ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

長命寺(墨田区向島)

2016年10月05日 16時01分15秒 | 江戸名所図会めぐり

長命寺は江戸名所図会に描かれている寺なのでぜひ散策してみたいと思っていました。リハビリ病院へ行く途中にあるのですが、平日は境内の幼稚園が開園していて入れませんでした。

江戸名所図会に描かれている様子です。

手前が牛御前(牛島神社)ですが、牛島神社は今の隅田公園のところに移転されています。隅田川堤の奥に曲がっている道は今も同じです。曲がったところに長命寺があります。現在、有名な「長命寺の桜餅」は曲がる手前のところで製造販売されています。

キャプションにも「雪見の碑」について書かれています。

『五元集』 牛御前 これやみな雨を聞く人下すずみ 其角

俳諧師水国が庵の旧跡は、長命寺境内竹藪の中にあり。いまそのあとに、芭蕉翁の句碑を建てたり。

いざさらば雪見にころぶところまで はせお

中にはこんなものがありましたが、幼稚園児用の地蔵さんでしょうか。

長命寺の由来は隅田川七福神の案内のところに書いてあります。

★ランドマーク長命寺当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。
弁財天は河(水)の神ということから蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれた。
長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。仏教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。

井戸と長命水石文の碑です。

井戸の所から東京スカイツリーが見えます。

弁財天が祀ってあります。

お墓の入り口の所には橘守部・橘冬照墓 があります。墓の説明書きです。

★ランドマーク橘守部の墓橘守部は、江戸時代後期の代表的な国学者で、天明元年(1781年)に伊勢国(現三重県)に生まれ、晩年を現在の墨田区内で過ごしました。17歳で江戸に出て独学で国学を修め、一時武州幸手(現埼玉県幸手市)に住み、桐生・足利方面の機業家や豪農を門人として抱え、地方庶民文化の発展と国学の普及に大いに貢献しました。
 その後、浅草弁天山に居を定め、生涯に50種以上の著作を残しました。同郷の先学本居宣長が『古事記』重視の立場を取ったのに対し、守部は『日本書紀』を重視して神典解釈に新境地を開き、平田篤胤、伴信友、香川景樹らとともに「天保の四大家」と称されました。
 嘉永元年(1848年)に肺を患ってから本所法恩寺橋筋に転居し、翌年5月に同地で没して長命寺に葬られました。
現在、守部の墓とともに長子冬照の墓が隣り合わせで並んでいます。守部の墓は花崗岩製、冬照の墓は玄武岩で、いずれも一石の自然石による素朴なものです。

墨田区登録史跡になっています。

こちらは墨田区の登録文化財です。松尾芭蕉の雪見の句碑です。

★ランドマーク芭蕉の句碑芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後祇空の門人自在庵祇徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祇徳が安政三年(1858)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。
芭蕉は寛永21年(1644)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、段林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄7年(1694)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出してます(平成18年8月 墨田区教育委員会)

古地図(江戸切絵図)で確認してみました。隅田川にかかる橋は大川橋(吾妻橋)だけです。長命寺の隣は弘福寺(弘福禅寺)です。立派な本堂が建っています。弘福禅寺の隅田川沿いからの入り口です。裏口?閉まっていて、塗装も剥がれていました。弘福禅寺の本堂は長命寺の墓地からよく見えます。

境内には墨田区登録文化財になっている石碑が多くあります。

あまり知りませんでしたが勝川春英翁だそうです。

こちらは成島柳北の碑です。成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。
天保8年(1837)江戸に生まれました。18歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。同5年東本願寺(旧通称東京本願寺)の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治17年(1884)11月30日、48歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治18年に建立されました(平成18年8月 墨田区教育委員会)

こちは墨田区登録文化財の庚申塔です。

こちらは出羽三山の碑です。

その他にも石碑がたくさんありました。我興乃蘇鉄の碑でしょうか。

新しいところでは向島出身の俳優の木の実ナナが建てた碑がありました。

守川周重の辞世の句碑

筆つかの碑

孕山堂江雨燈影の碑と奥が江戸桜の碑です。

 

鼠取養犬 六助塚(飼い犬の碑) 犬の頭が見えています。

初代鶴澤清六之塚(義太夫の名手)

五狂歌師の狂歌碑

山村一蔵先生碑

 南無阿弥陀仏碑

疼雲山居士故帋碑

藤田呉江先生之碑

好色院道楽宝梅居士の辞世句碑

好酒院杓盃猩々居士辞世句碑

梅陰先生大黒君碑

退鋒郎毛君疼髪塚銘并序の碑

他にもありましたが判別がつきませんでした。

 

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