ランドマーク探しⅢ

出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録しました。これからは自分の足で散策し、記録していきます。

三囲(みめぐり)神社・花につられて(江戸名所図会めぐり)(墨田区向島2-5-17)

2017年04月19日 22時46分47秒 | 江戸名所図会めぐり

いろいろなサトザクラが咲いています。東京スカイツリーの下で咲いていたのを見て、隅田川堤、隅田公園から桜餅の長命寺まで高速道路の下のところを散策しました。

途中で三囲神社の大鳥居に出合いました。

★ランドマーク:三囲神社石造鳥居(堤下の大鳥居)墨田区有形文化財   文久2年(1862年)、本鳥居は石造明神型鳥居で、銘はありません。『三圍社』と書かれた懸額は綾小路有長の筆によるもので、明治3年(1870)に三井両替店より奉納されました(三囲神社文書による)。境内に9基ある三囲神社の鳥居のうち、最大のもので、墨堤側に位置し、「堤下の大鳥居」として知られていました。安政2年(1855)の大地震で一度倒壊し、文久2年(1862)に三井家によって再建されました。その後、関東大震災など幾度かの地震がありましたが、貫が崩れ落ちたことがあっても、その都度接続し金輪をはめて補強し今日に至っています。墨堤の象徴的存在の一つで、隅田川を往来する船からも鳥居が見えれば三囲神社だと認識されていました。実際は土手下にあるため、対岸や船からは笠木や島木までしか見えないところが、独特の風情をかもしだし親しまれてきたのです。

この鳥居の場面は、浮世絵以外の版画や歌舞伎、小説・川柳・小唄などにも頻繁に登場し親しまれています。(墨田文化財・地域資料データベースより)

江戸名所図会より

キャプション

元禄の頃、当社の境内に一(ひとり)の老嫗(うば)あり。参詣り徒(ともがら)、神供をささぐるとき、この老嫗田面(たのも) にむかひ掌(て)を拍(う)てば、一つの狐いづくともなく来り、これを食らふ。老嫗世にあらずなりしより後は、狐も出でずとなり。 次に記せし句はこのことをいへるなり。

『五元集』 早稲酒やきつねよび出す姥がもと 其角

古地図でも、土手の先はすぐに隅田川だったので鳥居が対岸から見えたようです。今は正式な入り口は川と反対側になっています。鬼平犯科帳にも時々登場するようです。

★ランドマーク三囲神社:文和年間(1352〜1356)近江国三井寺の僧が巡礼中に当地で荒れた祠を見つけ、修復しようとしたところ、地中から壺に収められた白狐にまたがる神像を得ました。すると何処からともなく白狐が現れ、この神像の回りを三度回って消えたという故事に由来します。俳人宝井其角「雨乞いの句碑」は有名で、元禄6年(1693)の江戸のかんばつの際には、俳人宝井其角が句を詠み奉納すると翌日大雨が降り、人々を救ったと伝えられます。

「神社の本殿は震災・戦災を免れ、安政(1854-1860)の建築と伝えています。元禄6年(1693)に、俳人宝井其角が村人に代わって雨乞いのために句を詠じ、翌日雨ふったと「五元集」にみえています。このことが世上に広く伝えられ、「江戸砂子」や「江戸名所図会」にも載りました。
また三囲にあやかって、三井氏が江戸に進出したさい守護神と崇め、以来三井家一統の尊崇は続いてきました。
境内には隅田川七福神のうち恵比寿神・大国天の二神が祀られ、その内殿は文久3年(1863)大工棟梁清水嘉助が寄進した立派なものです。」(後半は隅田川七福神 参拝の案内より)

墨田区登録有形文化財の三囲神社本社文久2年(1862年)

墨田区登録有形文化財

宝井其角「ゆうだちや」の句碑(雨乞いの句碑)明治6年(1873年):磯石の自然石をそのまま利用して句碑としています。表面には「此御神に 雨乞する 人にかはりて」と刻まれ、「遊ふた地や 田を見めくりの 神ならば 晋 其角」(ゆうだちや たをみめぐりの かみならば)の句と号が刻まれています。この句を詠んだ宝井其角は、松尾芭蕉の高弟で、初代雪中庵の服部嵐雪とともに蕉門の双璧と呼ばれました。本碑に刻まれる句は、其角自選句集『五元集』によると、元禄6年(1693)6月に詠んだとされます。三囲神社で雨乞いの神事を行う農民に請われた其角が、豊作を祈念して句に「ゆたか」の3字を織り込み詠んだところ、翌日には雨が降ったと伝わります。

囲神社大国神恵比寿神

三囲神社の別殿には、古くから大国、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みがさまざまな分野で表面に現れ、多くの人々によって支持された時代の中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。

 大国神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大国を同じ音の大黒とも書く。

三囲神社の石造神狐  享和2年12月(1802年12月)墨田区登録有形文化財

この石造神狐は、享和2年(1802)12月の紀年銘を有する江戸時代の奉納物で、奉納者は三井三店の一つ、向店です。豪商三井と三囲神社との関係の深さを伝える文化財です。三囲神社は、古くは隅田川の中洲に位置したと言われ、川の流路変更時に内地に移転したと言われています。かつては田中稲荷と号しましたが、後に縁起にちなんで三囲社に改号したと伝えられています。元禄期以降、豪商三井との関係を深め、三井三店の手厚い保護を受けてきたことでも有名です。境内には現在、三越の象徴であったライオン像が移されています。

三囲神社の石造常夜燈(墨田区登録有形文化財)

寛政11年4月(1799年4月)この常夜燈は、安山岩製で総高249cm、宝珠47cm、笠35cm、火袋30cm、中台22cm、竿62cm、基礎40cm、基壇13cmを測ります。裏面に紀年銘があり、基壇には「武州八王子井田林右衛門 同青梅小林十郎右衛門 甲州郡内殿上佐藤嘉兵衛 同鶴川志村四郎右衛門 武州中神中野久治郎 同油平戸田彦兵衛」と奉納者の名前が刻まれています。記された地名はいずれも関東絹の産地で、この6人は越後屋江戸向店の各地方における在方仲買人でした。以上のことから三囲神社を守護神と崇め経済的援助をしていた三井家、特に江戸向店(むこうだな)との関係から奉納されたものと考えられます。隅田川側の大鳥居から入ったところ(写真の手前)にありました。正面の門にはこんな文字が刻まれています。門を入ったところに三井寅辰会が奉納した緋山桜のようです。本来はこちらの三囲稲荷が本体のようですが。

有名なのは

老翁老嫗の石像:元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠(びゃっこし)を守る老夫婦がいました。願う事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どっからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。

 俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と呼んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、唐翁像には「元禄14年辛巳5月18日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。(平成18年12月 墨田区教育委員会掲示より)

「一勇斎歌川先生墓表」(歌川国芳顕彰碑)明治6年(1873年)墨田区指定有形文化財 

幕末の著名な浮世絵師、歌川国芳の娘と弟子たちによって建てられた国芳の顕彰碑で、国芳の13回忌に彼の事績を顕彰すべく建立されました。国芳の友人でもあった学者の東條琴台が撰文を、書家の萩原秋巌が書を担当し、銘文鐫刻は向島在住の著名な碑銘彫刻師、宮亀年(三代目)が受注しました。碑文(漢文)には、まず国芳の出自や幼少時からの絵画的才能に関することが刻まれ、次いで、彼が歌川豊国の一門に入るきっかけとなったエピソード、そして国芳の活躍・名声などに触れ、本碑の建立趣旨を刻んで結びとしています。

 

水神社

木遺音頭の碑

 

 

神楽殿

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