星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

知り合ったときには・・・(最終章)

2006-10-10 19:57:41 | 知り合ったときには・・・
(最終章)

 どこかへ行こうという彼の言葉に、私は自分のアパートへ来てほしいという旨を伝えた。最寄駅を降り、いつもの道を歩きながら、いつもの見慣れた風景がこうも違って見えることに驚いた。でも頭の中では、こうなるべくしてこうなったのだとも思っていた。私はずっと前から、こうなることを期待し、そして予想していたのではなかったのかと、今気がついた。アパートはいつこのような事態が発生しても良かったかのように、小奇麗に整頓されていたし、付き合っている男は誰もいない。自分の圏外に存在して、ただ呆然と眺めていただけの人を、今、こうして自分の領域に招き入れている、そんな感覚があった。ただ単に、不倫という言葉を連想してしまうという理由からホテルを避けたかっただけでなく、自分のテリトリーに招き入れ、そうすることで少しでも自分にいい方向に事が運べばと無意識に思っていたために、私は敢えて彼を家に引き寄せたのかもしれなかった。

 自分の住処に帰ってきて、少し緊張が解けせいか、こういう展開になったのが今日突然のことで、しかも通常の恋愛における過程を一気に省いてここまでたどり着いたというのに、彼とはまるで初めての感じがしなかった。ただ、そうなるべくしてなったのだと、そのような感じが終始していた。自分が日常を暮らしているこの狭い部屋に、彼がこうして立っているということが、非現実的なようでいて、また逆に、当然こうなるはずだったのだと、まるで既に分かっていたことのようにも思われた。私は自分でも、驚くくらい落ち着き払った態度で彼に接し、そして信じられないくらいに貪欲だった。私の知らない彼の空白部分を埋め尽くそうと、全身で彼を理解しようとしていた。頭の中に既に記憶している彼の外見や顔を、もっと内側から理解したいと思った。もっと精密に観察しそして体で記憶しようと、目は懸命に彼を見つめ、体の各部分は敏感に何かを捉えようとしていた。普通ならそのようなときは目を閉じると思われる場面でさえも、じっと目を見開いて彼を見つめていた。まるでそうしないと、目を瞑った隙に彼が消えてしまうのではないか、そんなような気がして仕方がなかった。

 彼が帰るとき、私は玄関で見送りながら、「また、会うことはできますか?」と自信なく訊ねた。もしかしたら、これが最初で最後かもしれない、そういう覚悟も出来ていた。彼が今日どれほどお酒を飲んだか分からないが、酒の勢いでそうしたのかもしれない。それとも私が会社でずっとずっと見つめていたのを分かっていたのなら、そのことにうんざりしていたのかもしれない。それを今日で終わりにしてくれという意味だったのかもしれない。私は、あらゆる予想を頭の中で並べ立てた。こうなったことに後悔はしないし、たった一回きりだったとしても仕方がないことだと分かっている。ただ、彼はどのようなつもりで私を抱いたのか、それだけをどうしても知りたいと思った。つまり彼の気持を、私は知りたかったのだ。 

 彼はまだドアを開けていない玄関の内側で、ぎゅっと私を抱きしめた。そして彼の顎の下にある私の髪の、匂いを嗅いでいた。ほんのさっき、触りたい衝動に駆られた彼の顔が、まだここにあるのだと実感し、その思いに胸が締め付けれらた。
「機会があったら、また会おう。」
 それだけ言って、彼は出て行った。私は、執行猶予を与えられた気分だった。

 数日後に、予定通り、彼はそう簡単には行くことができない場所に、転勤となった。私は、もしかしたらもうこれで、機会、は二度と訪れないのかもしれないと、自分に言い聞かせた。彼と一回り程歳の離れた私は、敢えて押さえた行動をとることで、彼に大人の女と見てもらいたかったのかもしれない。心の奥底では、感情はさらに深く激しくなって、遠くに行ってしまうという事実を、どうしても飲み込めないでいる自分と、もう二度と会えないのかもしれないという不安に、予想以上に慄いている自分がいた。けれども、そこまで深く激しい感情を持ってしまったことを、自分自身でも充分すぎるほど分かっていたために、内面の感情をそのまま出さないこと、無理な要求はしないこと、そのことを常に自分に言い聞かせた。半ば勢いで自分の部屋に彼を誘ってしまったあの日、それでも彼は、奥様と別居することはできても、すぐに自由の身にはなれないことを何度も強調した。そういうものを要求するのなら、最初から止めたほうがいい、そう何度も私に言った。そしてすぐには体にも触らなかった。私は、あの時、自分の神経が興奮状態にあったのを否定はできないが、自分でさえ、彼をどうしたいのかなんて、まったく分かっていなかった。そんな先のことなんか、分からないというのが正直な感想だった。以前付き合っていた彼と別れたときから、私は結婚の意義というものに対して疑問を持っていたし、そんなことよりも、まず自分の感情を信じるしかないというのが、正直なところだった。彼と結ばれたことで自分がどう変わっていくのかも、その時の私には皆目検討はつかなかった。

 彼が地方に単身赴任になる直前に、こうして事態が急展開したことを、今でも本当に偶然の幸運だったと感謝したくなる。次の、機会、はそう遠くないうちに訪れた。そして彼が単身赴任をしているということで、私たちの関係は、急速に、より密接なものになった。単身赴任先で会うことで、私は彼の家庭の存在を一層気にしなくて済んだ。転勤する前は、距離の大きさが不利になると思っていたが、実際には好都合なことばかりだった。以前のように会社の事務所で毎日のように彼を見つめることは出来なくなったが、もっと密接な繋がりができあがった以上、私はそのことを密かに思い、そしてそれを温めて持っていることができたのだった。

 単身赴任の任期が切れて、彼がまた本社勤務になってからも、私たちは私のアパートで同じように機会を作っていた。私は、その数年の間に、不安定な状況の中にいながらも自分の感情を安定させる術を、すっかり身につけていた。彼はもう少し、ある理由から奥様と離婚はできないようだったが、私にとってそんなことはどうでも良かった。私が求めていたものは、結婚や家庭という安定ではなく、ただ彼そのものだったのだから。私はただ、彼を好きになり彼を欲しかっただけなのだ。他には、何もいらない。でも私は、今でも彼に会うたびに思うのだ。これでもう、最後かもしれないと。


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知り合ったときには・・・(11)

2006-10-10 09:46:14 | 知り合ったときには・・・
(11)

 自分に好意を持って寄ってきた女を、そのままいい雰囲気に持ち込んで事を済ます、大人の男である彼にとって、そんなことは朝飯前だっただろう。実際私は、そうなるのだろうと思っていた。そうなるのを望んでいる自分も確かにあったし、そうなったとしても私はそれでいいと思っていた。
 
「お前みたいなやつと結婚したら、案外いいのかもな。」
 私を見ながら、ぽつりとそう言った。いつかもそんなことを呟いたのを聞いた気がした。この人はもしかしたら、結婚生活が順調に行っていないのではないかと、ふと思った。そして結婚指輪のない手を、もう一度確認するように盗み見た。
「結婚なんて、まだ考えてもないです。」
 それは本当だった。目の前にいる彼に、こうしてどうしようもない思いを抱いていながらも、それがこの人と結婚したいという願望には、直結していないのだった。それは無意識に、結び付けてはいけないと、脳が判断しているだけなのかもしれない。けれども、彼のその言葉と、今これから、もしかしたら事が起こるのかもしれないという予感の前に、私はもしこの人の子供が出来たらということを、突然思いついてしまった。その思いつきに、私は自分自身で驚いて、彼を正視することができなくなった。私は俯きがちになりながら、彼の胸とテーブルの上のあたりを見つめた。それから、既に脳にインプットされた彼の顔の各パーツを思い出し、そのパーツにそっくりな顔をした赤ん坊を、慈しそうに眺めている自分を想像した。それは今この状況では、あまりにもリアルで、私はその想像に恥ずかしくなるばかりだった。
「俺はもう、女房とは別居しているも同然なんだよ。だけど、離婚することはできないよ。」
 なんとなく思っていたことが、やはり、という気持に変わった。この人は奥様と、あまりうまくいっていない。それで指輪も、外されている。奥様とうまくいっていないということが、私の心の隅に少しだけ存在していた罪悪感を、さらに軽いものにした。
「私は・・・」
彼は、なんだい、と言うように静かな顔をこちらに向けた。
「私は、こう言っても嘘みたいに聞こえるかもしれませんが、主任さんを奥様から奪ってそして結婚したいなんて、そんなことはこれっぽっちも考えてもいないのです。ただ、ずっとずっと事務所でそばで見ていて、それからどうしようもないくらいに好きになることを止められなくて、それで転勤されてしまうと知って、もう一生会えないのかもしれないと、そう思っただけです。」
 一気に言って、自分でこうもすらすらと想っている本人を目の前にして話すことができることに、驚いてしまった。私は、いつから恋に対して、こうも積極的になったのだろうか。
「俺もお前は気になっていたんだよ。」「お前は他の、若い奴とはなんだか違う。」
 私は伏せていた目を上げて、彼を正面から見た。そうしてじっと顔を見たら、言われた言葉の真意が確認できるとばかりに、じっと見つめた。彼は穏やかな目をして黙っていた。天にも昇る気持を、一瞬味わったあと、もしかしたら、私をその気にするために大袈裟に言った言葉かもしれないと、ふとそんな気持が湧いてきた。私は、彼の口から出てくる言葉によって、乱気流に巻き込まれた飛行機のように、感情を激しく上下させられていた。そして気持を整理する余裕も無く、こんな言葉が口から飛び出してしまった。
「やらないで後悔より、やってしまった後悔のほうが、いいんです。」
「やったほうがいいのか。」
言いながら彼は、ははっと笑った。しまったと思った。その意味の、やる、と取られてしまったのだと悟った。私はただ、彼に対して思いを告げないで、その後悔をするくらいなら、後はどうなっても行動に出たほうがいいと、そう言いたかっただけなのだ。
「行こう。」
そう言って彼は伝票を手に、席を立った。私は、覚悟を決めた。


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知り合ったときには・・・(10)

2006-10-08 23:50:56 | 知り合ったときには・・・
(10)

 彼の単身赴任を伴う異動内示は、それを知った時の私には無慈悲な宣告のように聞こえたが、その後の展開を思えば、それは私に降りかかった幸運だったのだと思う。コーヒー店のあと、私は彼を自分のアパートへ誘った。普段あまり積極的な行動をするほうではないのに、あの時なぜあれ程大胆な行動に出られたのか、自分でも分からない。切羽詰った状況に置かれると、こんな私でもあれほどの行動ができるのだと思った。私は彼の転勤の話を聞いて、永久に彼に会えないような錯覚に陥っていた。同じ職場にいて毎日のように顔を合わせ、喋り、仕事という同じ目標を共有していた上司や同僚が、職場が変わると、ただの、過去に同じ部署で一緒に仕事をしたことのある人、になってしまうように、私が彼にとって、かつて一緒に仕事をしたことがある、大勢の女子社員の中のひとり、になってしまうことに、耐えられないと思った。
 
 このまま彼と、行き着くところまで行ってもいい、そんな考えが急速に浮上し頭の中を占領した。私は、たとえそれが一回きりのことになっても、絶対に後悔しないという自信があった。そうなったことを悔やむなら、勇気を持って行動にでなかったことのほうを悔やむだろう、そう思った。以前付き合っていた彼と別れてからは、私には何も遠慮する人はいなかった。私はひとりで、そして自由だった。彼が既婚者であるということが、それまでの積もった感情を破裂させないための、ブレーキのようなものとなっていたが、その時はそんなこと、どうでもいいと思った。彼が既婚者かそうでないかは、私の思いには関係ない、そう思った。その時の私は、初めて誰かを欲するというのは、こういうことなんだと知った。今目の前にいる彼の、頬に触れたいと思った。それから唇に触れたいと思った。それからのことはあまり考えていなかった。ただ、今、この手で触れることが出来たら、そう思った。

「ずっとその目に追いかけられていたな。」「お前のその目に。」
私は、顔の他の部分よりも、目に自信があった。決してぱっちりとした愛くるしい目とは言えないし、整った美しい瞳ではないと充分分かっているのだが、私の目は鋭くて、力があるとよく人に言われた。それは単に、目が悪いせいでじっと見つめてしまうからなのかもしれない。私は言われながらも、彼の目から視線を逸らさなかった。
「分かっていたのですか?」
彼が瞬きをした。ゆっくりしたので、それはスローでカメラのシャッターを切ったかのように、私には感じられた。
「あんな風に見つめられて、気がつかない訳ないだろう。」
「すみません。」
なぜ謝るのだと、自分で思いながらも、少しだけ恥ずかしくなった。
「俺を好きになっても、どうしようもないじゃないか。それにお前には付き合っている奴がいるだろう。」
「いないです。」「とっくに別れました。」
 彼は困ったような顔をした。その表情を見ていると、私は自分が、随分と子供のように扱われているのではと思った。
「いつもいつも、私の頭の中を占領している、そんな人がいるのです。別れた彼に対しては、その人に対して持っているほどの、思いを持つことができなかったのです。それで・・・。それでその人とはお別れしました。」
「そんな人っていうのが、俺なのか。」
「はい。」
「もっと若い奴がたくさんいるだろう。それに、よりによって女房にガキまでいる男相手にしなくても。」
私は視線を少しずらして、彼の空になったグラスの水滴と、中で重なって入っている氷とを見つめた。それから、そのグラスを持つ彼の手を眺めた。その手を数秒か数十秒見つめていると、結婚指輪がないことに気付いた。そしてそんなことに、私は勇気付けられたような気がした。
「私が主任さんを好きになったとき、奥様やお子様がいるのを、知らなかったのです。そしてそのことを知った後も、奥様がいるとかお子様がいるということで、気持を止めることができなかったのです。」
素直に思ってることが、すらすらと口から出てしまった。言いながら、私は今から、何を期待しているんだろうと、自分で自分を信用できない気分だった。ここまで気持を話してしまったからには、もう成り行きにまかせるしかない、そう思った。

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知り合ったときには・・・(9)

2006-10-07 06:46:48 | 知り合ったときには・・・
(9)

 地下鉄を一駅分だけ乗り、ターミナルの駅で降りた。地下の連絡通路は、溢れるように人でごった返していた。主任の彼の後を、はぐれないように歩く。人の波に流されるように、前に進んだ。通路を抜け外に出ると、表の通りからひとつ路地に入り、古い感じのビルの階段を上った。目立たないコーヒー店があった。

 彼の後に続いて店に入る。店内は程よく照明が落ちていて、落ち着いた雰囲気だった。ジャズが小さな音量で流れ、一人でいる客か二人でいる客がほとんどのようだった。大きな声で話すものもいない、静かな店内だった。ウェイターがくると、彼はアイスコーヒーを、私はカフェオレを注文した。

 コーヒーでも飲もうか、と自分から誘っておきながら、彼はコーヒーを飲みながら煙草をくゆらせて、ほとんど自分から喋らなかった。彼と私の間に、ジャズが静かに流れた。音楽のせいかこの店内の雰囲気のせいか、私はこの沈黙に、それほど焦ることはなかった。それどころか沈黙にまかせて、目の前の彼をたまに伺いながら、思う存分自分の考えに浸っていた。窓際に座った私たちは、ほとんど人も通らない路地の様子を、焦点の合わない目でぼんやりと眺めていた。彼は何を考えているのだろうかと思った。今までは、こうして、たまにランチに行ったりお茶に行ったりして二人になることはできたけれども、もうそんな機会はないのだと、実感はまったくないが、頭がそう納得しようとしていた。

「転勤されたら、もうお会いすることもないんですね。」
いくらなんでも、何か話さなくてはと、こんな言葉が口をついた。彼は窓に向かっていた目をこちらに向け、「そんなことないだろう。」とひとこと言った。
「同じ会社にいるのだから、またいつかどこかで会うこともあるだろうよ。」
 私は、いつもならすぐに逸らしてしまう視線を、このときはじっと見た。もうこのお顔も、見れなくなってしまうと思った。毎日会社の事務所で、彼の行動のすべてを見ていた私は、今目の前にいる彼が、たとえ目の前からいなくなっったとしても、どんな姿をも思い出すことができると思った。遠くから見た背格好や頭の形や顔の輪郭、コーヒーカップを持つごつごつした手や時計をしたがっしりした腕、まつげの長さやほくろの位置、そして大きくて意外に愛くるしい眼鏡の奥の瞳まで、外から見えるほとんどを記憶をしていた。けれども、中身は、何も分からずじまいだと思った。彼がどんなこと考えているか、それから彼のもっと細かい体の部分は、想像するしかなかった。
「そうですか。」「でも、もう、同じ部署になることは、多分ないですよね。」
まだ目はそのままだった。あまり視線を合わせて話をしない彼も、まだこちらを見ていた。仕事中の近寄りがたい目でもなく、あの何とも言えない細い目でもなく、何か私に言いたいことがあるかのような、少し真面目な表情だった。その目を見ていると、私は自分の想像が、自分勝手に自分のいいように進んで行くのを、止めることができなかった。彼と私は、数秒か数十秒、無言で見詰め合っていた。私はこのとき、一気に心臓がぎゅっとなるのを感じた。息をするのが苦しく感じられた。そして、彼に対して初めて、理性でなく、本能的な体の欲求が湧いてくるのを感じた。今目の前にいる彼に、触れたいと思った。
「わたし、」
勝手に口が喋りだした。そして止められなかった。
「私、ずっとずっと見ていました。主任さんから、どうしても目を離すことができなくて、ずっと見ていました。」
彼は何も言わず、私のほうを向いてそのまま私を眺めていた。
「一緒にお仕事ができて、本当に良かったと思います。色々なことを近くで勉強させていただいた気がします。気が利かないのであまりお役に立てなかったかもしれませんが。」
 私は無意識に、発言にブレーキをかけ、軌道修正をしていた。言ってから、ずっと見ていたのは好きだからでなく、仕事振りを見習うためだとも、取ってもらえるだろうと思った。
「見ていたのか。」
 彼が少し笑った。私の発言をどう取られたのか分からないが、彼は余裕だった。リラックスしていた。笑ってそのすぐ後、あの柔らかい、細い目になって、こちらを見ていた。もしかしたら彼は私が事務所でずっと見つめていたことを、分かっていたのかもしれない、と咄嗟に思った。そう思うと、一気に恥ずかしさが全面に押し出され、私は顔が火照ってくるのを感じた。
「中村は、俺のことが好きなのか?」
 私は体が硬直して、動かなくなった気がした。あまりに突然な彼の発言に、動揺してどこに視線をぶつけていいのか、分からなくなった。それでそのまま、彼の顔を凝視していた。こんな単刀直入な質問は、想定外だった。不意を突かれた、と思った。そして次に、からかっているだけかもしれない、とも思った。彼は穏やかに笑っていた。私はアイスクリームを食べたあの日のことを思い出した。この表情に、きっと私は取憑かれたのだ。

私は多分、切羽詰まっていたのだろう。もうこの機会を逃すと、永久に彼とは会えなくなるかもしれない、そういう心境に達していたのだろう。この世の果てまで行ってしまうわけではないのに、配置換えでまたいつか一緒に仕事ができる可能性も無きにしも非ずなのに、もう永遠に、二度と、彼とは会うことが出来なくなるのだと、そういう妄想に取り憑かれていたのだった。そしてこのとき瞬時に、私はこの人を今捕まえないと、永久に近寄ることは出来なくなってしまうと、そんな考えが脳裏をよぎった。
「初めてお会いしたときに、好きになってしまったんです。」
ストレートに、正直に言うしか、方法が見つからなかった。大人の駆け引きのような会話も、想いをこめつつ控えめに言う言い方も、そのときの私は持ち合わせていなかった。言いながら、自分が安っぽい芝居か何かの、セリフを言っているような気分になった。私はそこら辺に転がっているような、いわゆる不倫をしたい訳ではないのだと自分に言い聞かせた。それなのに、こんなことを言ってしまっている自分がいた。彼が既婚者で子供もいることは、十分分かりきっているのに、そのことが私の感情に常にブレーキをかけ、本人はもとより周囲に悟られてはならないという注意力へと繋がっていたはずなのに、このときは、そのタガが、何故だか一気に崩れてしまったのだった。


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知り合ったときには・・・(8)

2006-10-05 22:09:01 | 知り合ったときには・・・
(8)
 
 春になった。年度末、慌しく仕事をしている最中に、主任の彼が地方の支店に転勤になることを、社内メールで知った。新しく立ち上げる部署の関係で、どうしても必要な人事のようだった。新しい部署のために、試験的とはいえ立ち上げられた係なのだから、そのうち正式な何かしらの人事があるとは予想はしていたが、それが現実となった。薄々分かっていたこととはいえ、私は絶望的な気分になった。今まで表に出すことはできなかったけれど、毎日抱えて積もりにつもった感情を、どうしたらいいのかと途方に暮れた。彼は単身赴任ということだった。まだお子さんも小さいのに、ご本人もご家族も大変だなと思った。私は彼のことを、こんなに内心で惹かれてはいたものの、例えば彼の奥様やお子さんに対して、嫉妬のような感情を持つということは、どういう訳かほとんど無かった。会社にいるときの彼が、家庭というものを彷彿させない態度でいたということや、まったく所帯じみた感じのない人だったというのもあるのかもしれない。私が望んでいたものは、誰かから彼を奪うとか、そういう感じではなかった。だから彼の周りのものはあまり気にならなかった。私の思いは、ただ、少しでも、近づきたいとか、内面を理解できたらとか、そんなものだった。

 もうあと彼の転勤まで数日というある日、同じ部署内で送別会が開かれた。私がここに転勤してきてから、ちょうど2年が経っていた。あの時と違って、彼の席は私の隣ではなく、もっと向こうの、上座の円卓だった。私は出入り口付近の席に座っていた。隣に座った経理担当の先輩が、よく飲みながらしきりに私に話し掛ける。私はそれを、とても鬱陶しく感じた。この人はなんでこんなくだらないことを延々と喋っているのだろう。今度来る上司がどんな人かなんて、どうでもいいではないか。私は適当に相槌を打った。相槌を打ちながら、時々遠くにある、彼の席のほうをちらちらと伺った。彼はかわるがわるやって来る上司や同僚や後輩から、お酌を受けていた。お酒は飲まない性質なのに、あんなに飲んで大丈夫だろうかと思った。会の間中、私は彼の席にお酌にいく隙をうかがっていたが、やっと人が途切れたと思って席を立つと、お開きの合図がかかってしまった。

 会が終わり、お酒に強い人達は2次会へと流れていった。私は、こんな気分のままでこれ以上耐えられないと思い、適当な理由をつけて家へと帰ろうと思った。彼のほうをちらっと見ると、2次会に行かされるようだった。お酒が好きでないのに、今回ばっかりは主役なのだから、仕方ないのだろうと思った。がやがやと騒がしいレストランのロビーを抜け、お手洗いに寄ってから帰ろうと、廊下の突き当たりにある洗面所に向かった。お手洗いの入り口で、主任の彼が後から歩いてきていたのに気がついた。
「お疲れ様です。大丈夫ですか?」
 次々とお酌をされていたのを思い出し、何気なく口にした。
「何が?」
「いえ、お酒が。あまり好きではないと前に仰っていたから。」
 彼はお酒のせいか、少し顔に締まりがないように見えた。でもそのお陰で、普段の近寄りがたい雰囲気が、だいぶ薄れていた。
「そうだな。好きじゃないけど、そんなに弱くもないよ。」
「そうですか。」「今日はお酌にもいかず、すみません。」
 言いながら頭の中で、2次会に行く人がロビーで彼を待っているのではと思った。
「帰るのか?」
 少しどきっとした。私が思っていることを見透かしているのかと思ってしまう。
「申し訳ないのですが。あまり体調が良くなくて。私あまり飲めないし。」
「そうか。」「俺もそんなに乗り気じゃないんだけど・・・。」
 その時後ろから、2次会に行く人のひとりがやはりトイレにやって来て、彼に話し掛けた。それを合図のように私は女子用に入った。

 化粧室でなぜか念入りにメークを直したあと、外に出て駅の方に向かって歩く。地下鉄に乗って、そこから乗り換えればいいと思った。春の夜の、少し暖かくなった空気からは、なんとも言えない、胸が空しくなるような気配を感じとることが出来た。秋の寂しさとはまた違う、もっとそわそわした感じ。それは異動の季節特有の、別れを予感させる感傷的な気分のせいだとは分かっていた。彼の異動する所は、ちょっとやそっとでは行けない距離の場所だった。飛行機や新幹線を使わないと行き来できない。だが少し考えて、それが何なのだろうと思った。私にとってはすぐ隣の支店に転勤になろうが、本社に転勤になろうが、海外に行こうが、地球の裏側まで行こうが、そんなの関係のないことだった。もっと大袈裟に言ってしまえば、地方に転勤になろうが、この世からいなくなってしまおうが、会えないという点だけに関して言えば、まったく違いがないのだった。私の日常生活の圏内から出て行ってしまえば、それはほとんど会うことが出来ないことを意味していた。例えば隣の会社のオフィスにいたって、彼とは会うことなんてまずないのだ。仕事という繋がりがなくなってしまえば、彼と私がかろうじて関係するものは、他には何もないのだった。それを考えると、私は急に自分がおめでたい馬鹿女のような気がしてきた。一体そんな、もろい関係のために、どうして私は毎日毎日、一喜一憂しているのだろう。駅に着いた。ホームの白い線を見つめながら、私は自分で自分の中にあるこの思いを、どう扱ったらいいのか、分からなくなってしまった。しかし、当然のことながらどうすることもできなかった。ただ、何も考えていないかのように、しているしかなかった。
「おい。」
 声がした。彼だった。なぜここにいるのだろうと思った。彼は2次会に行ったのではなかったのか。
「帰るのか。」
 そう言う彼の顔はほんのりと赤くなっていて、そのせいで普段よりも少し老けて見えた。
「あれ、どうしたんですか主任。主役なのに、いいんですか2次会行かなくて。」
 彼は騒ぐ酒の席が嫌いだし、無駄な付き合いをしない人だとは、普段の行動でなんとなく理解していたので、そう驚くことでもなかった。
「あんまり、あの騒ぎは好きじゃないから、いいんだよ。」「コーヒーでも飲みに行こう。酒はやだな。」
 一瞬冗談なのか本当に言っているのかの、判断がつかなかった。どう返事をしようかと躊躇していると、「地下鉄降りたらでいいな。」と勝手に決めている風だった。


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知り合ったときには・・・(7)

2006-10-05 02:10:41 | 知り合ったときには・・・
(7)

 主任の彼のことを密かに思っていることは、付き合っている彼に対して少しの後ろめたさはあったものの、逆はというと、そんなことを考えたこともなかった。そもそも私が一方的に思っているだけのものだったし、その思いを半ば無視しようとしている自分もあった。身動きの取れない立場、好きになってもしかたがない関係、と、その先を考えようともしなかった。ある所まで想像することはできても、その行き着く先なんてどうなのだか想像できかねた。思い浮かぶのは陳腐なよくある不倫話や、修羅場のようなものだった。自分がそういう立場に立つということは、到底考えられないものだった。すでに誰かに所有されている人の、その所有権をめぐって争うなんてことは、どう考えても私には出来ないし、自分がそこまで女女した行動を取るとは思えなかった。

 彼と別れたあの日、自分のアパートへ帰りつくと、私は自分が、それほどきつくなく縛られていた何かが緩められたような、何かから解放された感じを受けた。と同時に、自分の寄りかかることのできるものがまるでない、不安定さもあるような気がした。秋も深まった11月の夜は、冬とは違った寂しいような薄ら寒さが感じられた。あまりの静けさに、テレビをつける。何かの番組が映った。私はじっと画面を見つめた。画面から目が離せなかった。でも何をやっているのか、さっぱり理解できなかった。お笑いの番組のようだった。でも笑うことが出来なかった。映像は私の瞳の表面にただ映っているだけで、音声は私の頭の上をただ流れていた。私の脳の裏には別の映像が写っていた。今日彼と会ってから別れるまでの一部始終と、その会話が流れていた。記憶されたばかりのそのことを頭から呼び出しなぞっていると、やはりこれでよかったのだと思った。それからもう、そのことは思い出さないようにした。ただ少し、彼は大丈夫だろうかと思った。冷静だし、なりふり構わずというタイプではない彼のことだから、きっとこの後、関係を修復しようという提案なんてしてこないだろう。今日ですべてが終わったと思っただろう。彼にはもっといい女がいるはずだ。でも、そんなことはこちらの都合のいい言い訳なのだとも思う。彼に対する誠意と言いながら、それが本当に誠意だったのかは、未だに分からない。それは彼が決めることだ。ただ、あのままの状態でぬるま湯につかるように、いつまでもずるずるとしている訳にもいかなかった。

 職場の彼のことは、相変わらず惹かれていた。仕事での接触が多くなればなるほど、私は益々彼の仕事ぶりや垣間見える彼独自の考え方に、触発されたり尊敬の念を抱いたりした。それと比例するように、彼と自分の間に横たわる大きな溝を感じずにはいられなかった。私の感情の波は、彼との間を行ったり来たりしていた。凪のように静かな時もあれば、どうすることもできない立場を思い知らされて激しくうなることもあった。私がしなくてはならなかったことは、その波打つ感情を、絶対に彼や周囲に知られないようにすることだった。私情を仕事に持ち込むのを特に嫌っていた彼なのだから、なおさらだった。

 そんな風にして、1年ほどは過ぎていった。仕事もそこそこ忙しかったし、彼と別れた私は、自分のことだけに時間を割いていたので、それまでしようと思って投げ出していたことを始めたりしていた。図書館に行って代わる代わる本を借りてきて読んだり、興味のあった習い事に通ったり、行きたいと思っていた遠い場所へ一人で出掛けたり、ダイエットだと言いながら無闇に公園や街中を歩いたりした。心の奥底で、誰かを思っていることを、密かに楽しみ、そして悪いことだと思いながら、その反面そのことを打ち消すように何かをしていなければ落ち着かなかった。でも、それは、今思えば自分をごまかしていたにすぎなかったのかもしれない。本当にしたかったことは、そういうことではないのだと、自分でも心の奥底の、深いところではわかっていたのだ。けれど、私は、誰にも内にあるその感情を打ち明けることはできなかったし、またしようとも思わなかったので、自分勝手に都合よくその思いを、ある時はいちばん大事だと思ったり、またある時はそんなもの無いのも同じことだと思ったりした。その半面、相手の気持はどうであれ、この今持っている思いを、何の憚りもなく、おおっぴらに表したり感じたりできたら、どんなにいいのだろうと思ったりもした。

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知り合ったときには・・・(6)

2006-10-01 02:30:28 | 知り合ったときには・・・
(6)

 私の心の中の変化とは裏腹に、毎日は単調に、同じように過ぎていった。朝起きて電車に乗り仕事に行って、たまに残業をしてアパートに帰る。週末は彼が泊まりに来たり、または来なかったりした。そして月に数回は遠出のデートをしたりした。相変わらず私は、付き合っている彼に対しては淡々とした態度を崩さず、あの日以来、親に会わせる、とか結婚、という文字は、二人の間にはまったく上ってこなかった。反対に、職場の主任の彼に対しては、職場が同じ社員同士、という間柄以上の関係ではないにも関わらず、心の中を占める割合はどんどんと増大していった。毎日職場で顔を合わすというのも、その要因のひとつかもしれないが、絶え間ない思考に、ほんの少しでも隙間が出来ると、そこを割り込んでくるかのように、彼のことが頭に浮かんでくるのだった。そして、そんなことを四六時中考えている自分に気付いて、愕然とするばかりだった。私は、自分のこの気持が、自分でも止められないくらいの速さと勢いで、あまりにも募っていくことに、どうしていいのか分からなくなっていた。一回り程歳が離れていて、どう考えても自分とはつり合わない人だと、そんなことは考えなくても分かることだったし、勿論、彼は子持ちの既婚者であるということは百も承知だった。

 単調だと思っていた毎日に、あることが起こった。
 秋になった。秋になっても、毎日は何も変わらなかった。ただ、寒くなると、一人でいるのが耐えられないという気分になることが多く、そのため彼が泊まっていくといっても、あえて断ることをしなかった。けれども本心では彼を要求していないのに、寂しさを紛らわすために彼に優しくしている自分が、嫌だとも思った。彼は相変わらず私には寛容だった。私は彼に夢中では無かったし、むしろ違う人のことを考えていて心ここにあらず、ということも多々あった。どうにもならない気持を、自分の中で消化することが出来ず、それでイライラすることも度々あった。その度に自己嫌悪に陥り、そして彼に対して不誠実である自分に嫌気が差した。私は彼を利用している、そう思い始めた。私はどうにもならない人を好きになりかけている。既婚者で子持ち。どうして主任の彼は既婚者なんだろう、と恨めしく思うこともあった。なぜもっと早く知り合わなかったのだろう。私が同世代だったらよかったのに、等と思った。既婚者でなければ、正々堂々と正面からぶつかっていけるのに、手も足も出せない。けれども嘆いたところで彼と私の立場は変えようがなかった。そもそも、私の気持や感情はともかく、主任の彼が私のことをどう思っているのか、それさえ分からないのだから、よくよく考えれば、彼が既婚者かどうかなんて、そんなことは二の次のような気がした。主任の彼と私の関係が、にっちもさっちもいかない以上、付き合っている彼に対してはせめて誠実にならないといけないと思った。そうするにはどうすべきか。それは、職場の主任の彼のことを抜きにして、付き合っている彼自身に対して、私がどういう気持を持っているかをはっきりさせることだった。そしてそれは、深く考えなくてもすぐに結論がでることだった。

 11月になった。私の誕生日が近づいてきた。付き合っている彼と、食事に行くことになっていた。彼に対しての自分の気持を、はっきりと確認してからは、もう無闇にアパートに彼を泊めるのを控えていた。私のアパートで話をしても良かったが、外のほうが客観的に話ができ冷静な態度を崩さずにいられると思った。それで、食事の予約をしてある、私の誕生日に話をつけようと思った。
 席に着き、食前酒が運ばれてきた。お酒を飲む前に、話を済ましてしまわなくては、と思った。
「あのね、」「話たいことがあるの。」
 私は微笑していた。私の心の中では、もう事は終わっていたも同じだった。ただそれを、この目の前にいる彼に話して納得してもらえばいいだけのことだった。
「なに?」
 彼はこれから私が話すことと、正反対の内容を予測していたようだった。優しい微笑みが、返ってきた。
「別れてほしいの。」
 私は、自分が誰かを振るような女だとは、今まで考えたことがなかった。振られることはあっても、振るようなことには縁が無いと、そう思っていた。だが、自分と、そして相手に対して正直になる、ということは、こういうことなんだと、今思った。彼にまったく不備がないのに、こうして私からこの話を持ち出すのは、自分がとても高慢になったような気がしていい気分ではなかった。だが、このまま彼と何食わぬ顔して付き合っていくことは、さらに酷いことだというのが、私なりに考えた末の結論だった。
彼は私の、ど真ん中を見つめた。そして、私が今言ったセリフの意味を、頭の中で懸命に考えているような顔をした。私の口から、なぜそんな言葉が出るかを、本当に信じられないような表情をしていた。
「結婚は考えてないと言うのは、この間よく分かった。でも、別に、今すぐ結婚してくれなんて、俺は全然考えてないよ。」
 彼には、私が近いか遠いかわからないが、将来的に結婚を考えなくてはいけないことを苦にしての別れ話なんだろうと思われているようだった。私は彼に、もう少し詳しく心の経緯を話さなくてはならない必要があると感じた。そうするのが誠意のように思われた。
「そうじゃない。そうじゃなくて・・・」
 私は、結婚を考えていないことも多少は理由になるが、そんなことよりも、私が彼に対して、情熱や強い愛情をもてないでいることが、これから付き合っていく自信がない理由だと説明した。貴方といる時間は、私にも心地よい時間には変わりがないけれど、それが真の愛情であるかどうかは確信が持てないこと、それでは貴方に対して失礼であること、そういったことを説明した。興奮する様子もなく、最後まで私の話を聞いていた彼は、静かにこう言った。「結婚を強要するのじゃないのに、なぜそんなに、真の愛、とか本当の愛情、なんてこと言うのかな。確固たる愛情がなければ、付き合うこともできないのかな。そういうのは、付き合いをしていく中で、徐々に培われていくものじゃないのかな。それとも俺のことが嫌いなのか?じゃあなんで、俺と一緒にいる時間が心地よい、なんて言うのかな。それはどういうことなのかな。」
 誰かと話をしていると、相手の言うことに簡単に同調してしまうところが、私のよくないところだとは日頃から自覚しているのだが、今も簡単に、彼の言うことはもっともだな、と思いそうになった。
「嫌いじゃないの。ただ、狂おしく好きという訳でもない。あなたがいないと生きていけないというくらいではない。いなくても生きていけると思う。」
 言いながら、私は何て酷いことを言っているのだろうかと思った。また別れ話の理由としては、こんな言い方ってあるのだろうかとも思った。狂おしく好きでないから別れようなんて、言う女がいるだろうか。それはもう一方の想いと、対比しているからこそ出てくる表現だった。当然彼にはそこまで分からなかったと思うが、どうしたら自分の考えを分かってもらえるのだろうと思った。私の要領を得ない説明に、彼は静かにこう続けた。
「狂おしく好きでなくてはだめなのかな。愛情って、狂ったように好きだから、本当に愛していることだ、とは限らないと思うのだけれど。静かにひっそりと存在する愛情というのもあるかもしれないし、そんな映画か何かじゃないんだから、本当の愛が狂気の沙汰のようだとは限らないよ。そう思わないかな。」
 好きな人がいる、こう言ってしまえば、ことは簡単だった。あなたの他に、好きな人が出来たと。それは本当だし、そう言えば彼は一も二もなく納得するに違いなかった。けれど私の勝手な言い分だというのは充分わかっているのだが、それを言うことはどうしても憚られた。既婚者に恋をしたから、俺を捨てるのかと、そういう反応が目に見えているからだった。勿論相手が既婚者だとは絶対に言うつもりはない。それに、職場の彼のことがなくても、私は付き合っている彼との関係に疑問を感じていたのだから、そのことを切り離して考えたうえでの結論だったのだ。そのことを抜きにしても、別れようと判断したのだから、それは言わなくてもいいことだと勝手に思っていた。
「そうだけれど・・・」
 彼の言っていることはもっともなことだった。結婚を前提としていないのであれば、義務のように、本当の愛情、なんてことにこだわらなくてもいいのではないか。本来そうやって、迷いながら疑問に思いながら、それを探求しながら愛情とは深まっていくものなのかもしれない。それに結婚する人でさえ、明確に愛情なんて持っていると思うものなのだろうか。私は、何がなんだかわからなくなって来た。そしてそんなごちゃごちゃした思いを振り切るように、先ほどの決意はどこへやら、この言葉を発してしまった。
「好きな人ができてしまったの。」
 テーブルの上で手を組んで、視線を食前酒のグラスに落としていた彼は、その一言ではっとまたこちらを向いた。先ほどの微笑ではなく、それは悲しいような、疑うような、蔑むような、なんともいえない表情だった。一瞬だけ私の目と焦点が合い、すぐにそれはずらされた。
「そうだったのか。」
 もうそれ以上、彼は何も言わなかった。逆上もせず、それはどこの誰なんだと詰問するわけでもなく、それ以上私を説得するわけでもなく、ただ、そうだったのかと、ひとこと言ったきり、すべて受け止めたようだった。

 その後、静かに食事をした。彼は予想以上に紳士的で大人だった。怒って席を立つわけでもなく、何とか私を繋ぎ止めようと説得を試みるわけでもなく、また私を罵るわけでもなく、ただ淡々と、コースの始めから終わりを、行儀よく食べた。会話は無かった。まったくなかった。お互いに胸のなかで、それぞれの渦巻く感情を思う存分味わいながら、それでも何も言わなかった。考える時間はたっぷりとあったので、コースの間中、ほんとうにこれでよかったんだろうか、と何度も思ったが、本心をさらけ出してしまった以上、もう後には戻れないと、そう思った。

 会計が済むと、彼は持っていた紙袋を私に差し出した。誕生日プレゼントだと言った。こんな話をした後に、そんなものは受け取れないと私が言うと、俺が持っていても仕方が無いから、と半ば強引にそれを持たせた。駅まで戻って来ると、これで終わりだな、と言いながら不意に抱きしめられた。手にはいつもよりも力がこもっていた。私は少し苦しくなった。自分の所為で彼と別れることになったのに、なぜか涙が出てきてしまった。
「さよなら。」
 それだけ言って、それぞれのホームに向かった。夜のホームに、まだこれだけの人がいるのが、今は鬱陶しいと思った。あれだけ考えて決断したのにも関わらず、これでよかったのかという思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えた。でも、私は彼に対して不誠実であってはいけないのでは、という疑問から、そもそも決断したことだったのだ。そう思うと、やはりこれでよかったんだと、そう思った。

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知り合ったときには・・・(5)

2006-09-28 01:15:34 | 知り合ったときには・・・
(5)

 会社の最寄り駅に到着すると、読んでいた小説を鞄にしまった。通勤で使っている電車内では、いつも本を読んでいるが、今日はまったく集中することができなかった。そのせいで追っている文章を何度も読み返した。何度も読んだのに、何が書いてあったのか、考えてみてもどうしても思い出せない。
 昨晩の彼との会話を、もういちど頭の中で反芻してみる。あの時彼が、母親と会ってくれと強硬に主張していたなら、もしくは私が、お母様に会ってもいいが結婚までは考えられない、と言ったことに関して、彼が私を裏切り者のように言ったならば、私はもう、彼とは別れようと決意しただろう。けれども昨日の彼は、いつもよりは寛容で、少し大人の余裕すら感じられた。あのような反応が返ってきたことで、却って私は彼から自由になれた様な気がしていた。結婚というものに縛られない交際、それを宣言し受託されたのも同じことだと思った。彼が帰った後、彼と一緒に生活することをぼんやりと想像してみた。容易に想像することができたけれども、それは結婚生活というよりも、ただの共同生活という気がした。結婚というものが、好きな者同士が離れられずに一緒になるという単純な理由でなく、あらたな家庭を作る、ということがその意義として重要視される制度ならば、それは今の私にはまだ現実味のないものだった。彼と一緒に毎日を暮らすことは、それなりに楽しだろうし、きっと優しい彼ならそれほどの苦労もなく人生を歩んでいけると容易に予想ができるが、例えば子供を作る、ということを考えると、私は彼の子供なんて欲しいのだろうか、と思った。欲しくないということは、それほど彼のことを、人生の中で必要としていないのではないだろうかと思えるのだ。要するに愛している、というまでには達していないのではないか、と思った。本当に愛している人となら、自分からそういう気分になるのではないか。それは女の、単なる感傷のようなものなのか、実際にそんなことを、ドラマじゃあるまいし思う人なんているのだうか、とも思うのだが、それはきっと、そういう人が現れたら分かることなのかもしれない。
 私はどうしてこんなに醒めているのだろう、と自分で自分を冷ややかに見つめてみた。結局私は、きっとそこまで、彼のことを思っていないのだ、という結論にいつも達する。でもそのことを、はっきりとは彼に言えないし、自分でも、結婚すると決意するに至るような愛情、というものがどんなものなのか、良く分かっていないのも確かだった。それとも・・・。私は自分の心の中に、考えようと思ってもいないのに、勝手に浮かんできてしまうあることがあるのを感じていた。でもそれを考えるのは、馬鹿げていると思って、そのことに気がつかないように無意識にしている自分も分かっていた。自分の思い込みだけで、想像の羽を広げるのは、自由なことだと思うが、それを現実に直面している事案と比較して考えるのはおかしいと、そう思うからだった。
「おい。」
 不意に後ろから声がした。会社の主任の彼だった。朝のせいか、いつもより爽やかな印象だった。たった今頭の中で考えていたことを、まるで見透かされたかのように、数秒間こちらを見つめていた。それで、急に恥ずかしい気分になった。実際に頬が熱くなるのを感じた。
「おはようございます。今日は早いですね。」
 慌てて挨拶をしてごまかした。いつもは足早に通り過ぎる並木道を、少しだけゆっくりした速度で歩いた。周りの人が、私たちをどんどん追い越していく。
「朝から元気ないな。」
 彼はいつも、悠然と歩いているように見える。大きな歩幅で、ゆっくりと歩いているように見えるのだ。
「そうですか。元気ですよ。」
「男と喧嘩したか。」
 ぎくりとした。彼が不意に現れたことで、完全にいつものペースを失っている私は、こんな発言にまたも顔が赤くなりそうだった。彼がこういう話をすることは、滅多にないことだった。この間の昼食で、見合いの一歩手前のような話を上司にされたとき、彼がいます、と言ったことを、聞いてないようで聞いていたのだなと思った。
「いえ・・・」
 まさか昨日あったことや今朝たったいま頭の中で展開していたことを赤裸々に話すわけにもいかず、私は言葉を濁した。
 やや下を向いて歩いている私の視界には、右を歩く彼の、二の腕から鞄を持つ手の辺りが見えていた。ごつごつとした左指には、当たり前だけれど結婚指輪がしてあるのが確認できた。
「結婚する時の決めてって、なんなんでしょうねえ。」
 私は別に、答えを求めて言ったのではなかったが、なぜかこういう言葉が口から出てしまった。まして自分のこととして言ったのではなく、あくまで一般論として疑問に思うという意味で、それがつぶやきのように口からこぼれ出ただけだった。けれどもいったん口から出た言葉は、取り消すことができず、言ってしまった以上その反応が気になった。
「さあな。」
 一言彼は言った。はぐらかされたと思った。「俺も知りたいね。」
 彼のことに関しては、一を聞いたら百ぐらいことを想像をしてしまう私は、この言葉の意味することを頭の中で考えていた。これは一体、どういうことなんだろう。けれども、見えない彼の私生活と、あくまで私の想像でしかない彼の結婚生活からは、この言葉の意味なんて、見出すことはできなかった。また私は、この次の言葉をどう繋げたらいいかを、見失いそうになった。
「お前はいいな。」
 車道の車が勢いよく走っていて、その言葉は半分しか聞こえなかったけれど、多分、彼はそう言ったのだ。私はますます、頭の中が混乱した。歳を取ると、若いというだけで、若くていいね、とよく言われるように、既婚者から見たら単なる独身であるというだけのことで、いい、ということなのか。それとも既婚者となると世間やら何やら色々とあるけれど、独身の私は能天気でいいということなのか。とにかく、どういった意味で言っているのか、さっぱり分からなかった。分からないのだから、どういった返答をしていいのかも分からず、「そうですか。」と曖昧な顔をしながら、曖昧な返事をした。
「お前みたいなのと結婚したら、いいんじゃないか。」
 目の前の信号は赤だったので、そこで少し立ち止まった。立ち止まったので、彼はこちらをちょっと向いて、少し微笑んだ。数秒だった。私は何も考えることが、できなかった。

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知り合ったときには・・・(4)

2006-09-26 02:35:56 | 知り合ったときには・・・
(4)

 アパートに入ってくるなり、彼は「あー、疲れた。」と言って、ごろんと上半身だけ寝転がった。やっぱりこの調子だと、今日は泊まっていくのだろうか、と思うと、何故だか急にこの人が憎たらしいような気分になった。
「何か飲む?」言いながらさきほどの電話に続く自分の冷たさに、少し嫌悪の気持が湧いてきた。どうして今日は、こんなに彼のことを面倒臭く感じるのだろう。
「いいよ何でも。今日はすぐ帰るから。」
 私のいつもとは微妙に違う態度に、敏感に気が付いたのか、彼はまたすぐ帰ることを強調した。「ちょっと話したいことがあるんだ。」
「話?」
 私がさっき意味もなく訊いたら、今日は特に用はないと、確かに言っていたはずなのに、何なのだろう。ここ最近喧嘩や言動のすれ違いをした記憶もないので、何のことを言っているのだろうと思った。そう言えば、最近と言わず彼とは喧嘩らしい喧嘩など、今まで一度もしたことがないことに、今気付いた。
「今度の日曜に、うちの母親がちょっと用があって田舎から出てくるんだけどさ。」
 言うと同時に、彼は寝ていた上半身をまた起こした。小さなテーブル越しに、顔と顔は近くになった。
「そう。」
 素っ気無く答える。もう意図は見えていた。お母様に会わせたいというのだろう。そしてその先は、結婚を意識してほしいと言うのだろう。私が目線を下げようとするのを、彼は食い止めて何とか自分の目から逸らさずにした。おふくろに会って欲しい、か、結婚してほしい、という言葉を予想した私は、次の言葉で一瞬不意を突かれた。
「お前俺のことどう思ってるんだ?」
 今こんなことを聞かれるとはまったく思っていなかったので、意識的にしていた、今までの素っ気無く冷たい態度が、瞬時に狂ってしまった。逸らせなかった瞳を、どこに向けようと、何秒間か視線が宙を彷徨った。私の顔を見つめながら、その一瞬の迷いのようなものを、目の中に見て取った彼は、自力で回答を見つけ出したかのように、自分のほうから視線をずらした。
「あなたは?あなたは私のことどう思っているの?」
 本心を見抜かれたように感じた私は、そのことに少し慌てて、こう言いながらも自分がずるいということを、充分承知していた。私は卑怯だ。分かっているのに、なぜか口を出てしまった。こうして答えもせずに逆に同じ質問を繰り返すことで、時間を稼ぎ、そして相手の反応如何で自分の答えを出そうと思っている。自分でそのことに嫌気が差した。
「ごめん。そんなことはどうでもいいのよね。私があなたを、どう思っているかを知りたいのよね。」
 素直にこの言葉が出てきたことに、自分でも驚いた。彼は私がいつもの私に戻ったので、少し希望を持てたようだった。
「いや、俺は、」彼の目は、私の、目と口の中間辺りを見ていた。
「俺はお前のことが好きなんだ。」「ずっと一緒にいたいと思ってるんだよ。」
 言い方によっては、随分ときざな言葉だと思った。けれども、今の彼はさらっこの言葉を口にした。そして今の彼のこの言葉は、決して陳腐なセリフには聞こえなかった。私たちは日頃、好きだとか愛しているだとか、そんな言葉は滅多に口にしなかった。
「私も・・・」
 後に続く言葉を、どうしていいか分からなくなった。彼のことは、勿論嫌いではない。好きだと思う。けれども、愛しているのかどうかは分からない。一緒にいて楽しい。自分が自然体でいられる。多分一緒に暮らしてもそれほど違和感もないだろう。けれども、この人でなければだめだと、そんな確信が、どうしても得られないのだった。この人でないと私は生きていけない、この人でないと私はだめだ、そんな風にはどうしても思えないのだった。けれどもそれは、そんなことは、所詮現実味のない小説やドラマの話であって、この人でないとだめだという当てのない確信なんかよりも、生活して生きていくという現実の中では、この人となら衝突もなく生きていけるということの方が、もしかしたら大切なのかもしれないと、そんなことも思っていた。ただ、毎日の生活の中で、そんなことをぼんやりと考えてみることはあっても、彼と結婚する、ということについては、何故だかまったく頭の中になかった。そういう想定も、したことがないわけではなかったけれど、それはひどくぼんやりして、どうしても、自分に実際に起こる将来という風に、考えることができなかった。
「私も、好きだと思うの。一緒にいて、落ち着くし楽しいし自分が楽にいられる。でもね・・・。」
 期待されている言葉は言わなくても、正直に言うことのほうが、大事だと思った。先を言おうとして、彼は私の代わりに続きを言った。
「でも、結婚までは、まだ考えてないか。」
 声に出す代わりに、頷いた。彼はなぜか、ふっと微笑んだ。3歳年上の彼を、普段は特に年上と感じることもなかったが、今の彼は、自分より少しだけ大人の男に見えた。
「お母さんに会うのなら、会ってもいい。でも、それで即結婚とは、決められない。」
「いいよ。わかったから。」
 それは投げやりな言い方でなく、すっきりとした表情だった。期待していた答えと、違う答えを言われて落胆しているという様子は微塵もなく、もしかして彼は、前から私の本心を見抜いていたのかもしれないと思った。
「あ、アイスが!」
 彼は慌てて、部屋に投げ出したコンビニのビニールを床から持ち上げた。頼んだアイスが、少し溶けていた。彼が買ったのは、なぜか宇治金時だった。
「ごめんね。頼んでおいて忘れてたね。」
 私は咄嗟に、先日のキャラメルバニラを思い出した。それから連想ゲームのように職場の彼のことを思い出し、彼の柔らかい笑顔を思い出し、そして半分どろどろになった宇治金時を見つめた。
「もう、これじゃだめだね。」
 言いながら台所に溶けたアイスを捨てにいった。彼に背を向けたキッチンで、私は胸が締め付けられるのを感じた。

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知り合ったときには・・・(3)

2006-09-25 07:01:11 | 知り合ったときには・・・
(3)

 キャラメルバニラを食べて以来、あの日のように昼食を食べる機会は度々訪れた。それは同じ事務所で同じ仕事をする者同士の、特別な理由のない習慣となっていった。たいていは、彼と一緒に仕事をしている上司と、彼、私の3人だった。社食のときもあったし、外へランチに行くこともあった。女子同士で連なって昼休みを取るのが嫌だった私だが、さすがに上司では断れないというのと、男の人の場合は人の噂やだらだらしたゴシップをあまり聞かなくていいし、食事という目的が終わればさっと引き上げてくるので、連れ立って行く事はあまり気にならなかった。それに相も変わらず、込み合う蕎麦屋や定食屋で、あっという間に平らげて帰る、というパターンだったので、女同士の優雅なランチタイムとは少し違っていたのだった。話をするにしても、彼と彼の上司が二人で喋っているのを、横で黙って聞いていることが多かった。ある日、洋食屋でハンバーグ定食が出てくるのを待っていると、彼の上司が唐突に、中村さん付き合っている人はいるの?、と聞いてきた。
「ええ。いちおう。」
 この手の質問は会社に入ってから聞き飽きるほど聞いてきたのだが、あまり私生活を詮索されたくない私は、素っ気無く答えた。その時私には付き合って2年になる彼がいた。友人の紹介で付き合い始めたのだったが、正直、熱烈な恋愛とは言えないような感情しか持てないでいたのだった。一緒にいれば落ち着くのは確かだが、それ以上の、特別な熱い思いというのは、どうしても持つことができなかった。人から聞かれた時は、特に隠しもせずに彼がいると表明するが、自分から進んでその存在を人に言ったりすることはしなかった。
「そうか。そうだよなあ。いないわけないよなあ。いえね、前にいた支店の部長さんからね、誰か息子にいい人がいないかなと訊かれててねえ。中村さんなら、控えめで、しっかりしてるし、もしあれなら、いいかなあと思ったんだけどね。」
 プライベートなことを聞いて悪かったと言いながら、上司はそんなことを話した。そんな話なら尚更、彼がいると言っておいてよかった、と思った。人の紹介というのは、もううんざりなのだ。その話をしている間、私は彼の反応が気になって仕方がなかった。私に付き合っている人がいることを、どう思うのか。そして上司がどこかの部長の息子の嫁候補に、私はどうかと言っているのを、どう思うのか。だが彼はその話をしている間中、特に変わった表情もせず、テーブルに置いてあるメニューをちらちらと見たり、他のテーブルの人達をぼんやりと眺めたり、運ばれてきたコンソメスープを飲んだりしていた。つまり私の私生活や恋愛事情のことなんかには、まったく興味を示していないのだった。

 私もまた、依然として彼の私生活は闇のままだった。ただ私は、毎日彼を観察することができたので、ほんの些細なことから、彼の家庭でのあり方を想像してしまうことがよくあった。スーツの下のシャツが皺だらけのときは、奥様がアイロンを忘れたかクリーニングを忘れたんだろうと思った。喧嘩か何かして、家事を放棄されたのかなとも思った。ごくたまに手作りのお弁当を持ってくることがあると、きっとお子さんの遠足の日なんだろうと思った。またどんなに残業が遅くなっても、一切電話をしたりしないので、家庭での彼は、尻に敷かれている、という訳ではないのだな、と思ったりした。たまに奥様から電話が入るときがあって、その時はぶっきらぼうに答えていた。職場に電話を掛けられるのを、非常に嫌っているようだった。奥様が仕事でどうしても残業を外せないときがあるらしく、そういう時は彼が上司に理由を言って残業を早めに切り上げて帰ったりもしていた。そんな時、当たり前だけれども、私はまったくの部外者だと感じた。そういう時は、せめて私に出来る作業はないかと申し出て、早くお帰りになってください、と言うことくらいしかできなかった。と同時に、彼の奥様のイメージが、仕事も育児もばりばりとこなすキャリアウーマン、というものに近くなっていった。そんな風に想像が大きくなってくると、逆に私という存在はどんどんと小さくなってくるように感じられた。

 奥様からの電話で、残業を早めに切り上げて彼が帰ってしまうと、まだ数名人が残っているにも関わらず、事務所の中は急に寂しい場所に感じた。私は切りのいいところで作業を終わらせて、帰り支度をすると外に出た。駅までの道を歩いていても、電車に乗っていても、ずっと彼のことを考えていた。知りもしない彼の家庭のことについて、勝手に想像を膨らませていた。家に帰って、小学1年生のお子さんと、一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったり、宿題を見てやったりするのだろうか、と考えた。お子さんといるときは、あの柔らかい細めの目で、子供を見つめているのだろうかと、考えた。その顔を想像すると、胸が締め付けられる感じがした。例えば、今付き合っている彼のほうは、あんな目をすることはなかった。表面的には、付き合っている彼は優しい人だと思う。言葉でも、態度でも、優しいことは間違いない。けれどもあの、彼のする表情の、あの何とも言えないあの目のような、こちらの胸がぎゅっと締め付けられる感じのあの目ほどの顔は、決して付き合っている彼からは見ることができなかった。あの目で真正面から、至近距離から見つめられたら、どんな感じがするだろう。どうしてあんな表情をするのだろう。あの目をしているとき、彼はどんなことを考えているのか、どんな気持でいるのだろうか。奥様を見つめるときは、あの眼差しなのだろうか。考えたからといって、特にどうなるわけでもないことなのに、ずっと頭を離れなかった。

 アパートに帰ると、付き合っている彼から電話があった。なんとなく会いたくなったので、これから行ってもいいだろうか、という内容だった。週末も半ばを過ぎ、残業の多い週だったので疲れのたまっていた私は、いつもなら絶対に断ることなんてしたことがないのに、今日は彼に会いたい、というよりも面倒くさいという気分が先にたってしまった。
「今日は少し頭が痛くて。早めに帰るのならいいけれど。」
 言ったあと、冷たかったかな、と思ってしまった。何となく会いたいから会おう、という理由は、会うのに目的なんていらない恋人同士にとって、至極当然の理由といえばそれまでなのだが、続けて「何か特に用があるの?」とさらに冷たいことを言ってしまった。「用って用はないけれど・・・。」と少し困惑したような調子が返ってくると、少し後悔の気持がしてきた。けれど、その気持は、きっと来ればそのまま泊まっていくに違いないのだから、もっときっぱりと断ればよかったかも、という気持に、瞬時に変わった。
「じゃあ行くけど、今日はすぐ帰るよ。何か買ってくものはない?」
 結局来るのか、と思いつつ冷たいものが食べたかった私は「アイスを買って来て。」と頼んだ。「いいよ。」と言って彼は電話を切った。比較的家の近くから電話をしてきたようで、彼は15分もしないでやって来た。一応電話を入れたけれど、最初から来るつもりだったのだろう。ゆるりした部屋着のワンピースに着替え、玄関立った私は、仕事の後はいつもそうだが、今日はなぜだか余計にだるさを感じた。

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知り合ったときには・・・(2)

2006-09-24 10:21:00 | 知り合ったときには・・・
(2)

 彼は仕事中、ほとんど私語をしない人だったので、当然私生活がどうであるかはまったく想像もつかなかった。ただ先輩が勝手に教えてくれたところによると、共働きの奥様と小学校に上がったばかりの息子さんがいて、会社から1時間くらいの町に住んでいるということだった。奥様が仕事をされているせいか、生活臭さというものをまったく感じさせない人だった。かといって、着るものや持ち物が洗練されて、隙がなく、独身のようだという意味ではない。そういった意味では、むしろかなり無頓着であるように思った。だが何と言うか、生活の匂いがしないのである。言葉で喋らなくても、何となく見え隠れするその人の家庭での姿、というのがまったく想像できないのである。ときどきこの人は、別居生活をしているのではないかと思うときがあった。それくらい妻や家族というものの影が、見えないのだった。職場では一匹狼といった風情があるが、私生活でも一匹狼なのではないか、と思うこともあった。そういう私も、OLにありがちな、女子社員で派閥を作る、とか、グループで固まって行動する、ということに抵抗があった。時々周りを恐れず単独行動をする私に、表面では普通に接してくれるが、陰ではきっと色々言われているに違いないと思っていた。この支店は女子が少ないので、あまりそういった行動を取っていても異色と思われないが、本社にいたときは昼休みを皆と一緒の行動を取らないというだけで、随分と嫌味を言われたり、変人扱いされた。一日パソコンに向かって、雑用に追われている身では、昼休みぐらい一人でいたいと思っていた。入社した当初は皆でランチを食べに行ったり、社食にぞろぞろと一緒に行ったりしていたが、そういうのが嫌になってしまった。何をきっかけにかは忘れてしまったが、だんだんと行動をともにしないようにしていった。終いには誰も何も言わなくなった。

 いつものように仏頂面で仕事をしていた彼は、今日は外に出ないでオフィスで一日仕事のようだった。頼まれた書類を印刷し渡しに行くと、お昼は?と聞かれた。
「今日は、上の食堂に行こうかと・・。」
 びっくりして答えた。ビルの最上階にある社食に行く時は、上の食堂、と言っている。
「じゃたまには外に行くか。」
 それは私と一緒にという意味なのだろうか。たまにはって、しょっちゅう外でランチくらい食べているだろう。それはたまには私とという意味で、言ったのだろうか。短い何秒かの間に様々な疑問が頭に浮かんできた。どう反応したらいいのだろうと体が固まったままでいると、「行くぞ。」と言って椅子に掛けてあるスーツの上着をつかみ、出口に向かって歩き出した。
「中村さん借りてちょっと昼行ってきます。」
 彼は私の係長にひと声掛けると、ほら、とばかり背中を押した。慌ててデスクから財布を取り出し、駆け足で後に続いた。最近は彼の係の仕事の手伝いが多いので、私の直属の上司は、特に何も言わず、ああ、とだけ言った。

 ここでいいか、と入った店は、取り立ててなんの特色も無い、スパゲティ専門店だった。本日のランチを頼み、私は緊張のあまり、何も自分から話すことができなかった。昼時で回転の速い店だったので、出されたスパゲティはあっと言う間に空になり、氷の多いアイスコーヒーはあっという間に飲み干された。終始無言で食事を終えた私たちには、下手に時間のかかるフレンチの店なんかではなくて、却って良かったのかもしれないと思った。だが降って湧いたような二人だけで食事ができるという状況を、こんなスピードで終わらせてしまったのが悲しいような、そんな相反する心境にもなった。食事時間が正味15分ほどで終わってしまい、昼休みはまだ30分ほど残っていた。昼休み中のサラリーマンやOLが行き交う、大通りの並木道を歩きながら、不意に、アイス食おうか、と彼が言った。ジェラード屋が数軒先にあった。こんな大人の渋い顔をした人が、食後のデザートにアイスを食べるだなんて、と思うと、何だか可愛らしくなり、少し緊張が和らいだ。ガラスケースを覗きながら、何を頼むのかを横目で伺っていると、キャラメルバニラと、ナッツ入りチョコレートという、甘い組み合わせのものを頼んでいた。アイスの好みがまったく同じだったので、つい同じのを、と言ってしまった。
「真似すんなよな。」
 普段あまり言わないような口調だった。私はつい正直に、「だって好みが同じなんですもん。」と答えた。彼は日頃あまり見せないような口元をして、にっと笑った。私は眼鏡の奥の、すこし細くなった柔らかい目を見て、どきりとした。こういう目を見たのは、初めてだった。

 その日以来、私はあの時の目に、たまに出くわすときがあった。それは頼まれた仕事をやり終えたことを報告したときだったり、少しお酒が入った飲みの席だったり、朝ばったりと改札の外で出くわしたときだったりと、不意な時が多かった。帰社しない彼をじっと待っていて、事務所に入ってきたところで視線が交差することがたまにあった。だがそういうときは決して笑顔を見せず、むしろ意識的に視線を外すのだった。向けている視線に気付かれないようにと、慎重に注意していたはずの私は、むしろ視線に気付いてほしいと思うようになっていた。頭の中では、いけないと思いつつも、目が勝手に、彼の姿を執拗に追ってしまうのだった。

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知り合ったときには・・・(1)

2006-09-23 10:18:09 | 知り合ったときには・・・
(1)

 私が彼と知り合ったとき、すでに彼は結婚していた。もう小学校に上がるくらいのお子さんもいて、当時20代前半だった私にとって、その人はとっくに落ち着いた、大人の男だった。私は初めて彼を見たときのことを、よく覚えている。曜日は忘れたけれど、仕事の暇な昼下がり、スーツではなく普段着で事務所に入ってきた。ベージュ色のポロシャツに、カーキ色のパンツを履いていた。そういう出で立ちの人も来客としてやってくるので、その人は上司の知り合いか何かの、お客だと思った。その事務所でいちばん下っ端の社員だった私は、すぐさま席を立って来客用のお茶を用意した。

 お茶を出して戻って来ると、私の隣に座る先輩が、そっと耳打ちをした。「あの人はうちの支店の人よ。」驚いてその人を見たが、まったく顔に覚えがないのだった。私がこの支店に転勤となり、2週間が経つが、その人は1ヶ月間の研修に参加していて、最近事務所には顔を出していなかったと、先輩が教えてくれた。

 傍目には、決してスマートで、洗練されているという印象はなかった。身長も低くはないが特別に高いということもない、中肉の、見ようによっては、ややずんぐりした体つき、色黒で顔のそれぞれのパーツが大きい。それで存在感があるように思った。例えば電車に乗っている大勢の人の中でも、彼の容貌だったら容易に見つけられるような感じがした。今30代の私だったら、その当時の彼を見て、中年、とは決して思わないだろうが、当時の私には、もう既に見た目はおじさん、という範疇に入っていた。かといって、だらしのないくたびれた中年という印象では、決して無い。格好いい、と女性が騒ぐタイプの外見ではないが、その容姿からは、何かわからない、強烈な個性が、顔や体からにじみ出ているような気がした。研修先に戻るというので、退席しようと席を立ったとき、出口のドアに近い私の席の前を通ろうとして、目が合った。大きくてぐるんとした目が、眼鏡の奥から覗いていた。睨んでいるような目つきだった。全体の印象は濃い顔、がっしりした体つきという感じだったが、表情だけは冷淡な、クールな感じがした。その目に吸いつけられるように、私は視線を外せなかった。

 私はその事務所に転勤してきたばかりだったので、彼に何か挨拶をしなければならないと咄嗟に思って、あの、と言いかけた。その瞬間その人は目線をそらして私の隣に座る先輩の方を向き、何か冗談めいたことを言った。先輩は、研修はどうですか、というような社交辞令的なことを訊ねて、その返事に、どうってことない、まあまあだよ、というようなことを返されていたように思う。そんなやりとりをしながら、笑いながら出口に進んで行った。

 一目惚れ、ということがあるのだとしたら、多分あれは一目惚れだったのだろう。今にして思うと、その時、私があの人に夢中になるという、根拠なんて何もなかった。たまたま電車に乗り合わせた人と、理由もなく恋に落ちてしまうように、私はその人に、一目惚れをしたのだった。特別に洒落た会話もなく、どう考えても惹き付けられるような外見的要素もなく、また事前にその人について何の情報も持っていなかったはずの私が、なぜあの日以来、あんなにあの人のことが気になるようになりだしたのか、どうしても分からなかった。ただ、何故かわからないけれど、強烈にその存在が印象に残ってしまったのだけは、確かだった。

 次に彼に会ったのは、その事務所の歓送迎会だった。私は転入者として、上座に座らされた。そして、ちょうど研修から戻ったばかりの彼も、慰労も兼ねていたその会で、上座に座らされていた。私の右隣だった。

「あの、」
 初めて会った時に、挨拶しそびれていた私は、これはいい機会だと思って、話し掛けた。支店長の挨拶も終わり、上司の乾杯の音頭も終わって、出されたものに箸をつけ始めたところだった。言いながら、手にビール瓶を持って、お酌の意思を表明した。
「どうも。」素っ気無く彼は言った。
「この間の異動でこちらの支店に参りました、中村と申します。よろしくお願いします。」半分空になったグラスにビールを足すと、彼はすぐに一口飲んだ。私はその様子を見ながら、続けて言った。
「ずいぶんとご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません。ちょうど研修でいらっしゃらなくて、この間お目にかかったときは、私主任だと知らなくて。すみませんでした。」
 隣の席だったので、真横を向かない限り、正確な表情は見て取れなかった。テーブルの上のお刺身に箸をつけながら、「いや、別に。こちらこそ。」と短い返事をされた。
「俺はこの会社の社員ぽくないのかな。」
 ぼそっと呟くのが聞こえた。その時はそれが、どういう意味かは、よく分からなかった。来週から事務所に復帰して、通常業務に戻るのだそうだけれど、営業の彼は、きっと昼間はほとんど事務所にいないのだろう。挨拶が済むと私は会話の続きを、どういう風に持っていっていいのか、分からなくなってしまった。彼はもくもくと料理を食べ、ビールを飲んでいた。空になったグラスを見て、私がビールの瓶をもってお酌をしようとすると、さっと自分で瓶をつかみ、「そんなことはいいから。」と言ってビールの瓶を卓上に置いてしまった。
「すみません。」
「いいんだよ、女に酌をさせようなんて思ってないから。」言いながら、逆に空になった私のコップに注いでくれた。「それに、お酒はあまり飲まないんだよ。」そしてまたもくもくと料理を食べている。女の社員が少ないこの会社で、たいていのおじさんは、私くらいの歳の女が隣に座ると、彼はいるのかとか、なんだかんだと話題を振ってくるものだが、この人はそういったことは一切聞いてこない。そのうち反対に座った上司と話を始めて、お酌の必要もなくなった私は、自分の料理を食べ始めた。

 一応転入者である私は、座を一通り廻って、支店長をはじめ上司の上の順からお酌をした。お酒の席で、酒が強いとアピールする女性がよくいるが、私はそういうことをしないので、酒が好きではないと思われている。お酒の強い人は、たいていおじさんの受けが良いが、私はお酒は好きだけれどもそういうアピールはしたことがなかった。上司の受けを良くしたいなんて思わなかったのと、職場の上司と飲んでもちっとも楽しくなかったこと、宴会という場が苦手だからだ。若い子でなんの抵抗もなくおじさんと話ができる人を、うらやましいと思う。私はこういう場になると、てんでだめだ。おじさん向けの話題、例えば野球とかサッカーとか政治とか、それから職場の上司の悪口やら愚痴やら、そういうことにまったく興味がないのだ。かといって、自分のプライベートを話すのも嫌いなのだ。彼がいるくせに、いい人紹介してくださいよ~、と調子よくいう人もいるが、そんなことも絶対に言わない。会社の人に紹介してもらうなんて、考えただけでも嫌だ。

 次の日から、彼は私と同じ事務所に、出勤してきた。営業だったので、よく外に出てしまうが、私がその事務所でいちばん年下の女子社員だったので、朝の始業前や営業から戻ってきたときなど、コーヒーを入れたりしていた。たいてい彼は、あまり無駄口や調子のいいおしゃべりはせず、もくもくと仕事をした。そのため彼のまわりは一見近づきがたいオーラが漂っているように見えた。

 もともと男性社員と話をするのが苦手な私は、彼に近づくときはいつも、軽い緊張を伴った。人を近づけないオーラを放っていることと、仕事が出来ると評判の人だったので、私からは遠い存在に思えたのだった。それに私も、自分から調子よく話し掛けることができなかった。最初の数ヶ月、ほとんどまともに口を利いたことがなかった。朝顔を見たときの、おはようございます、や、お茶を入れるときの、失礼します、など、最低限の会話だった。

 ある日、職場で新しいプロジェクトを立ち上げるという話になった。立ち上げると言っても試験的な段階で、当初は2名の体制で始めることとなった。その2名のうちの一人が彼だった。それほど多くない支店の人員からは2名がやっとのようだが、雑務を含めて2名ではきついというので、私はそのメンバーではないけれど、忙しいときは雑用を手伝うことになっていた。それからは、必然的に彼と接する機会が多くなった。彼らが外に出ているときの電話受け継ぎ、資料作りその他雑務という内容だったけれど、毎日何かしらの連絡事項や引継ぎがあり、当然話す機会も多くなった。私の持っていた適度な緊張感は、毎日の雑務を通しての接触で薄れていくものと思っていたが、逆に余計に緊張するばかりだった。今まで部外者の目で、挨拶程度の会話しかしなかったが、この人にできないと思われたくないという一心から、たとえ雑務でもきちんとした仕事をしなければという気持が強くなった。以前より身近に見る彼の仕事振りは、確かに他の社員と違った面も多かった。特に対人関係という面で見ると、彼は保身ということをまったくしなかった。相手が誰であろうとそれが正論であれば真正面からぶつかっていくのだった。問題点はそれが微妙な人間関係が絡んでいてもきっぱりと指摘した。それによって自分の出世や社内の風評が悪くなるということは、一切構わないようだった。あくまで仕事は仕事で、合理的に、情けをかけずに仕事を進めていくのが、彼のやり方だった。そのため社内の人には、彼を協調性の無い奴という人もいた。けれども彼の口から、上司や部下の悪口を聞いたことがなかった。また直接仕事とは関係ないような、所謂ゴシップ的な内容の他人の話も、聞いたことがなかった。そして、仕事の出来ない人にありがちな、自分の能力のなさを環境や他人の所為にすることは勿論、どうってことない仕事の愚痴などの類も、一切聞いたことがなかった。私はそういう姿勢を、他の人達とは違って、好ましいと感じていたが、そういう話を一切しないということは、それは職場においてほとんど話すことがないのと一緒だった。それで、身近な場所にいるようになっても、結局、純粋な業務の話や挨拶程度の会話しか、することはなかった。

 それなのに私は、日に日に彼のことが気になって仕方がなくなった。外回りに出てしまうと、何時になったら帰って来るのだろうといつも時間が気になった。私が退社する前に帰って来ると、顔を見れたことにほっとした。奥様も仕事をされているようなので、たまに家庭の事情で仕事を休むときがあった。そんなときは、あんなに無口で無表情な彼でも、実は家庭思いの一児の父親なんだと思ったりした。仕事で頼まれごとをされると、嬉しいと思う気持が強くなり、急いで仕事を片付けた。それがたまに残業にまで及んで残ることがあったが、業務時間より人の減った事務所で彼と一緒に仕事ができるのは、密かな楽しみとなるようになった。支店内の誰にも気付かれてはいなかったと思うが、私は自分の離れた席から彼の動向を目で追うようになっていた。でも決して、彼と目線がぶつかることはなかった。そうならないように、慎重に見つめていたからだった。その頃には、犬が飼い主の足音を遠くから聞き分けるように、外回りから帰ってくる、彼の廊下を歩く足音で、帰ったことを敏感に察知できるようになっていた。朝出勤してくるときも、大抵私のほうが早いのだが、ときどき駅で鉢合わせになることがあった。その時間では業務前の雑務をしなくてはならない私には遅いのだが、遅れてはいけないと思いつつ、もしかしたら一緒になるかもと思ったりした。私はそういう心理状態になっている自分を、まるで中学生の頃の恋愛のように感じた。片思いだった男の子の、後をひっそりとつけているような、そんな感覚だと思い、少々恥ずかしくなった。けれども、私のこの気持を知っている人は誰もいない。そのことが唯一の救いだと思った。

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