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人に自然に耳を傾けながら、まちを歩こう。

ついでに、夢を語るということについて -海士町

2012-03-26 18:27:28 | 旅の記憶
 海士町ついでに考えさせられた、青少年が「夢を語る」ということについて。
 いまこの島では中学生が夢語りをするステージが用意されている。そのことが、教育施策として、推進されてもいた。島では、夢を語りにくいのが今のご時世。島に生まれたということだけで、あきらめなければならないことがたくさんある、というのが島に生まれたゼミ生イトウくんの嘆きでもある。
 その夢語りの場で、子どもたちの半分は福祉職を夢としてかかげるらしい。地元に帰ってくる可能性が高いからだろうか。また意欲的なとりくみで有名な高校では、キャリア教育にも力が入れられていて、次々とビックネームがよばれている。わが大学のオカザキ先生経由で、バングラディシュのユヌスさんのメッセージまでとどけられていたのはびっくりした。

 でも、とくに地の人々からすると、なにか違和感がある、ということらしい。たしかに「夢」って、内側からうかびあがってくるもので、語らなければならないものじゃない。そのとりくみが注目され、大人のまなざしが集まるほどに、もしかしたら自然体をこえて、大人の期待する何かをつくりはじめなければならなくなってしまうかもしれない。「オレなんて、中学高校のころはふらふらしていたよ。それじゃいけないのか?」という声もあった。そうだよなあ。

 うーむ。教育ってほんとむずかしい。「思い」を教育することができるのだろうか。
 ちなみに「夢」に近いので言えば、昔そういえば、まちづくりやる若い仲間たちと「ほらふき大会」はよくしていたな。うん、「ほら」のほうが、なんだか健康的なのでは?できるかどうかわからない。半分本気だけどかなり、ほら。でも、いっちゃえ。でもそれを大声でいって、それを笑ってしっかり聞いてくれる仲間や関係があって。そういう信頼関係の下地こそが、大事なことなのかもしれない。夢を語る子どもたちは、私の夢を聞いてくれてありがとう、と思っているのかな。聞いた大人たちは、その夢を語ってくれてありがとう、と思っているのかな。そういう意味では、子どもたちの夢は、子どもと大人がともにつくっていくものなのかもしれない。それを外からうかがい知るのはなかなか難しいことだよな、とも思う。

島には、「人生」と「ほんもの」がつまっていた。

2012-03-26 13:34:26 | 旅の記憶
 この3月、3つ目の旅先は、島根県海士町。島のまちづくり×地元学の視点で海士町の集落支援員制度についての卒論を書いたイトウくんが現地で卒論発表会をさせていただくのに便乗して、私も海士町入りした。海士町はいまやIターン人気日本一の島だ。人口2200人、うちIターン人口がすでに1割をこえている。町長以下役場職員の身銭をきった改革、Iターン誘致への斬新な発想や投資、高校改革はじめ教育への多面的な尽力。そんなまちづくりをしているところでなければ、私は隠岐の島に一生のうちに行く機会を得ただろうか。
 隠岐の島は、米子から約1時間かかる七類港からさらにフェリーで約3時間強かかる。福岡からの便はすごくわるくて丸一日移動にかかってしまう。ただ今回私は釧路から直接入ったので、乗り継ぎの東京から20時の便で米子鬼太郎(!)空港にとび、らくらく翌朝9時半の船にのれた。日本ってそういうところ。東京からはどこへいくにも便利。地方と地方の移動はすごく不便。
 でも最近つくづく感じるのは、それだけ交通の便に恵まれていてももはや大事な情報は東京には少ない、ということ。アンテナの高い人々が地方間をゆききして、そこに知恵は結集されつつある。海士町にも、たくさんの発信者たちがのぞんで島をおとずれ、まちで奮闘する地元の人やIターン層と交流し、たくさんの感度の高い情報が行きかっている。たった丸2日いただけで、それを強く感じた。海士町入りして最初にお会いした集落支援員/スタジオLの西上さんいわく、「そう、いまやたくさんの企業も島にホームステイしてニーズリサーチにきているんですよ」とのこと。人口のすくない、ある意味暮らしに特殊性の高い島に、なぜ?一瞬意味がわからなかったが、もっと少子高齢化がすすむ未来社会では、高齢者は支えなしに自力で生きていかねばならない。そのころの生活モデルのひとつがむしろ、今の島の高齢者の暮らし方、ということらしい。一方で、巡の輪というまちづくり会社をやっている阿部さんは、「五感塾」はじめ島のくらしを学びとお金の循環のフィールドとして、「ほんもの」の価値をもとにしながら社会のしくみとしてなりたたせるしくみを模索し発信しようとしている。彼はさまざまな人の出会いの場をつくる。一線の料理人たちもあつまってきて、島のばあちゃんたちの手料理に学んでいるのだという。

 写真は、島でほとんど唯一、Iターンから半農半漁で生計をたてる道をあゆみはじめた、KIRAさんのお宅。あいたお宅を借りて、家のそばを開墾して自然農の畑をつくり、馬を飼い、納屋を改造して民泊で人がとまれるようにしつらえている最中だった。現金はむしろ即収入になる漁業のほうでまず確保する。リタイア後のゆったり農業ライフとは一味違って、ゆるりと土地に海に向き合いいろいろくみあわせながら、総合的にそれで「食べる」ことを実現しようとしている。無理に草取りしない、化学肥料はまかない、でも目は配るという自然農の畑に成長していたパセリを食べさせていただいた。苦味が残らない、甘みのあるパセリだった。ぽかぽかと、ひだまりのなかに雑然と自然体でそこにある畑、木々たち。あまりの気持ちよさに「天国みたい…」と口についてでてしまった。まだ珍しいとりくみだとしても、こうして農業を目的として入ったわけじゃないIターンの人が、この島にふれていくなかで、農で生きる道をはじめている。決して簡単な道ではないと知りながらも、このKIRAさんがつくる空間にいるだけで、余計に身につけてしまったものが一枚一枚はがれていくような気がした。
 Iターンの人々が活力への媒体となって前進する島。その島の集落単位でも、どうともに生きているか、地道なまちづくりもはじまっていた。一方で「もうIターンといわなくてもいいじゃないか、といってくれるんです」という声もあった。Iターンって、分断を意識化しのりこえていくためのことばでもあるだろうけれど、暮らしの場面で「ともに」をより強く追及したい、という段階にきているということなのかもしれない。

 まだまだたくさんの人、とりわけ今回は島に生きる圧倒的に20-30代の人々の生きざまに出会い語り合って思ったこと。それは島ってなんだろう、ということだ。島で生きることをテーマにしているイトウくんを介して海士に出会ったから余計だったのかもしれない。船でのみ、たどりつき、別れる空間。それはひとりひとりの人生の進路への決断がよりくっきりうかびあがる空間だろう。いま島をめぐる状況のなかで意識せずとも島に生きる人たちにどう生きるかを問い続けているだけでなく。また、資本主義的な産業構造が本質的に向かないだけに(もちろん海士町がCASシステムという技術をとりいれて島のほんものの産物を流通構造にのせたような努力はありうるのだけれど)働くこと、食べること、語り合うことがなんともシンプルにそこにあるともおもった。人がときに島に旅したくなるのは、だからなのだろうか。
 3月末ということもあり、幾人も、この3月で島を離れるというIターンの人に出会った。ひとつひとつ、春からの新しい挑戦をひかえている旅だちだった。たくさんの人生が島の中にてかわされ、うかびあがっていた。わたしもその空間の魅力に照らされていろんなことを思い出した。島には人生がつまっている。そんな気がした。

初まじくる! -釧路にて

2012-03-19 23:12:05 | 旅の記憶
 ただいまわたくし、旅週間です。毎日書きたいことが軒並みおこっていき、記述がついていかない…。
 地域生活支援ネットワークサロンという釧路のとりくみがある。私とほぼ同年代ながら5億の事業をおこし、ウーマンオブザイヤーの冠もさらってしまった女性、日置真世さん。以前彼女の来福記のことを書いたけれど、そのときこの3月に釧路に行くことを約束していて、はれて初釧路が実現した。日置講演にて、「zっとスクラム」という困難世帯の中学生たちの学習支援事業にピンときた3年生、ぐんちゃんも一緒の、2人旅だ。
 きっかけはなんでもよかったのだけれど、「まじくる交流会をやるから」といわれていた。いざいってみたら、「PS」(パーソナル・サポート)事業にとりくむ専門職たちのつどい、が中心で、ちょっと場違いかとどきどき。それでもプラスして一度釧路に学んでみたいと思っていた有名なべてるの家のメンバーやら、大阪府箕面市の暮らしづくりネットワーク北芝やら、いずれも私もまた一度は訪問したい勢いのある実践が集結していて、豊かな交流の場が生まれていた。

 フォーラムにつづけてクローズドで開催された18時半からの「まじくる交流会」。この時間だもの、お酒を交えた交流の場かとおもいきや、お寿司&ソフトドリンクというなかなかない組み合わせ(!)で、完全に、彼らがまじくる、と称する学習スタイルの模擬実践だ。
 「まじくる」とは、まぜくる、とでもいうか、あたりまえに、いろんな価値観や立場の人がまぜこぜにまじりあう、ことを意味している。別にそれだけならば珍しくないのだけれど、彼らはそれを、たとえば学習支援実践で、たとえば職業訓練で、と、ほおっておけば機能的に進み会話もおこらない空間に対し「語り合い、自らを表現する場」としてたちあげていく。
 そもそも、「やりたい人がやるのが大事、と世間はいうけれど、やりたい人にはやらせない、のが大事」と日置さんが語っていたのがとってもおもしろかった。やりたい人、ではなく、彼らが生みの親と称する切実なニーズをもつ人がまんなか。その人がとびこんできて、事業化へつながっていくことのできる、「場」=媒体をつくっておくのが大事だというのだ。
 なにより興味深いのは、その「場」は人を勝手に育てるということ。「5億」という数字は、単にいろんな事業を立ち上げたとい事以上に、それを勝手に担い進めていく人材が育ったという証。それは、すごいことだと思うのだ。

 さりげない気配りの人、日置さん。たった3日間しかいなかったけれど、初日には若者を集めて研究会と称して手製の鹿肉カレーでの徹底語り合いの場を、3日目には夏月荘でゆったりじっくり5時間すごし、私たち手製の水炊きの鍋をかこむ場をプレゼントくださった。釧路の人々と語りこんだ充実感を手に、私たちは釧路を後にしたのだった。

それでも、友人として -韓国・釜山への旅その2

2012-03-19 22:38:29 | 旅の記憶
 プサン2日目。当初2日間にわけてくんでいたパンソン2洞への研修が1日に短縮され、2日目は自由行動になった。さてどうしようか。タナカ助教は、どこへでもおっしゃるがままに、という。さて。博多港でゲットした観光案内図を見ていたら、「甘川文化村」というところが妙にきになった。釜山のマチュピチュと称されている。暮らしのみえる路地歩きができるかも。東箱崎の国際交流委員長でK大出身の大学の先生でもあるラフマンさんもお誘いして、一路タクシーで現地へむかった。一番有名な観光市場をわずか5分ほどのぼると、そこが「文化村」だった。

 なるほど。小さな家屋がびっしりと山あいにたちならび、そのままだとおそらく廃屋地区に化していきそうなところを、全面的に壁も家屋もアートで彩り、スポットをあちこちにつくって、スタンプラリー的に回遊できるようになっていた。ほんとうに人一人通れるのか?という細い道、軒先、洗濯物や干し魚の脇…etc.、かなりな高低差ではあったけれど、宝物を探すようなわくわく感をもって、晴天の空の下を私たちは回遊した。家一軒アートスポットになっている建物では、アートも楽しみつつ、同時にこんな小さな家にすんでいたんだ…と暮らしの空間を感じたりもした。一休み処のブックカフェではコーヒーの機械がこわれていたけれど、スタッフさんが寒いでしょ、飲んでください、と自分の水筒からコーヒーをわけてさしだしてくれた。

 これらは行政が前面に立ち、アーティストたちと協議体方式でくんで2009年からはじまった街再生事業なのだという。ゴール地点にはこの地区の歴史とともに、保存と再生を主眼とした文化のまちづくりの模様がパネルに解説されていた。
 興味深くながめていた私たちに話しかけてきてくださった方がいた。友人たちと日曜日だったのでミサにでて、食事をとって、ここで一休みをしておいでのところで私たちに遭遇したのだ。その方、イさんは、この地にて子ども時代を過ごし、大きくなったのだという。「いまはこうしていいまちだと思われるかもしれないけれど、このまちには胸の痛くなる歴史もあるということも、忘れないでほしい」と語られた。朝鮮戦争のとき、全土から釜山にたくさんの避難民が流れ込んできた。彼らは山手にたくさんの家をたてた。それが甘川洞だった。生活環境が一向によくならないなかで、大人は市場に労働にでて、子どもたちは勉強を好まれない地域環境のなかを生きた。「私たちは、時代の被害者だ。」イさんはそれでも必死に高校を出たという。

 日本の戦争責任のこと、南北統一のこと、誠実に、しかし率直にご自身の考えを伝えながら、「それでも僕は日本からたくさんのことを学びたいし、日本とは友人となっていきたい」といってくださった。そして4人が出会えた記念に、と近くの「ここは僕らのかあさんの味」と自分たちにとってとびきりの麺処に案内し、ごちそうくださった。観光客は絶対に入らない普通の民家のような食事処の入り口の小さなテーブルで、私たちはマッコリの杯を重ねた。
 …民主化以前の韓国の人々の苦労、歴史。いろんな思いがありながらも、それでも、友人として。韓国と日本どころか、釜山と福岡という、本当に近くて遠い私たちに、イさんはたくさんのこころと事実へのまなざしをくださった。韓国への視野をもたぬまま今日まできてしまった私にとって、一日目のヒマンセサンにも匹敵する、大事な出会いだった。

けやき図書館がくれたもの -韓国プサン研修・交流の旅その1

2012-03-18 01:38:21 | 旅の記憶
大学のおひざもと東箱崎校区・国際交流委員会のみなさんと、釜山へ!
 一昨年11月、韓国の住民自治センター関連のみなさんを千葉大学の長澤先生の研究グループが福岡に迎えられた。その際たのまれて私が仲介したのが東箱崎校区。さすがの東箱崎、この縁をほおってはおかない。こんどはわれわれが韓国に研修旅行をくもう、サポートしてください、と依頼をうけ、長澤先生と相談して、やはりヒマンセサンでしょう、訪問するなら、ということに。その訪問が3月10日に実現した。

 ヒマンセサンというのは「希望社会」という意味らしい。パンソン2洞というプサン郊外の遅れて開発された地域は、生活困難をかかえた人々が少なからず住むなどさまざまな地域課題をかかえていた。そこで住民自らがたちあがり、地域づくりをすすめてきたわけだが、その住民委員会の一部というか、ひとつ組織を隔てて地域NGO的にさらに意図的に、より若手しかも女性が多いことを特徴として組織されたのがヒマンセサン。彼女彼らはさまざまな活動を行ってきたのだけれど、もっとも有名なのは自分たちで街頭に立ち、はたらきかけて資金を集め、子どもをまんなかにすえた自分たちの図書館をつくってしまったことだ。その名も「けやき図書館」という。
 入口に入ると、木の絵が前面に描かれ、そこに図書館づくりにかかわった人の写真が葉っぱのように綿々と張られている。図書館の日々が、お年寄りから子どもたちの活動写真を素敵にたくさん張り出していく中で浮き彫りになっている。私たちの目はあちらこちらにくぎづけになってしまった。

 実はヒマンセサンのとりくみについては、東箱崎にきていただいたときにヒマンセサン副会長のソクヨンシルさんが報告してくださっている。ところがその日訪韓メンバーのほとんどは、夜の交流会準備舞台だったため、報告をきいていない。「なにかよくわからないけど、おもしろいとりくみがあるらしいし、せっかく韓国まで行くなら」くらいな気持ちだったようだ。ところが現地でまず住民委員会のお歴々に大々的にお迎えいただき、相互の活動交流と、焼き肉やさんでの食事会ののち、けやき図書館に通されて、びっくり仰天。4階だて、1階から4階まで年代別に趣向をこらした図書館に案内され、ましてその造成プロセスについて丁寧に解説をいただいて、住民だけでここまでできるなんて、と驚きの声。さらに写真のように、夜8時をすぎているというのに、この図書館でサークル活動している子どもたちが、わざわざ私たちのためにでてきて、音楽を披露してくれた。喝采。みなさんの顔が大きく変わっていき、「私たちにもなにかできるかも」という思いが空間に満ちていった。

 翌日の内部交流会では、「ヒマンセサンの人を複数およびして、地域でまた学びの場を持とう」という声、公民館改築をきっかけに自分たちの場所にしていこうという声。これからがたのしみになってきた。

 ちなみに、韓国語できたっけ?という声が聞こえます。はい、もちろんまるきしできません。近くにタナカ助教という、食欲で韓国語をマスターし韓国研究を続けているスーパーマンがおりました。彼を拉致して(いえ、ボランティアで参加してくれて)おつれした結果、すべてパーフェクトに通訳ガイドしてくれました。あまりにすばらしいサポートぶりに、東箱崎のおばさまがたのアイドルと化してしまったわけでした。 

IKEAオープニング間近

2012-03-15 00:07:31 | おうちの話
 おとといまで訪問していたとっておきの釜山話があるのだけれど、まずは今日訪れた新宮IKEA話を。

 突然、カサイさんという埼玉時代に旧知だった卒業生さんから連絡が。「IKEAのオープニングスタッフとして働いています。ご相談があるんですが」

 リノベーション業界ではIKEAは重要なツールで、私がお世話になったミセスリフォームスタイルさんも、これまで九州に最も近い神戸IKEAに買出しに向かっていらしたくらい。私も埼玉にいたので、県内はずれにある三郷IKEAに何度も通いながら(というかミセスさんに指示されながら)、今住む家の無垢材チェストやなにやを買いこんで、船便で送る車に詰め込んで九州まで運搬したりした。私はそこまでやらなかったけど、キッチンからIKEA、もかなりおしゃれかつ安価。なので、知る人ぞ知る、ではあるけれど、「IKEAが福岡に来る」を心待ちにしていた人は少なくないと思う。
 小物もバラエティに富むIKEAは関東では女性たちに絶大な人気がある。IKEAの特徴は、基本的にはおしゃれなスエーデン家具×自分で家に持ち帰り自分で組み立てることを前提にした安価な設定、なんだけど、ただの家具やと違うのは、「デザイン」ぐるみのパッケージで提供されていることじゃないかなと思う。展示スペースはほぼすべて、「誰誰の部屋」風につくられている。家具業界のディズニーランド、かもしれない。しかも日本のIKEAでは、いかに狭いスペースを工夫しておしゃれにつくりあげるか、に趣向が凝らされていたりする。
 写真はオープニング前にて入れてもらった700席もあるレストラン。三郷より空がみえ窓も大きい気がして開放的、というのが第一印象。もちろん照明も家具もIKEA製品。出されるのはスエーデンの食事。しかもとにかく安い。「誰の家に行っても同じIKEAじゃつまんない」という声も一方ではあるけれど、とっかかりとしてここから発想を転換して「部屋をつくる」という営みに着手する、というのはありなんじゃないかと私は思う。

 ところでカサイさんの話。彼女に大学に来てもらうと、彼女は新宮IKEA唯一の社会貢献部門のスタッフとして働いているらしい。そして大学とのコラボも着手しているらしい。彼女の相談というのは私の授業の中での社会貢献について語る機会を設けてもらえないかということ。単なる企業宣伝になってはつまらないので「何をどう語るか」は結構重要だしつめねばならないけど、IKEAに興味しんしんの私としては思わぬところからとびこんできたこの話、少なからず魅力的。で、今日はうちあわせにオープニング前のIKEA見学を兼ねてIKEAにうかがったのだった。うちあわせをうけたところでは、スエーデン社会というバックを意識したライフ&ワークバランスや「働き方」にシフトをかけた話にしてはどうだろうか、というのが私の考え。さて、どうなっていくだろう。

 ぐるり店内を見回ったら、いろんな国籍の人がオープニング支援にきていた。そんな「人」の動きやら、部屋内の展示に使う古本がまだ山積みになっていたり(これもリサイクルらしい)、あちこち「つくりかけ」な様子もふくめ、あと1カ月足らずのオープニングへの躍動感満載でなかなかに興味深かった。

みんなの登校日、のこと

2012-03-07 22:17:45 | 学びの記録
 わが学部は6年後に伊都へうつることになっている。20年前に移転が決定して、まだ動いていないというのんびりさ。でもさすがに本格始動しつつはあって、4月以降建物の設計がはじまりそうだ。
 それを見越して、糸島市と教育学部の連携がはじまっている。ちょっとユニークな動きになりつつあって、教育系のなかでもまちづくりのタキタ先生、教育方法学のタノウエ先生と私で、波多江小学校と地域の連携モデルを作ろうという動きになっている。この3人というか3つの視点のコラボ、が実践をまんなかにしかも共同研究の色が濃く、なかなかに刺激的だったりする。大学の地域連携って、単に知見を提供したりということが多くて、協働モデルは簡単ではないのだ。
 いろいろ紆余曲折しながらも、学校がかかえる問題からはじめようということで、もともと学校が実施していながらも形骸化していた「みんなの登校日」(みんなの参観日、ではないのがポイント!)のリニューアルに取り組んでいる。
 
 今日7日、今年最後のプロジェクト会議@波多江小学校、だった。1年がすぎたんだな、と思うシーンがいくつかあった。
 私たちは1月に試行と広報のために実施した「プレ・みんなの登校日」(写真はその一コマ。地元の名物「そうめんちり」を地元のかあちゃんがつくってくれて、いろんな出会いを期待してつくった“サロン”でふるまった)を実施した。各学年、それぞれ独自に地域参加型の授業を催し、全校開放型の半日をすごした。地域への広報がいまひとつだったり、保護者参加型に多くはとどまったこととか、たしかに反省はある。

 でも今日、私たちが4月から学生をまじえて波多江小学校・校区にかかわる計画を話したら、先生方のほうから「それじゃ、学校と大学が分断型になるのでは。教師が一緒に学生と街を歩きましょうか?」と提案くださった。これはすごいことだ。一緒につくりつづける、議論しつづける、そのなかで、自分たちの実践と、うけとめてくださっているのだ、もはや。これが「一年」という時を感じた、ということ。
 そして終了近くには、PTA副会長のイワオさんのことばも。お子さんが卒業とのことだが、イワオさんはこのプロジェクトから卒業しないで、地域の人としてかかわって、とラブコールしていた。そしたら今日「今後もかかわります!」といってくださった。
 すこしづつ、すこしづつ、だと思う。

おそるおそるのぞいてみたら

2012-03-05 14:49:36 | 今日のまちあるき
 最近ちょっと、新たな世界を垣間見て楽しんでいること。それは、ヨガ。
 家の近所のリノベーションマンションの1階に、柔術スタジオができた。知り合いづてに、そこで週末だけひらかれている、ワンレッスンぽっきり1時間1000円、しかもヨガマットいらずという気軽に入れるヨガ教室があることを知った。近いし、先生は間違いのない誠実な若い女性と知ってるし、何より手軽だし、ということで、思い切って2度足を運んでみた。

 無理しない、気持よくイメージを通して体をのばす、というのが結構気持ちいい。ヨガということばにひいてしまいそうだったけれど、ストレッチに近い感覚。いいかげん運動不足が身にしみてきているし、体はもともと固いし、これは、かなりいいかも。先生がモデルで動かしていく身体のラインが私の目をひいた。それはとてもきれいで、人間の身体って、こんなにきれいなんだなあ、というのが第一感想。そんな余裕なことをいえるくらいに、負担なく体にちょうどいい。1時間というのもちょうどよくて、ちょっとあきてきたかな、とおもうころに、終了時間がやってくる。

 3月は週末怒涛月間で、海外やら北海道やらあちこち遠征ばかりでもういけそうにないけれど、4月に入り、春のひざしのなかで、再開できたらいいな。

コンソーシアム、始動。

2012-03-05 13:01:57 | 学びの記録
 小さな新しいチャレンジがはじまる。自称(われわれ称?)「九州社会教育コンソーシアム」。佐賀大学、熊本大学、北九州市立大学、そしてわれらがK大の社会教育研究室がちからをあわせて、ともに学生院生を育てる場をつくろうという試みだ。九州をみわたしても社会教育の教員がどんどん定年をむかえかつ補充されない大学が増えている。大学院課程を背負ううちの場合は、教員2が1になったというのは本当に深刻。それでもなんとか非常勤集中講義でいろんな先生にきていただいてその穴を補っていたのだが、このところの非常勤削減により、それも難しくなっている。この事情はどこも似たり寄ったり。
 うーむ、いったいどうすればいい?…で、いま動いている大学で力を合わせるしかない、ということになったのだ。いま社会教育学会九州地区理事をしている3人の大学と、所帯が大きい熊本大学にお声かけして、はじめようということになった。で、まずとりかかりは合宿だ!ということで、2月28日~29日、篠栗の社会教育総合センターへ、総勢37名が結集した。篠栗に一番近いのはわが大学だし、ホストでいくよ!と学生たちに声かけをして、受付&会計、進行、交流会、設営etc.全員出動で準備にあたってもらった。私も少なからず面倒な、入所にむけての申し込みやらレストランとの交渉やらに携わった。

 実のところ私は、きっとうまくいくだろうと妙な確信はもっていた。だって、社会教育に集う学生たち、なんだから。実際案の定、想像以上にもりあがりをみせた。初日10時集合、翌日17時解散という、丸2日、もりだくさんなプログラムだったけど、さすが若い大学生たち、ぐんぐん元気を発揮していった。「これって、九州中で一番個性的な学生のつどいじゃなかったの?」とうちの学生たちがのちにつぶやいたのは、それくらいに、それぞれが「地」をだせる合宿になったということだろう。

 写真は2日目午前の、卒論発表会のポスターセッションの様子。8名の学生たちがポスターを前に卒論の報告をし、のちに各自質問にまわった。だれもこんなことしたことなくて、試行錯誤の準備だったようだが、やってみればなかなか堂に入っていた。3年生にとってはいまから構想をたてていくにあたってかなり参考になったのでは。「先輩の姿が誇らしかった!」と3年生がいってたことば、4年生に聞かせてあげたかったな。このほかにも、各教員の講義、実践者の講演、グループワークなどなど、とくに学生の力を発揮する場面では、どんどん表情がよくなっていくのがみてとれた。

 大学にもどり研究室の学生の一部は合宿の話題にもりあがり、ご飯も食べずぶっつづけで4時間話し続けたらしい。で、翌日集まったところで「勝手に事務局、いまから表彰式を行います!」と合宿での姿に模して表彰式を行っていた。ちなみに私は「季節先取り賞」…何を間違ったか雪降る寒さのなかで半そでセーターにストールといういでたちをしてしまったことによるものらしい。はは。なお、総合部門1~3位は全員他大学の学生にむけて表彰していた。ちなみに第一位は、一見おしゃれなギャル風なのにくわがた採集が趣味とかギャップが周囲をおどろかせた個性の持ち主、通称くわちゃん. 私の知らない他大学生のこと、うちの学生の様子があれこれ披露された。それは、学生たちが自分たちで動きえた証、だ。
 
 ちなみに次回は熊本集合が予定されている。これからこの動きがどう育っていくのか、楽しみ。