ご夫婦一緒に青年学級に出ていたこと。バンドマンだった勇治さんがいろんな手伝いに駆り出されていたこと。3度目の出産でようやく得たわが子の子育てや家庭のしごとでは、とくに料理に関しては早く帰ることの多い勇治さんのほうが多く携わっていたこと…。
 初めて聞く話ばかりだったが、帰り際にいただいた、『みかんのたね』という追悼文集をのちに読むと、内田さん手書きの原稿『私の転機』という文章にすべてが記されていた。「私たち夫婦にとっては、互いにぶつかりあいながら築いてきた家事共働の十年間は貴重な体験だった。私たちは、二人が互いに人間らしく生きるためには、共に経済的にも生活的にも社会的にも自立していることが重要だというところまで、どうにかこぎついた」…まとめにはそう、さらりとかかれているけれど、それは相当なことだ。末尾には「1984年10月。娘、貴子へ」と記されていた。
 
 個人の歩みと社会への発信・協働をこんなにもストレートにつないで、たくましく生きてきた内田さん。彼女の歩みは、きっと娘さんや学生たちの歩みにつながっていく。私はそう、信じている。

 追:「みかんのたね」は内田さんのシンボルマークだったとのこと。お仲間たちは彼女のことをちゃんと知っている。