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ねずさんのひとりごと 君が代のお話

2014年03月27日 11時23分58秒 | 色んな情報

ねずさんのひとりごと 君が代のお話
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「君が代」は天皇崇拝の軍国主義賛美の歌だと言う人がいますが、じつに程度の低い話です。
そもそも「君が代」は、戦前からのわずか7〜80年の歴史の歌ではありません。
いまから千年以上もの歴史のある歌です。
よくもまあ、軍国主義の歌だとか、デタラメなことを言えたものです。

「君が代」の文字としての初出は、平安時代初期の延喜5年(905年)です。
この年に編纂された「古今和歌集」の巻7に、「賀歌」の代表作として納められています。

「古今和歌集」は、醍醐天皇の勅命によって編纂された勅撰和歌集です。
いまでいったら日本政府そのものが編纂した公的歌集で、万葉の時代から撰者たちの時代までの140年間の代表的作品を集めたものです。
序文はカナで書かれていて、その執筆者は紀貫之(きのつらゆき)です。
その中に「読み人知らず」として掲載されているということは、すでにこの時点で多くの人に愛された歌だったことを示しています。

後年に書かれた「枕草子」によると、平安貴族たちにとって「古今和歌集」の暗唱は、常識だったのだそうで、その「古今和歌集」で、お祝いの歌の代表作として紹介されたのが、「君が代」です。
つまり「君が代」は、貴族たちの慶賀の歌としても、常識歌だったわけです。

それだけではありません。
「君が代」は、その後に編纂された「新撰和歌集」や「和漢朗詠集」にも転載されています。
つまり、そうしなければならないほど、いまから千年もの昔から多くの人々に愛された歌であったということです。

ではなぜ「君が代」は、そんなに素晴らしい歌とされたのでしょうか。
理由のひとつに「君(きみ)」があります。

「君」は君主をあらわすという人がいますが、それは間違いです。
漢字の「君」は、「口」ヘンと「尹(イン)」を組み合わせた文字ですが、「尹(イン)は、「手」に「|」(つえ)を持っている姿です。
これは「聖職者」をあらわします。
「口」は、その聖職者が口を開けて、何かを説いている姿です。

つまり「君」という字は、会意形成文字で、高貴な人をあらわす文字です。
読みは「クン」です。

「君主(クンシュ)」となると「高貴な人=君(きみ)の主人」なので、それだけ偉い人です。
「君子(クンシ)」は、その高貴な人の子と、ちょっと謙遜がはいります。

つまり「君」という字は、高貴な人であり、だからこそ、源氏物語は朝顔の君や、藤袴の君など、美しい女性たちに「君」の尊称をつけています。
「君」が天皇をあらわすというのなら、源氏物語の女性たちは全員、天皇ということになってしまう。

その「君(クン)」という漢字に、古代の日本人は、もとからの日本語にある「きみ」という読みを当てました。
「君が代」の「きみ」です。
その「きみ」とは、どういう意味の言葉なのでしょうか。

実は、古代日本語で「き」は男性、「み」は女性をあらわす言葉なのです。
日本神話に登場する最初の男女神は、イザナ「キ」、イザナ「ミ」であり、「おきな=翁」「おみな=嫗」という言葉もあります。

イザナキ、イザナミ以前の神々は性別がなく、日本の神々で最初に性別を持った神として登場するのが、イザナキ、イザナミです。

その最初の男女神は、イザナキ、つまり「いざなう男」、イザナミ「いざなう女」として登場します。
「いざなう」は、漢字で書けば「誘う(いざなう、さそう)」です。
つまりイザナキ、イザナミの物語は、誘(さそ)いあう男女の物語でもあるわけです。

二人は天つ御柱で出会い、
キ「我、成り成りて、成り余るところあり」
ミ「我、成り成りて、成り足らざるところあり」
と声をかけあい、互いの余っているところと、足りないところを合体させて、子を産みます。

ここで大切なことが、男女が互いに「成り成りて」というところです。
「成り」というのは、完全に、完璧に、という意味です。
その成りが二つ重なっていますから、「成り成りて」は、完全に完璧に成長したことを意味します。
完全です。何の欠点もなく完璧に、ということです。知性も肉体も、まさに完璧に成長し、成熟したのです。

ところが、完璧に成長したら、互いに「余っているところ」と「足りないところ」があった。
これは矛盾です。余ったり、足りなかったりするのは、「完全」ではないからです。
完全体になったら、完全でなくなってしまったのです。

そこで二人は互いの余っているところと、足りないところを合体させて、より完璧になろうとしました。
すると「子」が生まれたのです。

このことは、私達にとてもたいせつなことを教えてくれています。
神々でさえ、完全に完璧に成長してから、男女のまぐあいを持ったのです。
ましてや、神々の子孫である我々人間は、男女とも当然に完全に成長してから、交合するものだということを教えているからです。
つまり、親の脛かじりで、まだ勉強中の身上では、男女のまぐあいはするものではない。
もっとしっかり勉強し、体を鍛え、互いに完璧に成長してから、結婚しなさい、というわけです。

つまり「きみ」というのは、男と女、それも「成り成りた男女」をあらわします。
男女が「なりなりた」ことは、本人たちに喜びがあるだけでなく、親や親戚、教師など、周囲の者たちの喜びでもあります。
そしてまた、「完全に完璧な成長」は、尊敬の対象でもあります。
ですから「きみ」は、「完全に成熟し成長した」という、喜びの言葉であり、おめでたい、相手を敬う言葉となったのです。

従って、「きみ」は、「完全に完璧に成長した男女の喜びであり、尊敬し敬愛する人の喜びであり、「きみが代」は、その「愛し尊敬する人の時代」という意味となります。

その「愛し尊敬する人の代」が、「千代に八千代に」と続くのです。

ここまでだけでも、「君が代」とその背景となっている日本文化の素晴らしさがあるのですが、歌はさらに「さざれ石の巌となりて」と続きます。

「さざれ石」というのは、正式名称を「礫岩(れきがん)」といいます。
細かな石が長い年月をかけて固まって巌となった岩石です。

実はこの「礫岩」、日本列島が生成されたことによって生まれた、日本ならではの地勢が生んだ岩石です。

どういうことかというと、日本列島の周辺には、大陸間のプレートがあります。
よく地震が起きる原因となっているといわれている、あの地底プレートです。

そこでは、片方の大陸のプレートが地底に沈み、もう片方の大陸プレートが隆起をしています。
互いに押し合いへしあいしている場所ですから、当然、そこは傾斜しています。
その傾斜地に、プレートで運ばれてた小石が堆積する。
そして何万年という長い年月が経つ。
堆積した小石は、大陸プレートのものすごい圧力に押されて、石と石がくっついていきます。
そして大きなかたまりの岩石になる。
やがてその傾斜地が地殻変動で隆起し、地上に出て山脈となります。
その山脈で見つかるのが、礫岩、すなわち「さざれ石」です。

まさに「さざれ石の巌と」なることは、それこそ何千年、何万年という、とほうもなく長い年月を必要とします。
昔の人が、そんな地学の知識をもっていたかはわかりませんが、ただ、礫岩を見て、長い年月をかけた自然の偉大な力には畏怖を感じたことでしょう。

同時に、とほうもない、何百年、何千年、何万年という寿命は、人間にはありません。
にもかかわらずさざれ石が巌になるまでというとほうもない年月、互いに協力しあうということは、何を意味しているのでしょうか。

ここにも深い意味があります。
日本では古来、人は生まれ変わるものと信じられてきました。
肉体は老い、死を迎えても、魂は再び人となってこの世に生まれる。

つまり、「さざれ石の巌となりて」は、「生まれ変わって何度でも」という意味としてもとらえることができます。

そして忘れてならないのは、さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となっているという点です。
ひとつひとつは小さな小石でも、大きな力でみんなで団結したら、それは大きな「巌」となる。
つまりさざれ石は、「きみ=男女」の結束、そして生まれて来る子供達や新たに親戚となる者たちなど、そのすべての人々が、大きな力のもとで固く固く団結しあい、協力しあうことの象徴でもあります。

そして最後に「君が代」は、「苔のむすまで」と締めています。

苔は、冷えきったり乾燥しているところには生えません。
濡れていて、水はけの良いところに生育します。カビとは違うのです。
つまり、濡れたものと、固いものがしっかりと結びついたところに苔は生えます。

すなわち「苔」は、「きみ=男女」が、互いにしっかりと結びつき、一緒になって汗を流し、涙を流し、互いにしっかりと協力しあい、長い年月をかけて生育する。
それは、男女のいつくしみと協力を意味します。

ですから君が代は、

「きみ」=完璧に成長した男女が、
「代」=時代を越えて
「千代に八千代に」=永遠に千年も万年も、生まれ変わってもなお、
「さざれ石の巌となりて」=結束し協力しあい、団結して
「苔のむすまで」=固い絆と信頼で結びついて行こう

そんな意味の歌である、ということになります。

戦争の象徴だとか、そんな意味ではまったくない。
人の愛と繁栄と団結を高らかに謳い上げた、祝いの歌なのです。

そんな歌が、いまから千年以上前に生まれ、たいへんにおめでたい素晴らしい歌として、勅撰和歌集にも繰り返し掲載され、江戸時代には庶民の一般的な祝いの席の謡曲として、広く普及していたのです。

千年の時を越えて、人々に祝歌として歌い継がれる歌を、我が国の国歌としているということ自体、すごいと思うし、さらにもっといえば、「きみ」の持つ深い意味と、その深い意味が千代に八千代に続く、さらに「苔のむすまで」という男女の愛に、私は、とてつもない日本文化の愛の深さと、あたたかみを感じます。

さて、君が代の歌詞のことを書きましたので、せっかくですから曲(旋律)のことも書いておこうと思います。

いま歌われている君が代の旋律ができたのは、明治の初めの頃のことです。
その頃横浜の英国大使館に、ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)という、音楽隊長がいました。

フェントンは、薩摩藩の依頼を受けて、薩摩の青年たちに吹奏楽を教えていました。
薩摩軍楽隊です。
実はこの吹奏楽団が、日本初の西洋式吹奏楽団です。

なにせ楽器といえば、お琴や三味線、和太鼓、和笛くらいしかなかった時代のことです。
言葉も通じない、五線譜も初めて目にするという日本人に、西洋式楽器の指導をされたフェントンは、さぞかしたいへんなご苦労だったことと思います。

ちなみにフェントンが教えた「薩摩軍楽隊」は、明治元年(1871年)には「日本海軍軍楽隊」へと発展し、これがいまに続く海上自衛隊吹奏楽団に至っています。

そのフェントンが大山巌に、「明治新政府になにか儀礼音楽が必要です」と進言したのが、明治2年(1872年)10月のことです。
「なるほど」とうなづいた大山巌は、数人と相談して、平素、彼自身が愛唱している「薩摩琵琶歌の蓬莱山」に引用されている「君が代」を歌詞として選び、作曲をフェントンに頼みました。

薩摩琵琶歌「蓬莱山(ほうらいさん)」は、薩摩藩でおめでたい席で歌われた定番曲で、歌詞は次のようになっています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
めでたやな 
君が恵みは久方の 光り長閑き春の日に
不老門を立出で 四方の景色を詠むれば
峰の小松に雛鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ
君が代は千代に八千代に
さざれ石の、巌となりて苔のむすまで
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まさに「おめでたい」の歌です。

 


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