八ヶ岳山麓の暮らし

標高およそ1,200mの八ヶ岳山麓で、見たり聞いたり経験したことを気ままに書いています。

札所めぐりの旅

2016-02-26 06:57:01 | 日記
 札所というものを知ったのは、秩父地方の低山歩きをしていた時だった。当時の私は日本百名山登山を目指していて、冬場の足慣らしに池袋から出る西武池袋線を利用して低山歩きをしていた。飯能駅から先はどこで下車してもコースがあり、住んでいた千葉市から会社の休日を利用してはよく通っていた。西部秩父駅近辺のコースの中には、幾つかの秩父札所が含まれていて、休憩や昼食時、よく紅梅が満開の境内や縁側に腰掛けさせてもらったことを思い出す。白装束に杖の鈴を鳴らしながら行き会ったお遍路さんたちには、まるで絵のようで深く感銘を受けた。低山コースをほぼ歩き終えた後は、秩父札所めぐりを冬期トレーニングに含めた年もあった。

 日本百名山登頂を決心してから、17年後の1993年に全て登り終えることができた。しばらくは目標が無くなった空虚感に陥っていたが、やがて百にちなんで日本百観音霊場めぐりを思いついた。それは既に参拝を終えていた秩父札所34ヶ寺に加えて、東京都、千葉、神奈川、埼玉、群馬、栃木、茨城の一都六県にまたがる坂東札所33ヶ寺、そして大阪府、京都府、奈良、岐阜、滋賀、兵庫、和歌山の二府五県の西国札所33ヶ寺である。秩父札所と同様に、お寺の全てを写真に収め、納経帳に朱印と寺名を記してもらうことに決めてスタートした。

 坂東札所や西国札所の中には、既に観光や山歩きの際に訪れたお寺もあったが、それは別として、電車・バス・レンタサイクル・徒歩などにより秩父札所は1992年で延べ6日、坂東札所は1994年に延べ16日、西国札所は1995年に延べ11日かけて参拝したことになる。坂東札所や西国札所の参拝には、休日前の出張を利用させてもらったこともあった。更に遠距離の西国札所は、会社の夏休みを利用し西船橋から出ていた夜行バスで、紀伊田辺まで行き西国一番札所・青岸渡寺から8泊9日、テントを背負って参拝したこともあった。

 秩父札所や西国札所では、バスツアーで来た巡礼衣装の団体客が、お寺のご詠歌を詠い観音堂に参拝している間に、ガイドが集めた各人の納経帳に記載してもらっていた。さっと来てさっと次に移動、その手際の良さに驚いたりもした。中には1人で、亡くなった家族の供養を目的に続けている人もいた。納経帳の代わりに、掛け軸に記載してもらっている人もいたが、それは納経帳を屏風等に仕立ててもらうよりも、さぞかし百の観音様の御利益や信心が深まるに違いない。

 会社を早期退職して当地に移り住んだが、広い長野県を知る目的で、信濃三十三札所を車で参拝した。またシニア大学の仲間たちと諏訪三十三札所を参拝した時は、前もって電話を入れて参拝させてもらったせいか、住職や住職夫人から、境内や庭園の案内の他に、寺の歴史や宝物などの話を聞くこともできた。合わせて166のお寺に参拝したことになるが、振り返って見れば観音様にただ手を合わせることに喜びがあったように思う。その集大成は四国八十八札所めぐりに決めているが、いつどんな形で実現するだろうか。
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八ヶ岳山麓にオオカミがいた頃

2016-02-19 06:45:43 | 日記
 明治の初期まで八ヶ岳山麓には狼が出没し、人や家畜が食われる被害にあっていた。そのことは村々に残されている古文書で知ることができるが、そんな古文書のひとつに乙事村(おっことむら)の名主・五味伝兵衛が書き残した「萬年書留帳」がある。その中に寛政十一年(1799)七月十八日に起きた出来事として、村人が瀕死の重傷を負いながらも狼を退治するまでの顛末とその後日談が詳細に記されていた。子孫からその古文書を借り受けた本郷保育園長五味豊子さんが、昭和五十二年、スライドにして保育園児たちに郷土の昔話として紹介した。それがきっかけで、「信州上諏訪郡乙事次郎兵衛狼合戦」として世に知られるようになった。その紹介文を以下に掲載する。

 昔、富士見の乙事村であったお話です。朝早く次郎兵衛が、草刈りに行こうと馬の支度をしている所へ、伊右衛門と茂兵衛が馬に乗ってやって来ました。「やあ、ちょうど良かった。俺も今 草刈りに行く所だ。一緒に行こう」と歩いて行くと、垣根道の所に馬が一頭つないでありました。「吉右衛門の馬だ、吉右衛門、吉右衛門」と呼んでみたが返事がなかったので、三人はいろいろ話をしながら草刈りに急ぎました。南沢の半ばまで行くと、松兵衛が馬を引いて来て、あわてふためいて言いました。

 「後沢の橋むこうで、吉右衛門が狼に食いつかれて死にそうだ。この道は通らない方がいいぞ」これを聞いて次郎兵衛は、「吉右衛門がそんなにひどい目にあっているのに、放っておく訳にはいかない。この事が後になって知れれば、必ずお役人から罰を受けるに決まっている。たとえここにいる四人が、狼に食い殺されても、助けに行かなきゃいけねぇ。松兵衛さんは、年寄りだからこの馬を連れ帰り、多勢の応援の人を頼んでくれ」と言った。松兵衛はさっそく馬に乗り、知らせに走った。残った三人は袂の中へ石を拾いこんで、次郎兵衛を先頭に後沢に走った。松兵衛の話のとおり、吉右衛門は狼に食いつかれていた。三人は持っていた小石を、がむしゃらに投げつけた。その間に茂兵衛は、あまりの恐ろしさにどこかに逃げてしまったので、次郎兵衛と伊右衛門の二人だけになってしまいました。

 二人が持っていた石を全部投げてしまっても、狼は少しも弱らない。二人はそばの川の中に入り、小石を拾い込み、橋の上にあがってまた投げた。そのうち次郎兵衛の投げた石が真っ向から狼にあたった。「ギャオー」狼は毛を逆立てて向かって来た。次郎兵衛が橋の下に降りたので、伊右衛門に食いついた。その時次郎兵衛が大石を狼の背中に投げつけた。狼は伊右衛門を離して次郎兵衛に食いついてきた。次郎兵衛は狼に抱きついた。伊右衛門は顔に二ヶ所傷を受けたので恐ろしくて逃げ帰ってしまいました。

 次郎兵衛はどうしようかと思っていると、狼は、次郎兵衛の足の間を後ろに抜け出てしまった。その力の強いこと、何人力とも知れなかった。次郎兵衛は、左の目の下より耳まで食いちぎられながらも一生懸命に戦った。段々狼の飛びつく回数が多くなり傷も深くなった。次郎兵衛はどうかして狼を殺したいと思うが力が強いので、抱き伏せても後へ抜け出てしまう。どうせ死ぬのなら狼を殺してから死にたいと、両手を合わせて神様に祈った。「南無、諏訪大明神」と唱えながら左の手で狼を押さえ付け、右の手を狼の口の中へ突っ込み狼を組み伏せてしまいました。

 その時、次郎兵衛の兄、常右衛門が松兵衛の知らせに驚き、足も地につかないくらい走って来たが、あたりに人は誰もいない。「オーイ、誰か来てくれ!」と次郎兵衛の叫び声がした。次郎兵衛は川の中から、「狼を捕まえたぞう、誰かそばへ来て棒でたたいてくれ」常右衛門が近寄って狼めがけて棒も折れんばかりに打ち据えると、狼は死んでしまいました。そうしている所へ松兵衛の知らせを受けた村の人達が次々と駆けて来て、狼を川の中から引き出しました。次郎兵衛は食いつかれた傷口から滝のように血が流れ出て、衣服はボロボロに裂け真っ赤に血に染まり、頭には十二、三ヶ所、顔には三ヶ所、その他狼の歯の跡は数えきれない程でした。

 次郎兵衛はこの時三十二歳、体格も良く力持ちの若者であった。吉右衛門の死骸を見ると、頭には皮も肉もなく骨ばかりになっていました。殺した狼は後足を高い木に吊るし、その日はそのままにしておいた。それからお役人が人足を連れて来て、垣根道のそばに穴を掘って埋めました。 吉右衛門のお葬式は、蔦木宿の三光寺で行ない、次郎兵衛、伊右衛門の傷の手当ては上諏訪の大山了円様、甲州中郡行室の五郎兵衛から妙薬を取り寄せて行ないました。そして近村の親類や隣りの村へ狼が人を殺したことを知らせ、村の人へは山へ入らないようにお触れを出しました。次郎兵衛、伊右衛門の家へは、三十人ほどの人が棒を持って家の周りを守りました。

 それから後、他の狼が子供を連れて死んだ狼を捜し歩いているという噂が飛んだので、草刈りに行く時は五人、十人が一緒になって棒を馬に付けて行き、農作業に出る人は一人もいなかった。どうしても用事のある人は、すぐ隣りの家へでも二、三人で棒を持って行った。半年近くして次郎兵衛たちの傷がやっと治った事をお役人に申し上げると、お奉行所から次郎兵衛たちを連れてくるようにとの知らせがありました。お正月明けの言われた日にご家老の茅野兵庫様のお屋敷に行くと、皆が出迎えてくれました。そして狼退治の事を詳しく聞き、傷の跡をご覧になって、「次郎兵衛、お前は武士も及ばぬほどの立派な働きであった。刀を持っているわしらも及ばないくらいだぞ」と、褒めてくれました。次郎兵衛たちはご馳走になったり、たくさんのご褒美を頂き、有難く帰って来ました。
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俳優から仏像彫刻家へ(滝田 栄さんのこと)

2016-02-12 06:35:10 | 日記
 滝田栄さんが隣りの原村に住んでいることは、地方紙の記事に何度か出ていたので知っていた。どんな生活をしているかまでは知らなかったが、新聞に頭記講演会の案内が掲載されていた。どんな経緯から仏像彫刻家になったのだろう?大いに興味を覚えたので、妻とその講演会の申し込みをして聞きに行った。彼の著書[滝田栄、仏像を彫る]などからも補足して、以下にその講演(2013/4/21)の要旨と彼の人物像紹介を試みた。

1.信仰のあった家庭環境
 彼は、1950年、現在の千葉県印西市で、国鉄に勤める父と和裁仕立てを生業としていた母との三男として生まれた。母は心臓病を患っていて医者から出産を止めるように勧められていたが、成田山新勝寺の不動明王に願かけして彼が生まれた。滝田家では、毎朝両親が仏壇と観音菩薩像に花や水を供え、先祖供養とあの世での極楽往生を願って経を唱える習慣があった。不動明王に対しては、二十歳になったとき、母と二人でお礼参りの参拝をしている。また成田山新勝寺が設立した成田高校に進学したことも、その後の人生に何らかの影響を与えていたものと考えられる。

2.俳優の選択とスター時代
 高校卒業後は家を出て自分で生活するように、母親から自立を促されていたこともあるが、人が喜んでくれるのが嬉しかったことや同級生に俳優を勧められたこともあって、19歳の時に劇団文学座の俳優養成所に入所した。10年間はテレビや映画に出演しないで人間観察をするようにという教えを守り、アルバイトをしながら夜間大学にも通った。その間、23歳の時に劇団四季に入団。劇団四季の公演「王様の耳はロバの耳」の王様役や「シーザス・クライスト・スーパースター」のユダ役を経験して、29歳の時にNHK大河ドラマ「草燃える」に出演した。そして33歳の時に、NHK大河ドラマ「徳川家康」の家康役で出演した。その後、37歳から51歳までミュージカル「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン役を主演した。

3.座禅との出会い
 徳川家康の役創りに大変な苦労をした。徳川家康の本質を知るために、8歳からの12年間を人質として過ごした今川家の菩提寺である臨済寺(静岡市)で、しばらくの間修行僧たちと一緒の生活をさせてもらった。そこでは後に京都妙心寺官長となった倉内松堂老師からの教えや、三方ヶ原で武田信玄に大敗した後に家康が戦場で用いるようになった旗指物“厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)”という浄土宗の教えの意味を理解できたことから、家康役を演じ切ることができた。

 「レ・ミゼラブル」の主役や「料理バンザイ」の司会役で順風満帆の時代ではあったが、演劇界で魂に染み付いた汚れや精神的な疲れを洗い流したいという思いから、長野の善光寺近くにある禅寺・活禅寺を自分の座禅道場に決めて通うようになった。それは居合据物切り(いあいすえものぎり)四段という腕前を持つ彼が、そこで使う刀を打ってもらっていた故小林康弘刀匠から、活禅寺にいる和尚の法力の前では、自分が打った切れ味鋭い刀でも傷ひとつ付けることが出来なかったと聞いたことによる。その和尚・徹禅無行大師の法力は、死を宣告された病人の命をよみがえらせたり、末期がん患者の苦痛を身代わりするなど、人間の能力を超えた力を医師を交えた人々の前で何度か示現させた。

 その奇跡の示現の方法を彼が尋ねると、大師はこう答えたという。「禅のある修行の段階で、六神通という人間の力を超えた力が示現する。しかし、それは禅の通過点に過ぎず、最終の目的とは関係のないことであるから、そんなものは欲しがるな」そういう大師の姿に、全ての可能性に満ちた宇宙大の存在の魅力を感じ、それからは《万事如意》を目標に座禅を続けていると述べている。

4.インドへの修行の旅
 20年間続いていた「料理バンザイ」の突然の中止、それはメディアの悪行ともいえる過剰なまでのスポンサーメーカーへの非難報道だった。そして稽古期間も含めると15年に及ぶ「レ・ミゼラブル」での日々真剣勝負のような舞台で疲れ果てた心身。そんな折り、長年にわたり指導を受けてきた活禅寺の徹禅無行大師から、92歳で遷化する少し前に「インドには修行が早く進む聖地がある」と聞いていたので、心身のオーバーホール、自己探求、本来の自分を取り戻すことを目的に、「レ・ミゼラブル」の彼としての最後の公演を終えた翌日、インドへ旅立った。

 インドのヒンドゥ-聖者の中で、一番の法力を持つと教えられていた密教の指導者スワミ師の隠遁所に行って仏陀の教えを請うた。ヒンドゥ-の行とは、指示された真言を戒律の中で決められた回数、決められた日数内で唱え終えるものなのだそうだ。病気や大怪我、毒蛇やサソリに噛まれた人などに対するスワミ師による奇跡の示現も目のあたりにした。しかし、聖者といえども欲望を捨て切れていなかったり、法律で禁止されているにも関わらずカーストによる身分差もいまだ存在していた。

 仏陀の教えも数あるヒンドゥ-の教えの一つだが、法力示現が目的ではなく、カーストのない平等で平和な社会と解脱による不滅の安らぎを目的としている。スワミ師に相談すると、仏陀の教えを学び霊性を成長させるには、生まれ育った日本が一番だと教えられた。彼は2年間での修行終了を決意して直ちに帰国した。

5.仏像彫刻家としての出発
 話が前後するが彼が初めて仏像を製作したのは、「レ・ミゼラブル」公演中の42歳の時に遭遇した母の死がきっかけであった。母のために何かしたいという気持ちを、目に見える形に表わすには?そう考えた時、両親が毎朝、仏壇で手を合わせていた観音菩薩の木像のことが思い浮かんだ。大阪のホテルで仏像彫刻を教えていた仏師・久保田唯心先生を訪ねて聞くと、ナイフで鉛筆が削れれば仏像も彫れると聞かされて発奮した。彫刻刀と手本の観音菩薩像を借り、公演終了後のホテルで4日間で彫り上げたという。講演会の場でポケットから取り出して皆に見せてくれたが、ずぶの素人が彫った初めての作品とは思えないほどの出来栄えであった。

 46歳の時に父親が他界し、その父のためにも観音菩薩像を彫った。そして48歳の時、7歳年上の兄が死んだ。長兄・詔生さんは、母校成田高校の教師となり、陸上競技部の監督をしていた。熱血漢で、栄さんの公演切符をまとめて引き受けてくれたり、優しく頼もしい兄だった。選手を育てる才能があり、マラソンの増田明美さんやハンマー投げの室伏広治さんも教え子である。その兄のために、火炎を負った不動明王像を彫った。

 またアメリカに留学していた娘さんのクラスメート3人が、国からもらっていた奨学金の契約でその後に州兵になり、イラクに派遣されて戦死した。これを聞かされた時には、アメリカという国の利己による愚かさをいたみ、その青年たちの供養のために不動明王とコンガラ、ウバケイの二体の童子を彫りあげた。講演会場では3年ほどかけて兄のために彫った不動明王と、コンガラ、ウバケイの童子像を見ることができた。彼はこれまでに、等身大から小さなものまで二十体ほどの仏像を彫刻したと話していた。

6.八ヶ岳山麓での暮らし
 彼と八ヶ岳との関わりは、高校の山岳部で八ヶ岳登山に来たのが最初だった。その後31歳の時に、NHKドラマ「マリコ」で奥蓼科の山小屋でロケが行なわれた。その時の長期滞在で、八ヶ岳山麓の静かな時間が心に焼き付いたと語っている。原村に住んで30年、両親も晩年の10年ほどは原村で過ごしていたというから、33歳の頃には既に別荘を持っていたように思われる。2012年の秋、飼育していたミツバチの巣箱が熊に襲われたという記事が、作務衣姿の写真と共に地元の新聞に掲載されていた。それは農業生活の一端だと想像していたが、今回の講演を聞いて、木魚をたたき経を唱え座禅を組み、そしてアトリエで仏像を彫刻していることも知った。

7.講演を聞いて思ったこと
 今回の講演で初めて目にした滝田栄さんは、184cm、80kgという堂々たる体格で、明るくて声量もありとても見栄えがする人だった。俳優養成所に50倍の競争率で入れたことも、世界的なプロデューサー キャメロン・マッキントッシュの眼鏡にかない、日本公演でのジャン・バルジャン役に選ばれたことにも納得がいった。そして俳優という職業柄、演じる人物に近づこうとすればするほど、その人物の性格や習慣、内面のドロドロしたものまでも身に付けねばならず、綺麗サッパリ清算して本来の自分に戻りたいと思ったことにも合点した。またそれに加えて、私は、自然豊かなかの地で、自然から学びそしてその恵みに感謝しながら暮らしていたことも、仏教の禅に惹かれ座禅をするようになった理由だと思っている。

 著書[滝田栄、仏像を彫る]の中で彼は次のように述べている。「私は仕事を通じて、精神や心のあり方において向上を目指す人々、日本の仏教の僧という聖職者と巡り合うことができたのは幸運中の幸運であった。彼等はこの世で神聖なもの、本当に大切なもの、決して侵してはならない尊いものの所在を示してくれた」

 分かち合いの精神を忘れ、利己の物質的豊かさを殊更に求める社会では、貧富の格差と争いが生まれる。人類がこのかけがえのない美しい地球で、永遠に繁栄し子孫を繋げていける考えではない。私たちは、見えるものや聞こえるものしか信じようとしないが、彼は禅の修行の現場で、私たちが奇跡としている目に見えない力や見えない世界の存在を知った。そしてその法力を示現させた経験をも持つ。彼は本の最後でこう述べている。「みんなそろそろ仏陀になろう」と。私もまさにその通りだと思う。
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諏訪大社御柱祭の誌上再現

2016-02-05 06:54:10 | 日記
 4月と5月に行われる諏訪大社の御柱祭に先立ち、そのお祭りとはどんなものか、見聞きしたり調べてまとめたものを以下に紹介する。                         
1.山出し
 一つの宮に4本、二社四宮で合計16本の樹齢150年を越えるモミの巨木が、上社の場合、本来は八ケ岳の御小屋山だが、伊勢湾台風(1959)被害で他所調達になっていて今回は辰野町の国有林から、下社は霧が峰の東俣国有林から切り出された。御柱を曳行する分担は、上社が諏訪市、茅野市、富士見町、原村、下社は諏訪市の一部、岡谷市、下諏訪町と決まっている。それを上下社夫々、8ブロックに区分された中から決められる。下社は回毎に各ブロック公平に回ってくるが、上社は地区代表による抽選会が本宮で厳かに行われる。

 太くて大きい一之御柱(幹回り3m強、長さ19m、以下四之御柱まで1.5mずつ短くなる)を曳くために、地区内で何度もくじ引きを行いその勝者を地区の抽選総代として送り込む。その抽選総代は、本宮での抽選会に備えて水垢離をしたり毎日欠かさず参拝したりと、地区の熱気も後押しして大変な意気込みとなる。

♪御小屋山の樅の木は 里に下りて神になる 山の神様お乗りたて 双方御手打ち綱渡り 男綱女綱の綱渡り 双方様ご無事でお願いだ 綱渡り綱渡りだで お願いだ♪
 霧が峰や八ケ岳山麓に安置されていた御柱は、4月の山出し(上社2~4日、下社9~11日)で、先ず修祓と綱渡り清祓という神事が行われる。綱渡りとは、曳き子が曳き綱に手を掛け曳き出す態勢のことを云う。高らかに木遣りが歌われた後、ブロック毎に揃いの法被を纏った曳き子によって、決められた順序で曳き出されて行く。上社11.9km、下社4.7kmの御柱街道を行く山出しのスタートである。

 上社の御柱には、全てメドデコという前角と後角が取り付けられる。御柱にもメドデコにも、“おんべ”片手に両手を突き上げる若衆達が鈴なりに乗り、「よいさ、よいさ」の掛け声で祭りを盛り上げる。曳行が滞る場所では、御柱の脇に付き添っている梃子衆が、梃子司令の合図で柱の位置をずらす。するとラッパ隊や太鼓隊が一斉に音を奏でた後、木遣り衆の一人がその場に応じた木遣りを歌う。そしてまた数千人の曳き子が力と心を合わせて、長さ200~300mもの男綱、女綱の太い曳き綱を、手許の小綱を介して曳行を続けて行く。

♪ここは木落しお願いだ 綱曳きしめて お願いだ 諏訪の曳き子の勇ましさ 心揃えてお願いだ♪
 急なカーブや狭い道を無事曳行された御柱のうち上社の8本は、夫々の曳行途中で一泊するが、行程の短い下社では3本の御柱が木落し坂まで入る。木落し坂の長さは、上社40m、下社は100mもある急坂である。長めのメドデコに付け替えられた御柱は、曳き綱と追い掛け綱のバランスを取りながら、落ちる寸前まで少しずつせり出して行く。そこで追い掛け綱が固定され、若衆達を乗せたメドデコは武者ぶるいのように左右に振られて見せ場を演出する。ラッパと木遣りが高らかに響き一瞬の静寂の後、斧(よき)取りが追い掛け綱を斧で一閃して切断する。氏子を満載した御柱は、逃げまどう曳き子の間を滑り落ちて行く。メドデコがない下社の御柱は、転がったり横になることもあって死傷者が出たこともある。大歓声の中、御柱から転げ落ちる人、飛び乗ろうとする人、まさに命懸けの光景である。死者が出たこともあるが、不名誉なこととして公表されることはない。

♪ここは宮川川渡り どうでもこうでもお願いだ♪
 木落しが終った上社の御柱は、雪解け水の流れる宮川の川越に入る。これに対して下社の御柱は、砥川(とがわ)の水でお清めされる。その後、上社の御柱は、JR中央線の鉄橋下をくぐる前後で、メドデコを取り外したり付け直したりの作業がある。曳行順序の日程で途中一泊したり先行していた御柱も最後は、上下社夫々御柱屋敷、注連掛(しめかけ)と呼ばれる場所まで曳かれて行く。そこで5月の里曳きの日まで安置される。
♪ここは安国寺止め置きだ 山の神様お帰りだ 皆様ご無事でおめでとう 双方お手打ちお引取り♪

2.里曳き
 山出し後、御柱屋敷と注連掛に安置されていた16本の御柱は、5月の初寅か初申の日(近年は5月連休の休日。上社は2~4日、下社は8~10日)に、夫々の宮に向けて曳き出される。曳行距離は、上社本宮、前宮まで夫々4kmと2.3km、下社春宮、秋宮までは夫々1.7kmと3.1kmである。曳行分担は上社の場合山出しと同じだが、下社では明治時代に定められた協定に従って持ち回りとなり、山出しと異なる担当もある。なお山出しと里曳きの間には代々奉仕する集落の人々によって、古い御柱は倒され神木から普通の木に戻す『御柱休め』という神事が行われている。

 木遣り一声の後、ラッパ隊、太鼓隊の心浮き立つ響きと曳き子衆の「よいさ、よいさ」のかけ声と共に、御柱は間隔をあけて出発して行く。上社の場合世襲で奉仕する山作衆(やまづくりしゅう)が、細枝とゴザで作ったお船と呼ばれる4.5mほどの神輿を本宮から古式の装束に身を固めた出で立ちで担いで来て、本宮一之御柱を出迎える。引き返すお船神輿の後を本宮一之御柱が続き、以下本宮ニ~四、前宮一~四の順で定刻に御柱屋敷を出発して行く。

♪ここは前宮一の坂 てこ方衆やれお願いだ♪
♪ここはきざ橋お願いだ お宮の庭までお願いだ もう一息だでお願いだ♪
 前宮の御柱は、その日のうちに所定の場所まで曳き付けられるが、本宮の御柱は途中で一泊する。下社の場合は、2基の朱塗りの神輿が神官や氏子総代などの行列に仕立てられて、秋宮から旧中山道を通って春宮に向かう。春宮で御柱大祭の下社祭儀を執行した後、御柱の曳行コース通りに秋宮に戻る。この間下社の御柱は、春宮一~四、秋宮一~四の御柱の順に曳行がスタートし、注連掛からすぐ国道142号線へのミニ木落しや春宮境内の木落し坂の難所を曳行されて行く。春宮に曳き付けられた4本を残して、残り4本の御柱は春宮の鳥居を抜けた下馬橋あたりで一泊する。こうして各御柱は、幣拝殿(上社前宮は本殿)を囲む四隅の所定の場所まで曳き付ける。

 各御柱は、梢の方の先端を三角錐の形に仕上げる『冠落し』の神事と、斧による切削作業が行われる。これらは、朱塗りの柄の神斧を受け継いでいる山作衆によって行われる。その後所定の穴に入れられた御柱は、ワイヤやロープが取り付けられた後、木遣りの歌を合図に車地(しゃち)という人力の巻上げ道具を使って立ち上げていく。

 御柱のてっぺんに陣取る氏子の「よいーとまけ、よいとうまいた、よいとまけ」の掛け声に、御柱は少しづつ立ち上がっていく。その御柱には、取り付き縄に身を委ねた氏子が鈴なり。垂直に立ち上がった時、てっぺん近くにいる氏子達によって、上社の御柱には長さ150cmほどの大御幣が打ち付けられる。御柱に取り付けられている2本のロープが近くの木に結わえ付けられると、建御柱の完了を祝し、てっぺん男達によってロープ上での両足下がりなど様々な演技が披露される。その都度、氏子や観衆の大歓声が起こって祭りは最高に盛り上がる。最後は御柱のてっぺんから、次の無事再会を記した垂れ幕などが下ろされて、里曳きのフィナーレを飾る。
♪山の神様お帰りだ 皆様ご無事でおめでとう 千秋楽だでおめでとう♪

 翌日、御柱の根元では『御柱固め』という神事が、代々奉仕する集落の人々と神官とで行われる。「朽ちることなく、突き立てし御柱の動き傾くことなく、巌の御柱となりて」という祝詞の後で、30kgもある木槌で御柱の周りを打ち固め、6年間無事に建立し続けて欲しいと願う。

 里曳きの期間中、上社は本宮、下社は秋宮周辺の道路で各種の出し物やパレードが行われる。騎馬行列は、江戸時代山出し時の御柱行列の警護と高島藩の重要なまつりごととして、参勤交代の大名行列の格式を取り入れて仕立てられた。明治時代には、その所作や様式を受け継いだ集落の人々の努力で、奉納騎馬として行われていた。大正になって山出しの御柱行列とは切り離された里曳きの出し物となり、以来次第に余興化して今日に伝えられている。

 御柱祭りは、神斧を引き継ぎ奉仕する山作衆、『御柱休め』や『御柱固め』に奉仕する集落、様々な技術技能や所作を引き継ぐ人々、一戸あたり20mほどの割り当ての根フジを持ち寄って数百人が集まり荒縄や玉縄とより合わせて曳き綱を作る作業などなど、信仰に培われた文化、習慣になっている。また御柱の年には、各集落にある小さな祠や神社で小宮祭という御柱祭りを行っている。春から秋にかけては、行く先々で御柱を曳き建てする光景を見ることもできる。御柱祭りは、諏訪地方の老若男女約20万人の氏子にとって、心の拠り所であり連帯を確認する大切な場にもなっている。
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