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『ロバート・アルドリッチ大全』(国書刊行会/二〇一二年十二月刊/宮本高晴・訳)

 本書の「訳者あとがき」には、こうあります。

P.555
 本書では「生涯と仕事」に次いで「全作品」を配して中心に据え、作品論にあたる「作品世界」をそのあとにつづけたが、原著では順序が逆、「生涯と仕事」のあとに「作品世界」そして「全作品」とつづいていた。本書の「全作品」では【...】それぞれの作品に桑野仁氏による日本版解説を付し、読者の便宜を図った。【...】

 この順番の入れ替えによって、原著では「生涯を概観するイントロ‐本体としての個々の作品を超えた主題論的な評論‐巻末付録のフィルモグラフィ」という構成だったのが、日本版ではフィルモグラフィ自体が(桑野仁氏による気合の入った解説の力もありますが)本体となり、評論部分は補足的な印象になりました。
 そのフィルモグラフィに付されたあらすじを読むと、どの作品もずいぶん不自然なプロットだなあ、と感じます。でも、その映画を観たときの記憶をたどると、まったくそんなことはありません。これは、アルドリッチ監督の映画が登場人物の(そして引いては観客の)「心理」ではなく「感情」に根差しており、「本体」とか「中心」と言ってみてもそれはこの本の中のことであって、本当の中心は映画を観ること自体にあるという、当たり前のことを示しているのだと思います。
 いずれにしても、この構成の変更によって本書は原著以上に、アルドリッチ監督が何をどう撮ったかということに劣らず、撮り続けるためにどう苦闘したかを浮かび上がらせ、そしてその側面における軌跡もまた彼の個性と才能に見合ったものであることは当然なのですが、同時にそれは彼が1918年のアメリカに生まれたことと強く結びついています。
 そこで、「1918年にアメリカに生まれて映画監督になること」はどういうことかを実感すべく、アルドリッチ監督とほぼ同世代(±5歳以内)の監督たちの略歴をまとめてみました。
(いささかくどい言い訳:主にキネマ旬報増刊1975年12月21日号「世界映画人名事典 監督(外国)編」とIMDbを参考にしました。それぞれが撮った作品の優劣やジャンル、傾向には踏み込まず、映画監督になった経緯とその後の活動を「外形的」にまとめましたが、記述内容の取捨選択はあまり統一されていません。触れるべき点に触れていないとか、記述が厳密さを欠くとか、参照した英文バイオグラフィを誤読した間違いなどもあろうかと思います。また、やたらに関わった映画の本数を挙げましたが、数え違いはもとより、クレジットされなかった作品をカウントするかなど諸々の判断はかなりテキトーです。まあ、大きくは違わないということで御容赦いただきたく思います) 

●1913年生まれ
フランク・タシュリン 28年ニューヨークでマックス・フライシャーの雑用係となる。33年ハリウッドへ。いくつかの製作会社でアニメイター・アニメ監督・ギャグマン・脚本家を務め、52年監督デビュー。68年まで22本の映画を監督(そのうち15本では脚本も担当)。72年没。
メルヴィン・フランク 大学在学中よりノーマン・パナマと共同で戯曲を書き、38年パナマとともにハリウッドへ。ラジオ台本の仕事を経て42年から48年までにパナマとともに13本の映画で脚本参加。50年パナマと共同で監督デビュー。88年に没するまで17本の映画を監督(そのうち56年までの7本はパナマと共同監督)。
スタンリー・クレイマー 33年大学の同人誌に載せた文章が20世紀フォックスのスカウトの目に留まり同社の脚本家研究生になるが、企画は通らず小道具部の掃除係に回され一年で辞める。MGMに移り編集助手を務めラジオ台本を書く。41、42年アルバート・リューインのもとで2本の映画で製作助手。第二次世界大戦で陸軍通信隊に入隊、戦意高揚映画を監督、ラジオ台本を書く。除隊後の47年自らの独立プロダクションを設立、16本の映画を製作した後、55年監督デビュー。79年まで19本の映画を監督(そのうち70年代の4本はTV用映画)。2001年没。
ラッセル・ラウズ 父は映画初期の助監督。パラマウントの小道具係、MGMのスクリプト・マネジャーを経て42年から5本の映画の脚本を書き、51年監督デビュー。67年まで10本の映画を監督。87年没。
マーク・ロブソン(カナダ生まれだがカリフォルニア大学に進学) 32年20世紀フォックスに小道具係として入社。35年からRKOで数多くの映画に編集として参加。43年監督デビュー。78年に没するまで33本の映画を監督(最初の5本はRKO、また49年にはスタンリー・クレイマー・プロで2本監督している)。 

●1914年生まれ
マーティン・リット 大学時代に演劇に興味を持ちエリア・カザンの指導を受ける。37年ブロードウェイの舞台に出演。第二次大戦中は陸軍航空隊に入隊。兵役中も特別許可を得て舞台、映画に出演した。戦後、多くの舞台を演出、TVシリーズの製作・演出も手がけるようになるが、非米活動委員会のブラックリストに載ってTVの仕事ができなくなりアクターズ・スタジオで演技を教えた。56年復帰、57年映画監督デビュー。58年以降は劇場映画に専念する。90年に没するまで26本の映画を監督。
ノーマン・パナマ 52年の監督デビューまでの経緯はメルヴィン・フランクに同じ。77年まで15本の映画を監督(70年代の2本はTV用映画)。2003年没。
ウィリアム・キャッスル ブロードウェイで俳優、演出助手を経験後、37年俳優としてハリウッドへ。40年からコロンビアで数本の映画のダイアローグ・ディレクターを務め、43年監督デビュー。77年に没するまで56本の映画を監督。
ロバート・ワイズ カレッジ卒業後、33年兄が働いていたRKOに入社。音響編集、編集助手を経て、39年から43年まで12本の映画の編集を担当。44年監督デビュー。2000年まで40本の映画を監督(最後の1本はTV用映画)。2005年没。
サイ・エンドフィールド 演劇教師、演劇プロデューサー、ラジオ脚本家を経て(手品の名人だった彼はマジックショップでオーソン・ウェルズあるいはそのマネジャーでプロデューサーのジャック・モスと出会い、雑役係としてマーキュリー劇団に雇われ、『偉大なるアンバーソン家の人々』の製作現場に出入りしていたらしい)、42年からMGMで8本の短編映画を監督。46年長編映画を初監督。71年まで22本の映画を監督(非米活動委員会に眼をつけられ53年以降は英国で活動)。95年没。 

●1915年生まれ
オーソン・ウェルズ 舞台俳優、演出家として注目されだした37年、マーキュリー劇団を結成、同時に劇団を率いてCBSラジオに番組を持つ。38年放送劇「宇宙戦争」がセンセイショナルな話題となり、これに眼をつけて監督を打診してきたRKOで41年監督デビュー。監督として完成にこぎつけた長編映画は13本(だと思う)。85年没。
ウィリアム・ウィットニー 33年マスコット・ピクチュアズに入り製作進行、助監督などを務め、35年マスコットがその他の小スタジオと合併してリパブリックとなったあとも編集、スクリプト監修などを経て37年(満21歳、ハリウッド史上最も若くして)監督デビュー。82年まで94本の映画を監督(そのうち4本はTV用映画)。ほかに50年代60年代には多数のTVシリーズの演出も手がけた。2002年没。 

●1916年生まれ
ロバート・パリッシュ 27年から38年まで端役ながら数十本の映画に出演。その間33年RKOに入り編集助手、助監督などを務める。その後複数の製作会社にわたる10本ほどの映画(ドキュメンタリーも含む)で編集を担当し、51年監督デビュー。83年まで19本の映画を監督(最後の作品はベルトラン・タヴェルニエと共同監督したインディペンデントのドキュメンタリー)。95年没。
アーウィン・アレン 大学卒業後、雑誌編集者、ラジオ・プロデューサー、広告代理店社主を経て、50年代に映画界へ。RKOと組んで5本の映画で製作を務め、56年監督デビュー。82年まで9本の映画を監督(3本はTV用映画、また64年から70年はいくつかのTVシリーズのプロデュースにほとんど専念)。91年没。
バッド・ベティカー カルヴァー陸軍士官学校および大学を卒業後メキシコで闘牛士に。士官学校の学友だったハル・ローチ・ジュニアから映画関係の仕事を紹介されていたが、とりわけ41年ルーベン・マムーリアン監督の『血と砂』の技術顧問を務めて以降映画界に深入りしていく。ハル・ローチ・スタジオとコロンビアで6本の映画の助監督を務め44年監督デビュー。85年まで33本の映画を監督(最後の2本はドキュメンタリー)。ほかに50年代60年代には多数のTVシリーズの演出も手がけた。2001年没。
ラルフ・ネルソン 33年から8年間俳優生活を送る。第二次大戦では陸軍航空隊に入るが、そのあいだもいくつかの舞台に出演し戯曲を書きはじめる。48年以降多数のTVシリーズで演出を手がける。62年、自身が56年に演出したTVシリーズのエピソード「Requiem for a Heavyweight」の映画化で監督デビュー。79年まで21本の映画を監督(最後の4本を含む5本はTV用映画)。87年没。
ジョージ・シドニー 芸能人でMGM副社長だった父と女優の母のあいだに生まれる。32年MGM入社。36年以降20本ほどの短編映画を監督して41年長編監督デビュー。67年まで30本の映画を監督(1本はTV用映画)。2002年没。
ジャック・アーノルド ヴォードヴィル・ダンサーから35年ブロードウェイの舞台に出演。第二次大戦時は陸軍航空隊に入隊。戦後、軍関係を含む多数のドキュメンタリーを製作、監督。53年ユニヴァーサルで監督デビュー。80年まで30本の映画を監督(4本はTV用映画)。キャリア全体を通して多くのTVシリーズを製作、演出した。92年没。
リチャード・フライシャー マックス・フライシャーの息子。舞台演出家を経て42年RKOパテに入社。ニュース映画の助手から短編ドキュメンタリーの製作、脚本、監督をするようになり、46年長編監督デビュー。87年まで46本の映画を監督。2006年没。 

●1917年生まれ
メルヴィル・シェイヴルソン 37年大学卒業後ラジオ脚本家となる。翌年ラジオの「ボブ・ホープ・ショウ」の専属ライターになり、43年ハリウッドへ。20本ほどの映画に脚本参加、55年監督デビュー。85年まで19本の映画を監督(72年以降の8本のうち7本はTV用映画)。2007年没。
ジョン・ベリー 幼い頃から子役としてヴォードヴィルなどに出演、演劇活動を続けるうちに36年オーソン・ウェルズの「ジュリアス・シーザー」公演に参加、マーキュリー劇団の一員となる。43年スカウトされてパラマウントと契約。数本の短編映画を監督する。46年長編監督デビュー。99年に没するまで24本の映画を監督(4本はTV用映画。52年赤狩りを避けて渡仏、66年以降は再びアメリカでも撮っているが、最後の2本は米ソ合作と南ア・仏合作である)。 

●1918年生まれ
ハーバート・L・ストロック 20世紀フォックスのニュース映画班、第二次大戦中は陸軍の撮影隊に所属、戦後、MGMの編集助手を経て、50年頃からTVシリーズの製作、編集、演出を手がける。54年監督デビュー。80年まで12本の映画を監督。60年までは多数のTVシリーズの演出も手がけた。2005年没。
テッド・ポスト カレッジ中退後、映画館の案内係をしていたが、やがて巡業劇団に参加。第二次大戦で砲兵隊に入隊、復員後、舞台演出をしていたが、劇作家シドニー・キングズリーの推薦でTV界入り。50年頃からTVシリーズの演出を手がけ、56年監督デビュー。99年まで23本の映画を監督(そのうち10本はTV用映画、また83年まで厖大な量のTVシリーズを演出)。存命。
ロバート・アルドリッチ 銀行の社長だった叔父に紹介を頼んで41年RKOに製作事務員(使い走り)として入社。42年から52年までに30本ほどの映画の助監督を務めるがその間、45年にはRKOを離れユナイト作品が製作されていたエンタープライズ・スタジオと契約、その後フリーランスとなってメジャー各社の映画に関わる。52、53年にはTVシリーズの演出も手がける。その助監督としての手腕を評価していたハーバート・ベイカーが自分の脚本がMGMで映画化される際に推薦してくれて、53年監督デビュー。83年に没するまで30本の映画を監督。55年には自らの映画会社、アソシエイツ・アンド・アルドリッチ・カンパニーを設立。同社はその後17年間に14本の映画を製作する。 

●1919年生まれ
ポール・ボガート 第二次大戦では陸軍航空隊に入隊。44年「バークリー・マリオネッツ」の人形使いおよび役者となる。46年TVのステージマネジャー、演出助手になり、50年以降多くのTVシリーズ、TV用映画を演出する。69年劇場映画監督デビュー。95年まで主にTV演出家として活動。8本の劇場映画を監督。2012年没。
ノーマン・トーカー 俳優としてブロードウェイの舞台に立ったりラジオドラマに出演したりしていたが、第二次大戦で陸軍に応召。復員後TVのプロデューサー、演出家に転じる。61年ウォルト・ディズニー・プロと契約、監督デビュー。79年に没するまで16本の劇場映画を監督(そのうち15本はディズニー映画)。 

●1920年生まれ
デルバート・マン 大学卒業後、第二次大戦で陸軍航空隊に入隊、復員後、巡業劇団のステージ・マネジャー、地方劇場の舞台監督を経て、49年TVの演出助手、まもなくTVシリーズの演出家となる。55年ヘクト=ランカスター・プロによるTVドラマ「マーティ」の映画化で劇場映画監督デビュー。94年まで主にTV演出家として活動。19本の劇場映画を監督。2007年没。
フランクリン・J・シャフナー(宣教師だった父が布教活動していた日本で生まれたが父の死に伴い六歳で米国へ) カレッジ卒業後、第二次大戦で海軍に入隊、復員後、俳優志望からTV演出家に。49年以降多くのTVシリーズ、TV用映画を演出する。62年映画監督デビュー。68年以降は劇場映画に専念。89年に没するまで15本の劇場映画を監督。
アンドリュー・V・マクラグレン(ロンドン生まれだが五歳で渡米) 俳優ヴィクター・マクラグレンの息子。ハイスクール時代に16ミリ映画を撮る。40年ロッキード社に入社するが、44年映画界へ。45年から55年まで14本の映画で助監督を務める(そのうち7本はジョン・ウェインが製作に関わっている)。56年監督デビュー(同年TVシリーズの演出も手がけはじめる)。91年まで28本の劇場映画を監督。存命。
ハイ・アヴァーバック 第二次大戦中、日本側の「東京ローズ」に対抗して米軍が太平洋地域でラジオ放送した「東京モーズ」の声を務める。戦後も「ボブ・ホープ・ショウ」の司会などラジオで活躍し、50年代初頭からTV演出家に(この時期よりTVシリーズおよび映画への出演も)。66年劇場映画監督デビュー。86年まで主にTV演出家として活動。6本の劇場映画を監督。97年没。
リチャード・クワイン 31年に子役としてブロードウェイの舞台に立ち、33年からは映画出演も。第二次大戦中は沿岸警備隊に所属。戦後も俳優を続け、48年コロンビアでウィリアム・アッシャーとの共同で監督デビュー。その後3本の短編喜劇映画を撮り51年より本格的な監督活動に。80年まで31本の長編劇場映画を監督(50年代前半と73年以降はTV演出も手がけている)。89年没。
ジョージ・シェイファー 第二次大戦では陸軍に入隊し、演劇の兵士慰問公演の演出をする。45年20世紀フォックスで2本の映画の助監督につく。50年代前半から多数のTV用映画を演出。69年劇場映画監督デビュー。97年に没するまで主にTV用映画を演出。5本の劇場映画を監督。 

●1921年生まれ
ウィリアム・アッシャー 映画製作者E・M・アッシャーと女優リリアン・ボナーの息子。第二次大戦では陸軍通信隊に入隊。戦後、ユニヴァーサル・スタジオの郵便室で働く。48年コロンビアでリチャード・クワインとの共同で監督デビュー。50年代初頭からはTVシリーズの演出を手がける。90年まで主にTV演出家として活動。13本の劇場映画を監督。2012年没。
ジョージ・ロイ・ヒル 大学卒業後、第二次大戦で海兵隊に入隊。戦後、音楽と文学を学ぶためダブリンへ留学、そこでいくつかの劇団で舞台に立つ。帰国して舞台俳優を続けるが、50年朝鮮戦争勃発で再び海兵隊に入隊。夜間爆撃機のパイロットをしながらその体験を生かしてTVの脚本を書く。除隊後、TVの脚本・演出、ブロードウェイの舞台演出をし、62年かつて舞台演出を手がけたこともあるテネシー・ウィリアムズの戯曲「Period of Adjustment」の映画化で監督デビュー。88年まで14本の映画を監督。2002年没。 

●1922年生まれ
ウォルター・グローマン 父は映画館チェーンの興行主。第二次大戦では陸軍航空隊でB-25のパイロット。撮影所の宣伝係を経て、TVのショウ番組のディレクターを務め、57年監督デビュー。96年まで主にTV演出家として活動。6本の劇場映画を監督。存命。
ラス・メイヤー 警察官の父と看護婦の母のあいだに生まれる。少年時代から何本かのアマチュア映画を撮る。第二次大戦では陸軍通信隊の映画キャメラマン募集に応じて入隊、ヨーロッパ戦線の戦闘場面を撮影。除隊後、ピンナップ写真のカメラマンとなる。54年出身地であるオークランドのバーレスク劇場のショウを撮った短編を撮影・監督。本格的な映画監督デビューは59年。79年まで23本の長編映画を監督(ただし2001年に1本ヴィデオ・ドキュメンタリーがある)。2004年没。
ドン・ワイズ 南カリフォルニア大学で映画を学んだ後、ワーナーで使い走りをする。第二次大戦中は陸軍航空隊の撮影隊で新兵の訓練映画の製作に関わる。戦後、エンタープライズ・スタジオで14本の映画のダイアローグ・ディレクターやスクリプト監修を務め、51年MGMと契約、1本の短編映画を監督したあと同年長編監督デビュー。54年以降はTVシリーズ、TV用映画の演出が主となり90年まで活動。21本の劇場映画を監督。2000年没。
バズ・キューリック 大学在学中に第二次大戦で陸軍に入隊。除隊後の46年広告代理店に入りTVコマーシャルの製作・監督をするようになり、50年からTVシリーズ、TV用映画を演出する。61年劇場映画監督デビュー。92年まで主にTV演出家として活動。8本の劇場映画を監督。99年没。
ブレイク・エドワーズ 義父は映画のプロダクション・マネジャー、そのまた父はサイレント時代の映画監督だった。ハイスクール卒業後、第二次大戦中の沿岸警備隊勤務中より数本の映画に端役出演。48年レスリー・セランダー監督の『Panhandle』で製作・脚本・出演を務め、以後映画の脚本、52年からはTVシリーズの脚本も手がけ、54年にはTV用映画を監督、55年自らの脚本で劇場映画監督デビュー。95年まで劇場映画、TVシリーズ、TV用映画の製作・脚本・監督を担当。37本の劇場映画を監督。2010年没。
バート・ケネディ ヴォードヴィリアンの両親のもとに生まれ、幼い頃から「踊るケネディ一家」の一員として舞台に立つ。第二次大戦中は陸軍機甲師団に所属。戦後、劇団に参加するがうまく行かず、ラジオの台本を書くようになる。その後ジョン・ウェインのバトジャク・プロが企画していたTV番組の台本を書く。番組は製作されなかったが、引き続き同プロに脚本参加し、56年から60年まで9本の映画の脚本を担当。61年自らの脚本で監督デビュー。これが不評だったせいもあり、62年からはTVシリーズの脚本・演出も手がける。2001年に没するまで多くの劇場映画、TVシリーズ、TV用映画の製作・脚本・監督を担当。21本の劇場映画を監督。
バート・I・ゴードン 十三歳の誕生日に叔母からプレゼントされた16ミリキャメラでホームムーヴィーを撮り始める。カレッジ在学中に第二次大戦で陸軍航空隊に入隊。戦後はTVコマーシャルの製作に携わる。54年トム・グライスの初監督作『Serpent Island』の撮影・編集を担当し、55年自らの原案・製作(脚本はトム・グライス)で監督デビュー。90年まで、しばしば脚本・製作・撮影・特殊効果まで兼務しながら22本の映画を監督(1本はTV用映画)。存命。
アーサー・ペン ハイスクール卒業後、アマチュア劇団に参加したり、ローカル局のラジオドラマに出演。第二次大戦で陸軍に在籍中もアマチュア劇団を組織(このときに演劇プロデューサー、フレッド・コウの知遇を得る)。46年除隊後、イタリアに渡り帰国後の53年TVシリーズの演出家となる。フレッド・コウの製作により58年劇場映画監督デビュー。96年まで14本の劇場映画を監督(2本はTV用映画)。2010年没。
ラモント・ジョンソン 第二次大戦では健康上の理由により兵役を免除されるが、USO(米軍慰問団)でヨーロッパ戦線の公演に参加。43年以降、俳優としてラジオやTVに出演、舞台演出も手がける一方、50年代からは映画に端役出演も。55年からはTVシリーズの演出もするようになり、67年劇場映画監督デビュー。2000年まで主にTV演出家として活動。13本の劇場映画を監督。2010年没。
ホール・バートレット イェール大学演劇科卒。42年から47年まで海軍予備役。48年から数本の映画に端役出演。52年にホール・バートレット・プロを設立、2本の映画を製作した後、55年自らの製作・脚本で監督デビュー。83年まで10本の映画を監督(1本はTV用映画。すべて製作・脚本を兼ねる)。93年没。
トム・グライス 大学卒業後、第二次大戦で海兵隊に入隊。除隊後は業界紙の記者を経てタレントエイジェントになりカーク・ダグラスを売り出した縁で47年、スタンリー・クレイマーのもとで宣伝係と脚本の手伝いに。やがて映画の製作、映画およびTVシリーズの脚本を担当するようになり、54年自らの脚本で監督デビュー。55年以降はTVシリーズ、TV用映画の演出も手がける。77年に没するまで14本の劇場映画を監督。 

●1923年生まれ
ラリー・ブキャナン ハイスクール卒業後、十八歳で20世紀フォックスの小道具係見習いになる。第二次大戦で入隊した陸軍通信隊で映画作りを学ぶ。除隊後フォックスに戻り俳優として契約。数本の映画に出演した後、50年に2本の映画の助監督を務めTVシリーズの脚本を書き、51年自分で製作・脚本・出演・編集した短編映画を監督。さらに52年自らの製作・脚本により長編映画監督デビュー。2004年に没するまで28本の映画を監督(そのうち8本はTV用映画)。
フィルダー・クック 大学卒業後、第二次大戦で海軍に応召、復員後イギリスに留学して演劇を学ぶ。帰国後の48年、広告代理店のTV部に勤め、50年TV演出家に転進。56年劇場映画監督デビュー。97年まで主にTV演出家として活動。8本の劇場映画を監督。2003年没。
アーヴィン・カーシュナー 第二次大戦で陸軍航空隊に入隊、除隊後、南カリフォルニア大学で映画を学び、デザイナー・写真家として広告業界へ。50年米国務省情報局のために中東でドキュメンタリー映画を製作、帰国後はTVドキュメンタリーのキャメラマンとなる。58年監督デビュー。同時期にTV用映画、TVシリーズの演出も手がけるようになる。90年まで15本の劇場映画を監督。2010年没。
ボリス・セイガル(ウクライナ生まれだが七歳で渡米) ハイスクール卒業後、第二次大戦中は合衆国商船隊に乗り組む。大学進学の後、50年オフ・ブロードウェイの舞台を演出、55年以降TV用映画、TVシリーズの演出を手がける。62年劇場映画監督デビュー。81年撮影中のヘリコプター事故で没するまで11本の劇場映画を監督。

 

 仔細に見れば多少のデコボコはあるものの、以上から明らかなのは、よく言われる1950年代のスタジオ・システムの崩壊と独立プロダクションの台頭、1941年のTVの本格的な放送開始を背景に、1918年という生年が、スタジオで映画作りを身につけた世代とTV界から映画へ進出した世代の分岐点であるということです。
 そして、ロバート・アルドリッチという人は、スタジオ体験、TVドラマの演出、独立プロダクションでの仕事という1940~50年代のアメリカ映画の動向を一人で体現しているという点で、典型的なアメリカ映画監督であると同時に、きわめてユニークな存在であると言えるのではないでしょうか。 

余談:この世代のほとんどは第二次世界大戦の従軍経験がありますが、アルドリッチは1940年代前半をスタジオで過ごしました。『ロバート・アルドリッチ大全』によれば、

P.29-30
【...】いったん徴兵されはしたものの、「じつに幸運だった。一日半で陸軍航【P.30】空隊を除隊になったんだ。アメリカン・フットボールで痛めた古傷のおかげだった」。【...】

さすが、Robert "Mean Machine" Aldrich!

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