八ヶ岳山麓の暮らし

標高およそ1,200mの八ヶ岳山麓で、見たり聞いたり経験したことを気ままに書いています。

町内にある巨木

2017-04-28 06:28:55 | 日記
 巨木とは、地上から130cm高さの幹周りが300cm以上ある木をいう。(但し地上130cm以下で幹分かれしている場合は、それぞれ130cm高さの幹周り合計値とされている。当時の環境庁から町に調査依頼があり2000年に調べた結果、人の入らない林や山中を除き人里にある巨木として94本が確認された。

 その内訳は、ケヤキ32本、ウラジロモミ12本、スギ10本、クロベ7本、エドヒガン5本、イチョウ・アカマツ・ミズナラ各3本、ブナ・イチイ・プラタナス・ヒノキ・サイカチ各2本、その他の木が1本ずつであった。妻と見に行った、調査当時の幹周り1位から10位の樹種と所在場所を以下に記した。

 1位.神戸一里塚のケヤキ(760cm)2位.神戸八幡社のケヤキ(750cm)3位.真立寺跡のスギ(691cm)4位.三光寺のヒノキ(615cm)5位.御射山神社のサワラ(580cm)6位.神戸八幡社のケヤキ(570cm)7位.大泉水源のクロベ(550cm)8位.富士見小学校のケヤキ(488cm)9位.御射山神社のケヤキ(485cm)10位.高森諏訪社のケヤキ(482cm)

 前述の巨木94本は、町内34ヶ所の場所で見つかった。うち68本はお寺や神社の境内や森、集落の水源林内に6本、10本が二つの小学校であった。町内には比較的社寺が多く、伐採されることがなかったので巨木になり残ったと思われる。また創立100年をゆうに超える二つの小学校にある巨木も、建設時に記念樹として植えたものではなく、木の大きさからもともと建設前の林や山にあった木と考えられる。

 幹周り1位の神戸一里塚のケヤキの樹齢は、400年以上と推定されている。天下人になった徳川家康が江戸を政治の中心とするため、慶長7年(1602年)江戸と地方を結ぶ五街道を定めた。その一里ごとの目印としてケヤキやエノキなどが植えられた。このケヤキは、日本橋から甲州街道として48番目(49番目という説もあり)の塚であった。木は街道両側に植えられていたが、東塚のエノキは明治半ば頃に枯れてしまったという。甲州街道の中で現存する一里塚の象徴としては、貴重なものだそうだ。

 幹周り太さの順位は低いが、エドヒガン桜5本は同時代に植えられた枝垂れ桜で樹齢は300年に近いと推定される。このうち高森観音堂のものは茅葺屋根のお堂と調和して、見物や撮影に訪れる人が多くなった。他は別のお堂に1本、3本は墓地に植えられている。そのうち1本は、青空と白銀の八ヶ岳や南アルプスを背景に絵になる光景だ。

 千葉市から移り住んで20年、町内の巨木が枯れたり、伐採されたというニュースはいまだ聞いたことがない。この地に暮らす人々にとって、巨木は特別な思い入れがあるように思う。
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湧水と名水

2017-04-21 06:26:33 | 日記
 湧水と名水

 何年か前、地元の知人に聞いて別荘地近辺の湧水を調べたことがある。おおまかな所在を教えてもらって出かけたが、いざ行ってみると所在がわからず近くの住民に聞いてようやく見つけた所もある。それらの湧水場所は、裂けた石の穴や木の根元から湧き出ていたり、あたり一帯から滲み出ているような湧水であった。パイプが引かれて集落の簡易水道や小学校の給食用水になっている湧水もあったが、湧水量が1日900トンという所も含め、多くは水路が引かれ農業用水として利用されている。

 私の住む町では、釜無・入笠山側と八ヶ岳南麓側に湧水場所がある。調べてみると八ヶ岳側に12ヶ所、釜無・入笠山側には9ヶ所が記載されていた。町の水道水源は釜無・入笠山側の2ヶ所になっていて、鉄条網と鉄扉で封鎖された岩穴から勢いよく水が流れ出ていてそこから水道管が引かれていた。八ヶ岳側に住む私達もその水を飲んでいるが、サントリー白州工場で「南アルプスの天然水」として売られている水と味は全く同じだった。この水は花崗岩地質によるカルシウムイオンが多く、ややアルカリ性の美味な天然水である。

 都会の人たちには美味しい水に対する憧れがあるように思う。「名水百選」とは1985年、環境庁によって制定されたが、その中にも八ヶ岳南麓と釜無・甲斐駒ケ岳山系の名水が含まれている。町と境界を接する山梨県白州町・道の駅で飲める水は釜無・甲斐駒ケ岳山系の名水である。また八ヶ岳南麓の百名水には、隣町・山梨県小淵沢町の大滝神社境内から湧き出る“大滝湧水”、同じく小淵沢町の“女取(めとり)湧水”、長坂町の“三分一(さんぶいち)湧水”がある。女取湧水は信玄棒道沿いにあり車では行けないが、そのほかの名水は気軽に飲んだり汲んでいく人も多い。

 町内にある八ヶ岳南麓の湧水は、別荘地帯を挟む標高900~1,200メールほどにある。別荘家屋による合併浄化槽からの地中浸透が気になる人には、西岳や編笠山登山ルートにある“不動清水”もある。また隣の原村別荘地より更に上の阿弥陀岳登山ルート途中には、“阿弥陀水”がある。こちらは「知る人ぞ知る」名水のようで、積雪期は大変だと思うが、車で来て幾つもの大きなポリ容器に汲みに来ている人たちがいる。おそらく喫茶店などを経営する人たちでないかと思われる。

 町の係の人に聞くと、町内の湧水は年に2回ほど水質検査をしていて、その検査結果はどれも水道の水質基準をすべての項目で満たしているという。飲んでも問題はないが、一応自己責任ということになっている。日々暮らしの中で、美味しい水を飲食に使用できるということは幸せなことだと思う。
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諏訪高嶋藩のお家騒動記 5/5

2017-04-18 06:44:53 | 日記
 5.あとがき 
 町の古文書勉強仲間と解読したものは、諏訪藩御用部屋で記録された公式文書「御一件之諸事留帳」の一部である。安永10年正月12日(1781、4月から天明に改元)から天明2年(1782)5月24日までの出来事が、どちらかいうと勝ち組・千野兵庫側を正当化する視点で日記風に書かれている。例えば千野兵庫が江戸で訴えに回っている様子、千野兵庫側の家臣たちが談合し血判して連判状に連ねた名前、江戸屋敷との慌しい行き来、忠厚の隠居願いと受理文書の写し、千野兵庫の家老復帰、諏訪大助一派の逮捕拘束と監視、新藩主のお披露目、新しい役儀任命と千野兵庫派家臣への褒美などが詳細に記載されていた。

 諏訪大助が切腹させられたのは、天明3年(1783)7月、享年39歳であった。「湖水忠臣船」には諏訪大助が悪事にたけた人物のように書かれているが、千野兵庫家に残されていた文書ゆえにそのようにも見える。しかし代々、藩の実権を掌握していた三の丸家に仕組まれた可能性も十分に考えられる。そう思えるのは軍次郎毒殺未遂の一件、省略して書いたがわざわざ疑われるようなことをするかという疑問と、毒菓子を持参した小者も立ち会った林平内右衛門も、千野兵庫派の人間で二人とも処罰されていない。もし忠厚の望み通り鶴蔵が世嗣ぎになれば、三の丸家の厳しい処罰や家門断絶は必定、それだけに千野兵庫の周到なはかりごとではなかったか、という推測も成り立つ。

 また諏訪忠厚を暗愚の藩主とする向きもあるが、諏訪家系譜を知ると気の毒な一面もある。先ずは、諏訪家再興当時から二人の同格家老がいたこと。次は第四代藩主忠虎の時代に、元禄大地震や江戸藩邸焼失で藩財政の窮乏が始まった。世嗣ぎが早世したため養嗣子として忠林(ただとき)を分家から迎えた。藩内では二の丸家を藩主に推する家臣も多かったが、千野家老家が反対してなれなかった。そのため藩主に収まった忠林は、千野家に平素から遠慮や好意的な対応があった。そして忠林自身、藩政はなおざりで学問や詩に心が向いていた。60歳で隠居し、17歳の四男忠厚に家督を譲った。そんな親を見て育った忠厚の心情も、お家騒動と無縁ではないと思われる。

 このような経緯や事情を考えると、諏訪図書家(初代は藩主の弟)の千野家老家に対するうっ積した不満やより上位に立ちたいという強い意識があったのは当然と考えられる。なお35歳で隠居させられた忠厚に代わり、13歳で第七代藩主忠粛(ただたか)となった軍次郎は、長じて郷土の偉人坂本養川(ようせん)を登用し、用水路整備による新田開発、税制改革、製造業の奨励など藩政改革に相応の成果を挙げている。 ―終わり―
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諏訪高嶋藩のお家騒動記 4/5

2017-04-17 07:02:14 | 日記
4.仕置き(処罰)
 千野兵庫の国家老復帰により、天明2年(1782)春から関係者の吟味が始まった。証拠があっても吟味書に署名捺印しない限り処罰できなかったので、最後には拷問も行なわれた。身に覚えのない罪まで着せられた大助は最後まで拒んだが、吟味役が入れ代わり立ち代り朝十時から夜中二時ころまで眠らせない取調べに、ついに観念して署名捺印した。全員の仕置きが言い渡されたのは天明3年6月22日、切腹、打首の成敗は7月3日から5日と裁決された。敗れた諏訪大助派の仕置きは以下のように記されている。

永獄  家老 諏訪図書(家財家門へ下され置き、家内9人は志賀亘にお預け)
切腹  家老 諏訪大助(知行家財没収、妻は夫に意見などの功により家屋敷山林与え) 
打首  用人 渡辺助左衛門(知行家財没収) 
打首  近習 近藤主馬(知行家財没収)  
打首  守役 上田弥左衛門(知行家財没収)  
打首  近習 上田弥左衛門の父・上田宇右衛門
永獄     諏訪大助の嫡子・諏訪時太郎
永獄     諏訪大助の次男・諏訪鉄之助
永獄  用人 小喜多治太夫(知行家財没収、妻子共に竹内新八にお預け)
永獄     渡辺助左衛門の孫・渡辺吟之進
永獄  賄役 加藤善左衛門(家財没収、妻子は三輪甚四郎へお預け)
永獄     上田弥左衛門の嫡子・上田助之進
永獄     小平権太夫(妻子は養子喜十郎又は山中志津麿にお預け)
永獄  図書家老 白川重兵衛
座敷囲 取次役 高梨入郎左衛門(知行屋敷没収、小林甚右衛門へお預け、妻子は両角八兵衛へお預け)
座敷囲    近藤主馬の父・近藤宇左衛門(家財没収、菊池六郎左衛門へお預け、家内並びに主馬妻子共に松田宇金次へお預け)
座敷囲 用人 小喜多治右衛門(知行屋敷没収、三浦両助へお預け、妻子は立木与兵衛へお預け)
    医師 清水正監(知行没収、倅へ十人扶持下さる)
隠居     諏訪平馬(知行のうち百石取上げ、女房と共に両角十郎右衛門へお預け)
座敷囲    諏訪大助の弟・小沢家養子小沢主善
座敷囲 上社大祝 諏訪左馬之助(一家大隈殿へお預け) 

 この他に高島藩に残されていた仕置書の写しには、微罪に至るまで39名の名が記されている。以上、見出しの2~4項は、千野兵庫の子孫宅で見つかった「湖水忠臣船」を、発見した郷土史家が現代文に翻訳したものの要約である。原文の古文書は、大判和紙に110ページの長文で事件の発端から推移、結末まで書かれていた。ここではその翻訳文の要点部分を紹介した。  ―明日に続く―
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諏訪高嶋藩のお家騒動記 3/5

2017-04-16 06:56:14 | 日記
 3.お家騒動の始まりと顛末
 藩主忠厚には福山藩主の娘が輿入れしていたが、子が生まれなかった。しかし彼女は、腰元が生んだ男子・軍次郎を実子として育て後見することを約束していた。大助が失脚した頃には軍次郎は11歳になっていたが、忠厚は目にとまった近在の豪農の娘を妾とし、出生した男子・鶴蔵を殊のほか溺愛した。こうした実情をよく知っていた大助は蟄居中にもかかわらず、鶴蔵を世嗣ぎに取り立ててもらうための支度金額などを秘密裡に親元と取り決め忠厚に言上した。忠厚はこれを快諾し、鶴蔵を世嗣ぎにすることを藩重役たちに伝えた。

 これには家中みな驚いたが、千野兵庫と用人の志賀七右衛門など四人が江戸へ出府して諌めたが聞き入れなかった。それどころか四面楚歌の中、この一件で頼りにしていた蟄居中の図書と大助に江戸出府を命じた。忠厚は図書親子に先ずこう切り出した。
「余が鶴蔵を世嗣ぎに望んでおるにも拘わらず、その意にさからった兵庫と三人の用人共が諫言に来るとはまことに不届至極じゃ」

 図書と大助は内心の喜びを隠し、忠厚の怒りの火に油を注いだ。
「そもそも兵庫儀は私欲の深い者であることは、明和年中に百姓町人共から法外な諸運上金を取り立て私腹を肥やしていたことで明白、その節これといったお咎めもなく相済んだのは殿のご慈悲にも拘わらず、この度はまた殿ご寵愛の鶴蔵君をご世嗣ぎと定め、軍次郎君を他家へご養子にと仰せられる君命にさからって、出府してまで殿に諫言とはまことに不忠この上なき知れもの、きっとお咎めあって然るべきと存じ奉る」

 忠厚はさっそく諏訪へ飛脚を出して、千野兵庫に役儀取り上げ無役、蟄居して隠居を仰せ付けた。兵庫に同行した用人志賀七右衛門についても、知行減額と役儀を取り上げ蟄居を命じた。大助はこの功により江戸屋敷にとどまり、図書は意気揚々と諏訪へ帰城した。大助は守役の上田宇右衛門、近習近藤主馬、用人小喜多治右衛門、小喜多治太夫などと謀って、幕府方役人や忠厚との縁故筋に鶴蔵世嗣ぎの根回しを進めた。同時に後日の憂いを絶つ目的で、菓子に仕込んだ毒で軍次郎の毒殺を謀った。露見して失敗すると罪を千野兵庫にかぶせることにした。

「殿、このたび軍次郎君に毒菓子を届けましたる林平内右衛門は、兵庫とは同腹の仲間であることは明白、よって兵庫は小心者の平内右衛門に言い含めて毒菓子を若君に献上したのでございます。これもわれ等へ罪を着せようという悪だくみにしてなんでございましょう。さりとてこれを厳重にご詮議あらば、殿の名も公儀に聞こえ宜しからず、ここは兵庫に切腹、林平内右衛門に打首仰せ付けたまわらば、悪人どもも恐れ入って静かに収まりましょう」

 忠厚は鶴蔵に家督を譲って藩内を平静にするには、それがもっともだと考えた。高島城に飛脚を出して、兵庫に切腹、林平内右衛門に打首を申し渡した。兵庫の屋敷は諏訪図書の配下が固め、毎日対面して蟄居を確認した。兵庫は屋敷から脱出して公儀重役に真相打ち明けの機会を狙っていた。八月一日は、家僕から出入りの者まで皆に酒を振る舞う恒例の明神祭りの日であった。人混みに紛れ付き添う若党と商人に変装して脱出し、示し合わせていた郎党と和田峠で合流した。この間、兵庫の母は二日の間、見廻り役人を欺いたので、甲州街道と中山道の二手から追ったが捕まらなかった。

 昼夜分かたず急ぎに急いで江戸に着いた千野兵庫主従は、高島藩と縁組をしていた幕府重役方屋敷に訴えに回って歩いた。しかし大助による根回しと鼻薬が効いていて耳を傾けて貰えなかった。その中でも忠厚の姉や妹が輿入れし特に頼りにしていた松平和泉守、伊達和泉守両家では、平身低頭して頼んだにも関わらず素っ気なく門前払いにされた。ようやく越前少将の屋敷で訴えを聞いて貰うことができた。

 少将は大いに驚き、両和泉守に使いを出し三家で訴えを聞く機会を作ってくれた。こうして越前少将はじめ縁者の大名たちは、お家騒動を鎮めるために大助を悪臣と断じて忠厚に隠居を勧める側に回った。忠厚はあくまで鶴蔵を世嗣ぎにし、兵庫を大の不忠者として処罰することを求めて抵抗した。しかし、家中一統入れ替わり立ち代りの説得についに根負けし、公儀に隠居願いを出すことを承知してしまった。 ―明日に続く―

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