星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

天使が通り過ぎた(24)

2008-02-24 03:35:43 | 天使が通り過ぎた
 雨がほとんど止んだ周辺の景色は、すべてが水に洗われ清々しく感じられた。遠くの山は雲と霧にかすんで、来たときほどはっきりとは見えなかった。
「コーヒーがおいしかったです。」「素敵なお店に連れて行っていただいて、ありがとうございました。」
 無言でいると何とも言えない重い空気が漂っているような気がして、私は先ほどのお店の感想を言った。
「そうですか。でもあれだけでお腹いっぱいになりましたか?」
 ケンイチさんはわざとどうでも良いことを言って、この場の雰囲気を明るいもの変えようとしているのだろうと、私には感じられた。
「はい。私そんなに大食いに見えますか?」
 私も努めて明るく言った。
「いやいや。そういう意味ではないんですよ。」

 まだ昼前の道路はそれほど渋滞しておらず、順調にいったらあと1時間ほどで新幹線に乗る駅に着くのだろうと思った。それからしばらくの間、車内は静かだった。ケンイチさんは運転に集中していたし、私は先ほどの通彦の電話の動揺から完全に抜け切れていなかった。ケンイチさんが特に話しかけてこないことが、今の私には有難く感じられた。
 
 ケンイチさんの横顔を何気なく眺めながら、通彦の運転する車に乗っているとき、彼の横顔を眺めているのが好きだったことを思い出していた。私は飽きることがなかった。真正面から見ると照れてしまうけれど、横顔を、しかも通彦は運転中滅多に脇見をしないので、私は無防備にいつまでも眺めていることが出来たのだった。そんなことを思いながら、同じようにケンイチさんの横顔を眺めていた。意外に白髪が多いのだなあと、また思った。実際の年齢は分からないけれど、老けた感じには見えなかった。30代後半くらいなのだろうか。40代か。車の運転が好きそうだというのは通彦と共通しているところかもしれない。だが、この人のほうが通彦よりも温かみを感じるように思えた。自分が悪いのでもないのに、見ず知らずの私をこうして駅まで送り届けてくれているのだから、やはり善い人なのだろうと、そう思おうとした。

 そんなことを思っていると、一瞬だけケンイチさんがこちらを向いた。信号で車が止まった瞬間だった。不意を突かれたようで、どきりとした。慌てて視線を前に戻した。そしてばつの悪さをごまかすように、こんなことを口走ってしまった。
「私先週、付き合っていた人に振られたんです。」
 私は前を向いて、できるだけ淡々と話し始めた。同情を引くつもりもなかったし、男に振られた女だと隙につけ入れられたくもなかった。
 ケンイチさんは先ほどと同じように、私が話しの続きを言うのを、無言で待っている風だった。何も言わず沈黙していた。
「お前といてもおもしろくないと、言われてしまいました。」
 通彦に言われていちばん堪えたせりふを口に出したことで、収まっていた何かがまた突き上がって来そうになった。私は黙り込んでしまった。数秒経っても数十秒経っても私がその続きを話さないので、ケンイチさんはこれでいったん話は区切られたのだと判断したのか、やや暫くたって「そうだったんですか。」と小さく言った。

 ケンイチさんは、私がこんなことを言ったところで、何と返事をして良いか困ってしまうだろう。見ず知らずも同然の女に、私振られて彼におもしろくないと言われました、と告白されても、何と反応していいやらと思うだけだろう。数時間後には別れ、二度と会わなくてよいと思って気軽にこんなことを話してしまったことを、少し後悔した。だが私がそう思っていると健一さんは意外な言葉を発した。
「僕も実は、同じようなことを言われました。」

 私はケンイチさんの横顔をまた一瞬だけ見た。だがあまりお顔をまじまじ見てはいけないような気がして、また前を向いた。そして次々に開ける視界と走り去る風景を、まっすぐと凝視していた。
 「僕は、もう別れて2年ほど経つんですが、やっぱり、あなたは無口だから楽しくない、と言われたんですよ。」
 私も同じように、ケンイチさんが話しの続きを言うのを待っていた。確かに、この人は饒舌なほうではないのだろうなあというのは、たった数時間一緒にいても察しはついた。私が無言でいるので、やはり車の中は、外の車自身が道路を走る音に囲まれ、静まり返っていた。

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天使が通り過ぎた(23)

2008-02-23 04:58:47 | 天使が通り過ぎた
いったん流れ出した涙は、止まることを知らなかった。自分を憐れむのは格好悪いことだと分かっていながらも、感情をうまく統制することが出来なかった。しゃくりあげている訳ではなかったので、ただ音もなく、涙が薄い水のように目から流れてくる。心の中で、通彦が荷物を取りに来いと言ってくれるのを少し期待していた。あと一回だけ、それでもう本当にさよならをするから会いたいと、そう思った。だが通彦は見事に私の期待を裏切った。
「じゃあ荷物はこっちで勝手に処分するから。いいかな。」
事務的な言い方だった。
「いいわ。」

これで用事は終わったのだろう。暫く受話器の向こうからは物音ひとつしなかったが、やがて溜め息のような息を吐く音がかすかに聞こえ、「じゃあ。」と通彦は言った。
「じゃあ。」「さよなら。」
さよなら、という言葉は、付き合っているときには絶対に使わない言葉だった。またね、とか今度ね、とか次に繋がる言葉を使った。さよなら、と言うと、それは永遠に合えない者同士が使う言葉に思えたからだった。でも今は、さよなら、がいちばん適している言葉に思えた。
暫くすると電話は切れてツー、ツーという音が流れた。電話を持っていた左手は強ばって痺れていた。左耳は携帯のボディを強く当てすぎて痛かった。私はものすごい力で携帯を握り締め、それを耳に押し当てていたのだった。

掌にある携帯のディスプレイを、数秒呆然と見つめた。やや暫くすると画面は暗くなり、それから蓋を閉じた。パチン、という音と共に顔を上げると、軒下でこちらを見ていたケンイチさんと目が合った。恥ずかしいという感覚すら起こらないくらい、私の頭の中は通彦のことでいっぱいだった。もう、何も可能性はないのだと、何もかも終わったんだと思った。ケンイチさんは少し困ったような顔つきをしながら、こちらに近寄るべきかもっとそっとしておくべきか迷っているようだった。私は、涙の訳のための嘘を、うまく思いつくことができないなと頭の中で思った。

「大丈夫ですか?」
ケンイチさんは静かに店の中に入ってくると、その風貌と動作に似つかわしいように静かにそう言った。
「ごめんなさい。」涙の跡を指で押さえながらそう答えた。「色々あって・・・。」
ケンイチさんはまたこちらをただ黙って数秒見つめていた。そこには特に、憐れみの表情とか困惑とかそういったあからさまな表情は読み取れなかったが、やや固い、真剣な顔をしていた。電話の会話は聞き取れていなかったと思うが、何か事情があるのだろうと彼なりに察し、だが勝手に踏み込むのも悪いと思っているのだろうと感じられた。

「別にどうってことないんです。」私はもうどうでもいいやと半ばなげやりにこう切り出した。ここまで醜態をさらしておきながら、何でもないですと言うのも失礼なのではと思うと同時に、ケンイチさんという人がどういう人物かほとんど分かっておらず、それは勘のようなものでしかないのだけれど、さらっと話しても特に危険はないように思った。

「先週付き合っていた人に振られてしまって、それで一人でここに来たんです。」
 ケンイチさんはただ黙って私の言葉を聞いていた。驚いた様子は特になく、そのまま黙って私が何か言うのを待っていた。
「もう終わっていることなんです。だから大丈夫です。取り乱してすみませんでした。」
「そうですか。」
 私自身どうしていいのか分からない空気が流れていたので、私が発生させたこのペースの乱れは、私から解消しなくてはと思った。
「行きましょうか。」「ケンイチさん、お帰りになるの遅くなってしまいますね。」
 私がそう言うと、穏やかな表情でケンイチさんは答えた。
「私は別に急がないのでいいんですが。でも、そろそろ行きましょうか。」

 私たちはまたメタリックブルーのこじんまりとした車に乗った。雨はほとんど上がっていて、厚い雲の間にところどころ切れ目ができて、そこから少しだけ青い空が見えた。

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天使が通り過ぎた(22)

2008-02-21 02:16:57 | 天使が通り過ぎた
 コーヒーはしっかりとした濃い目の、だが後味は舌に残らない爽やかな味だった。ブラックでとてもおいしく飲むことができた。朝起きてコーヒーが飲めないと少しイライラとしてしまうのだったが、香ばしい香りのコーヒーが飲めたことで幾分落ち着き、満足した気分になった。ケンイチさんと私は、無言でゆっくりとそれぞれコーヒーを味わっていた。

「ちょっと失礼していいですか?」
 ケンイチさんはポケットからタバコとライターと簡易灰皿を取り出すと、ドアを開け店の軒下でタバコを吸い出した。何となく、この人がタバコを吸うというイメージがなかったので、少々意外に思いながらその様子をぼんやりと眺めていた。ケンイチさんはとてもおいしそうにタバコを吸った。私は男性と話をしなくてはならないとき、いつも大抵は何を話そう何を話そうと焦りのようなものを感じてしまうのが常なのだが、この人の場合は、どうせこの一時が終わればもう会うこともない人だと分かっているせいか、実にゆったりと構えていることができると思った。こういうことは珍しいことだった。

 ケンイチさんが席を外し一人になってしまうと、ほんの少しの間忘れていた通彦の存在をまた思い出してしまっていた。通彦とここに来ていても、このお店には気づかなかっただろう。通り沿いにあるのなら分かったかもしれないけれど。二人でもしここに来ていたら、こうしてのんびりと構えていることは出来たのだろうか。私はまた、あの最悪の金曜日のことを思い出した。あの雰囲気のままだったら、私はもっともっと自分で深い穴を掘り、その中に自分自身を埋めてしまいたいと思ったことだろう。自己嫌悪、焦り、やるせなさ、無力感、そういったものが次から次へと湧いてきて、ますますどうしていいか分からなくなってきたことだろう。それなのにどうして通彦を嫌いになれないのだろう。好きという感情は厄介なものだと思う。嫌いになればいいと、頭では分かっていながらも、だからと言って嫌いになれる訳ではない。嫌いになったほうが自分が楽になれると歴然と分かっているのに、感情というものは自分自身でコントロールができないのだ。理由も無く、いや理由はきっと存在するのかもしれないけれど、その理由を整然と並べることはできないのだけれど、私は通彦のことが好きで仕方がない。もう二度と会えないということが、さすがにこの一週間会っていないのだから、現実のこととして認識しているつもりだけれど、まだまだ実感が湧かないというのが正直なところだった。もしかすると、普通に連絡したら普通に会えて、そしてこの間の話は無かったかのように普通に振舞えるのかもしれない、と希望的な想像までしてしまうのだった。

 カップに残った最後の一口を啜ると、カバンの中で携帯が振動しているのが分かった。ケンイチさんはまだ外でタバコを吸っているのでマナー違反にはならないだろう。ずっと振動しているので電話だと思いながら、一体誰からだろうと考えた。しかし思い当たるのは家にいる母くらいなものだった。携帯のディスプレイを見て私は息が止まりそうになった。通彦だった。

外でタバコを吸っているケンイチさんを眺めながら、この場で電話に出るべきかどうか数秒迷った。外にはケンイチさんがいるから出られないし、かといってこの店内には隠れる場所もない。でも、今この電話を逃すと、私は一生通彦と接触するチャンスはないように思われた。後で掛け直したとしても私と分かって出てくれないかもしれない。

 実際に電話に出るまでの時間は数秒か数十秒だったと思われるが、頭の中を様々な思惑が飛び交い、随分と長い時間のように感じた。有り得ないかもしれないけれど、通彦がこの間の発言を撤回するために電話をしてきたのかもしれないとも思った。付き合っている間も、メールのやりとりは頻繁にしていたが電話を直接掛けてくるということは滅多になかった。私のほうから、どうしても声が聞きたいと甘いことを言って夜中に電話をすることはたまにあったかもしれないが、昼間のこんな時間に通彦のほうから電話を掛けてくるということはほとんどないことだった。青いランプが規則的に点灯しているのを眺めながら、意を決して電話を耳に当てた。

「もしもし。」
 声が擦れてうまく出せなかった。通彦はぶっきらぼうな声で「寝てたのか?」とひとこと言った。
「ううん、違う。」「今旅行先なの。」
 私の頭の中は、うまく思考が出来なくなっていた。何をどう話したらいいのかまったく分からなくなっていた。それでやっと、この一言が口から出てきた。
「・・・・・・・どうしたの?」
 私は努めて明るい、穏やかな声を出すように心掛けた。通彦の声を聞くと、もうケンイチさんの存在は忘れていた。通彦は「お前、一人で旅行行ったのか?」と少しびっくりした口調で言ってから「それとも誰か一緒なのか。」と平べったいトーンで付け加えた。
「ひとりよ。」
 私はうまく話すことが出来なかった。話すことが出来ない代わりに、目に涙が浮かんできた。あんなにも単刀直入に別れを切り出されたというのに、悔しいけれど通彦が恋しくて仕方が無い自分を認めないわけにはいかなかった。この通彦の声も大好きだったのだ。
「そうなのか。」
 短くそう言うと、余計な話より用件だと言わんばかりに、通彦は私の私物が通彦のアパートにあるのだが、どうしたらいいのかと淡々と尋ねてきた。私は通彦の電話の意図が、十分予想できていたことではあるはずなのに、前回の発言を撤回するものではなかったことに落胆を覚えた。
「そちらで勝手に処分して。面倒だったら私が取りにいくわ。どっちがいい?」
 取りに行けば、少なくとももう一度だけ通彦の顔が見られると咄嗟に思いながら、でも通彦は二度と私とは会いたくないのかもしれないとも思った。勝手に捨ててくれと言っても、もしかしたら新しい彼女がいたりしたら厄介なのかもしれない、と心の隅で思う。とにかく通彦は、私の存在を彼の領域から抹消したいのだろう、と思うと、堪えていた涙がまたはらはらと落ちてきた。

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天使が通り過ぎた(21)

2008-02-20 06:33:24 | 天使が通り過ぎた
しばらく車を走らせて、昨日バスで通った道の、どこか途中を曲がった。少し行くと一軒家の、古い民家を改造したパン工房があった。目立たない看板が立っていたが、建物の雰囲気で何となくそういう店と分かる。隣の空き地が駐車場らしく車を止めた。
「どうします?車で待っていますか?そしたら僕はすぐ買って戻りますけれど。」
 ケンイチさんはそう言いながらシートベルトを外した。外は少し小雨になっていて、店までなら傘はいらなさそうだった。
「いえ、私も見たいです。降ります。」
 言いながら私もシートベルトを外し外に出た。

 木製の枠で出来たガラス張りのドアを、ギイと言わせながら開けると、色あせた板張りの床にこじんまりと木製テーブルと椅子が数組置いてあり、隅の棚にパンが陳列してあった。棚の横にレジがある。
「こんにちは。いらっしゃいませ。」
 化粧っ気のない、穏やかな顔をした4,50代と思われる女性が奥から出てきた。
「コーヒーが欲しいのですが、大丈夫ですか?」
 メニューらしきものはどこにも見当たらないのだが、レジから見える奥の作業場にはコーヒーのサイフォンが置いてあるのが見えた。ここに来たことがある人は分かっているのかもしれない。
「はい。ええと、お二つ?」
 ケンイチさんは「コーヒーでいいのかな?」と私のほうに向かって聞いたので、即座に頷いた。
「はい。パンはあっちから選ぼう。お腹が空いているでしょう。」
 棚に並んだパンはすべて天然酵母で作っているようで素朴なものが多かった。ケンイチさんはかごに二つほど選んで入れた。私にどれがいいかと促すのでナッツの入ったものを一つ選んだ。
「それだけでいいのですか?足ります?」
 さきほどキューとお腹が鳴ったので相当空腹と思われているのかもしれない。ケンイチさんの顔をこうしてまじまじと見ると、一見すると白髪があるので相当年上と思っていたのだが、顔の色艶とか表情を見ていると私とさほど変わらない年なのではないかとも思えた。笑うと目じりに皺が寄るのが、優しい表情を余計に醸し出していた。ケンイチさんは適当にあと二つほどかごにポンと入れた。

 レジでお金を払い、小さなテーブル席についた。外にはのんびりとした田舎の風景が広がっていた。遠くに緑が見えて、まばらにある民家は都会に建っている家のように奇抜なデザインではなく、この景色にしっかりと馴染んでいる色合いの昔風の造りの家が多かった。道路には車が時々通るくらいで音もなく静かな空間だった。

 コーヒーを待っている間、私は今日何度目かの、私はどうしてこの人とここにいるのだろう、という思いに囚われた。でもそれは、朝方感じた面倒臭さや後悔のような意味合いの感情ではなく、ただ単に、こういう展開になってしまったなあと、客観的に自分を傍観しているような感覚だった。外の雨は小雨だったが、寒そうに見えるのには違いなかった。

「結婚式かなにかに、出席されたのですか?」
 なんとなく話をしなくてはならないだろうと、気が気ではなくなったのでそう切り出した。
「ええ。なんでそれを?」
 ケンイチさんは意外な表情をして聞き返した。
「昨日、ロビーで黒い礼服を着ているのを見かけたものですから。お祝い事かなと。」
「ああ、そうですか。」
 ケンイチさんは職場の同僚が実家のあるこちら方面で結婚式を挙げたことを簡潔に話した。「それでどうせこの近くまで来たならと、以前よく来たあの旅館に、友人の実家なんですけれど、泊まったんですよ。」
「素敵な旅館でした。またあそこに泊まりたいなと思いました。」
 ケンイチさんは私に何か言いたそうな表情をしていたけれど、特に何も言わず、黙って落ち着いた表情をしていた。
 特に話す続きが見つからなかったので、私たちはまた沈黙してしまった。ちょうど奥から先ほどの女性がコーヒーを運んできたので、沈黙はそれ以上は特に気にならず、私たちはコーヒーを味わうこととパンを食べることに専念した。

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天使が通り過ぎた(20)

2008-02-16 18:17:34 | 天使が通り過ぎた
 ケンちゃんと呼ばれた人の車は、私が当初想像していたのとは違いコンパクトな女性が乗るような感じの車だった。メタリックブルーの車体はよく磨かれていて、車内は余分なものが一切無く綺麗に掃除がされていた。彼は私の小ぶりの旅行カバンを後ろの座席に乗せると助手席のドアを自分で開け、どうぞ、と言った。
「失礼します。」
通彦は私にそんなことをしたことは無かったので、随分と丁寧な扱いだなあと感じながら車に乗り込んだ。
 
それぞれシートベルトを締めると、雨の中を静かに車は滑り出した。私はワイパーが規則的に左右に動いているのを眺めながら、どうしてこんな展開になってしまったのだろうと、また思った。
「申し訳ありませんね、そちらが悪い訳でもないのにこうして送って頂いたりして。」
 本当に申し訳ない気持ちでいた私は思ったままを言うと、「いえ、とんでもない。」と彼は答えた。
「どうせ僕も帰るのですから。いいんです。気にしないで下さい。」

 そういえば私はこの人がケンちゃんと呼ばれていてホテルのおかみの知り合いであるということ以外、何も知らないのだと改めて思った。
「どちらへ帰られるんです?」
「どちらに住んでいらっしゃるんですか?」
彼と私はほぼ同時に同じようなことを相手に質問していた。
「失礼。」
「あら、ごめんなさい。」
 また同時だった。
 私が少し黙って相手に先にしゃべってもらおうと思っていると、あちらも同じように思ったのかしばらく沈黙していた。
「はは。」「僕たちはタイミングが悪い。」
 それは少し愉快な感じに聞こえたので、私もこの同じようなテンポにおかしくなってしまった。

「すみません。私、男の人と喋るのが苦手なんです。」
 実際私はそうだった。正確に言うと、職場にいるようなおじさんは平気なのだが、若い男の人は苦手なのだった。
「そうなんですか。実は僕も無口な方なんです。」
 彼の言い分を聞きながら、本当に無口な人が僕は無口ですと言うのだろうか、などと少し訝しく思いながらも、この人との会話はあまり緊張を感じないなあと思った。
「それで、どちらへお帰りになるのですか?」
彼は前方からしっかりと視線を外さずに、聞いた。
「神奈川県です。でも、新幹線は東京まで乗っていきます。えーと、ケン・・・さんはどこまでお帰りになるのですか?」
 私はうっかりケンちゃん、と言ってしまいそうになった。
「東京です。あと、僕の名前はケンイチです。ミナト ケンイチ。そう言えば、お互い名前を知らなかったですね。あなたは?」
 私は頭の中で、ミナト ケンイチ、と数回言ってみながら、どんな字を書くのだろうと想像した。
「私は、桜井と言います。桜井、香織です。」
 
お互い本名を言い合うと、少し照れが生じたためかまた暫くの間沈黙が続いた。狭い車内の中は、雨が車の屋根にぶつかる音と道路の水しぶきの音のせいで、さほど気まずい沈黙には感じられなかった。とても低い音量でトランペットの曲が流れていた。私にはよく分からないけれどジャズのような感じの曲だった。私は外の景色を見ながら、よく知らない人の車に乗り、ぎこちない時間を過ごさなければいけない、というプレッシャーをほとんど感じていない自分に気づいた。どのみち駅に着いたらさよならをして、そのまま二度と会うことはない人なのだから、それで却って気が楽なのかもしれないと思った。

「もしよろしかったら、神奈川まで送りましょうか?どうせ僕は、東京まで帰るのだし。」
 相変わらず視線を前方から逸らさず、さらりとケンイチさんは口にした。私はそんな申し出をされるとは予想していなかったので、それはいくらなんでも、と即座に思った。
「いえ、いくらなんでもそんなことは・・・。」
「そうですか。」
 あっさりと納得してくれたことに少しほっとした。やはり見ず知らずも同然の人と、長い道中をともにするのは気疲れするに違いないだろうと思った。

「そういえばあんなことがあったので、朝ごはんを食べないで行かれましたね。お腹がすいていないですか?」
 私は彼に、いや正確には子供が突進してきたからなのだが、コーヒーをこぼされ、朝食を食べずに部屋に引き上げたことを思い出した。するとなぜか急に空腹を覚えた。
「そうですね。でも後で食べますから大丈夫です。」
 実際はとてもお腹が空いていた。コーヒーが無性に飲みたかった。
「途中にとてもおいしい、ベーカリーがあるのですが、朝ごはんを食べに行きませんか?」
 私はこの人が先ほど、僕は無口だと言ったことが、やはり言葉の上だけのことなのではないかと思った。無口な人がこんなに気が利いたことを言うのだろうか。
「いえ、そんなに気を使っていただかなくても。大丈夫ですよ。」
 そう言った途端に、タイミング良くというか悪くというか、私のお腹がキューと鳴った。私は恥ずかしさで思わず目をまん丸にしてケンイチさんの方を見てしまった。彼は相変わらず目線はじっと前方から逸らさずに運転を続けていたので、私のこの表情は見ることもなかっただろうが、目じりを下げて笑っているのはその横顔から伺えた。
「お腹が、おなかが空いたと言っているようですね。」
 恥ずかしさでいっぱいだったはずの私だったが、彼のその言い方が私を笑っているのでもなく、何というかとても大らかな言い方だったので、その一言で私はすっかり緊張の糸が解けてしまった。

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休日の夜

2008-02-12 06:51:25 | つぶやき
渋滞。

少しづつしか進まない車の列。静かな車内。

ずっとこのまま、渋滞してたらいい、そう思う。

まっ暗な中で、無防備にこうして、眺めていられるから。
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天使が通り過ぎた(19)

2008-02-03 21:47:30 | 天使が通り過ぎた
 部屋に帰った私は、先ほどの染み抜きをして重くなったズボンにアイロンを掛けながら、何だか変な展開になってきたなと頭の隅で思った。あの人はきっと何かお詫びの行動をしないと気が済まないのだろう。そんなこといいのに、と思う反面、やはり気になるということも分からないでもなかった。アイロンを掛けると染みはほとんど分からないほどになっていた。乾いているのを確認するときちんとたたんでカバンにしまった。

 窓の外を見ると依然として雨はまだ降っていた。土砂降りというわけではないが、じっとりとすべてに染みこんでいくような雨だ。天気が気になってテレビをつける。天気予報はどの局でもやっていなかった。でもこの暗い空では雨は当分やみそうもないのだろう。チェックアウトをして本当にあの男性は、ケンちゃんと呼ばれた男性はロビーで待ち伏せしているのだろうか。見た目は悪い人でなさそうだし、というよりも逆にいい人そうだし、この旅館のご子息の知り合いだというのだから、何かあったら身元は割れているのだからなどとぼんやり考える。

 だが気分が重かった。チェックアウトぎりぎりまでここに居て、そうしたらあの人は諦めて帰るのだろうか、とも思ったが、恐らくいつまでもあそこで待っているだろう、そんな気がした。だとしたらあまり遅くチェックアウトしても悪いような心持がした。それに、やっぱりバスで帰ると言えば、あっさりとそうですかと言うかもしれない。この雨の中を駅まで送ってくれるというのは有難い申し出だとは思ったが、今日初めて会った人であるのに狭い空間の中で一定時間を過ごすことを考えると気が進まなかった。ここへ来るときに誰にも邪魔されずに自分の心を放っていたように、帰りも存分に自分はひとりなんだということを味わいながら帰ろうと思っていたのだ。

 とりあえず、と重い腰を上げて荷物をまとめて部屋のキーを掴んだ。雨が降っている。折りたたみの傘は持ってきていただろうか。カバンを開けて探して見る。いつも旅行に行くときは小さな折り畳み傘を入れているはずなのに、何度カバンの中を探しても傘は見つからなかった。私はこんな風に、用心深いようで肝心なときに忘れ物をする。まあでも、もしかしたら売店に傘くらい売っているかもしれない。

 少しひんやりとした廊下を通りロビーに出た。先ほどのおかみの姿は見られなかったのでほっとした。見つかると、またケンちゃんお願いね、等と言って断りづらくなってしまう。支払いを済ませるとフロントの男性が目配せをしてあちらのほうを見た。すると先ほどのケンちゃんと呼ばれた男性がこちらに近づいてきた。

「お荷物は?それだけですか?」
 まるでベルボーイのようだと思って、少し可笑しくなった。
「私予定通りバスで帰ります。特に急いで帰らなければならないという訳でもないので。」
 そう言うと男性はまた少し沈黙して、そしてこちらを少し眺めていた。
「バスは、多分今行ったばかりで、あと40分くらいしないと来ないと思いますよ。」
 少し笑っていた。明らかに当てずっぽうに言っているような感じだった。
「じゃあ、あと40分、待つことにします。ロビーでお茶でも飲んで。」

 すると玄関からおかみが入ってきた。車で帰ったお客を見送って外にいたようだった。
「あら、お客様チェックアウトはお済みになりましたか?ケンちゃん、ほら車をこちらに廻して差し上げて。」
 おかみはまるで、ケンちゃんという男性がここの従業員であるような口の聞き方をした。もしくはこの人が息子さんの友人、ではなく、まるで息子さんご本人のような接し方だった。
「いや、この方バスで帰ると言うものだから・・・。」
 おかみは私の方を向くとにこっとして、「あら、ケンちゃんのこと疑っていらっしゃる?大丈夫ですよ。この方、そんな方じゃないから。うちにも何度も遊びに来たことがあるから、この辺の道は大丈夫よ。慣れてらっしゃるから危なくないわ。」
 
 おかみは私が彼の運転技術を疑っていると思っているのか、その人間性を疑っていると思っているのか、そこまでは定かではなかったが、そのようなことを言った。
「いえ、そんな。疑うなんてそんなことは思ってないのですが。申し訳ないと思って。」
 まさか初対面の人の車で気を使うのが億劫で、とも言えなかったのでこのように言った。悪いと思う気持ちの反面、億劫だという気持ちもあった。
「そうしたら駅まで乗せていって貰ったらよろしいと思いますよ。雨はまだ相変わらず降ってますし。お客様傘は?」
 私はまずいことを聞かれたと思った。
「あの、売店にありますか?」
 おかみはフロントの奥にちょっと消えてまたこちらに出てきた。
「じゃあこんなのでよかったら使ってくださる?こんなビニールのでよろしかったら。」
 おかみは透明のビニール傘を差し出した。でも新品のようだった。
「済みません。ありがとうございます。」
「じゃあ行きましょうか。」
 ケンちゃんと呼ばれた男性は当然のようにそう言うと、さっと私の荷物を手にして先に進んだ。私はたった駅まで送ってくれるという行為のために何だかんだと言い訳している自分が子供染みているようにも思え、またこのようなやりとりが面倒くさくなり、もうこうなったら成り行きにまかせよう、という気になった。
「良かった。私もそのほうが安心だわ。お気をつけてお帰りになってください。」
 おかみと番頭さんに丁寧に見送られ、私はケンちゃんの車に乗った。

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