八ヶ岳山麓の暮らし

標高およそ1,200mの八ヶ岳山麓で、見たり聞いたり経験したことを気ままに書いています。

諏訪高嶋藩のお家騒動記 5/5

2017-04-18 06:44:53 | 日記
 5.あとがき 
 町の古文書勉強仲間と解読したものは、諏訪藩御用部屋で記録された公式文書「御一件之諸事留帳」の一部である。安永10年正月12日(1781、4月から天明に改元)から天明2年(1782)5月24日までの出来事が、どちらかいうと勝ち組・千野兵庫側を正当化する視点で日記風に書かれている。例えば千野兵庫が江戸で訴えに回っている様子、千野兵庫側の家臣たちが談合し血判して連判状に連ねた名前、江戸屋敷との慌しい行き来、忠厚の隠居願いと受理文書の写し、千野兵庫の家老復帰、諏訪大助一派の逮捕拘束と監視、新藩主のお披露目、新しい役儀任命と千野兵庫派家臣への褒美などが詳細に記載されていた。

 諏訪大助が切腹させられたのは、天明3年(1783)7月、享年39歳であった。「湖水忠臣船」には諏訪大助が悪事にたけた人物のように書かれているが、千野兵庫家に残されていた文書ゆえにそのようにも見える。しかし代々、藩の実権を掌握していた三の丸家に仕組まれた可能性も十分に考えられる。そう思えるのは軍次郎毒殺未遂の一件、省略して書いたがわざわざ疑われるようなことをするかという疑問と、毒菓子を持参した小者も立ち会った林平内右衛門も、千野兵庫派の人間で二人とも処罰されていない。もし忠厚の望み通り鶴蔵が世嗣ぎになれば、三の丸家の厳しい処罰や家門断絶は必定、それだけに千野兵庫の周到なはかりごとではなかったか、という推測も成り立つ。

 また諏訪忠厚を暗愚の藩主とする向きもあるが、諏訪家系譜を知ると気の毒な一面もある。先ずは、諏訪家再興当時から二人の同格家老がいたこと。次は第四代藩主忠虎の時代に、元禄大地震や江戸藩邸焼失で藩財政の窮乏が始まった。世嗣ぎが早世したため養嗣子として忠林(ただとき)を分家から迎えた。藩内では二の丸家を藩主に推する家臣も多かったが、千野家老家が反対してなれなかった。そのため藩主に収まった忠林は、千野家に平素から遠慮や好意的な対応があった。そして忠林自身、藩政はなおざりで学問や詩に心が向いていた。60歳で隠居し、17歳の四男忠厚に家督を譲った。そんな親を見て育った忠厚の心情も、お家騒動と無縁ではないと思われる。

 このような経緯や事情を考えると、諏訪図書家(初代は藩主の弟)の千野家老家に対するうっ積した不満やより上位に立ちたいという強い意識があったのは当然と考えられる。なお35歳で隠居させられた忠厚に代わり、13歳で第七代藩主忠粛(ただたか)となった軍次郎は、長じて郷土の偉人坂本養川(ようせん)を登用し、用水路整備による新田開発、税制改革、製造業の奨励など藩政改革に相応の成果を挙げている。 ―終わり―
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