八ヶ岳山麓の暮らし

標高およそ1,200mの八ヶ岳山麓で、見たり聞いたり経験したことを気ままに書いています。

わが家の冬支度

2017-12-08 07:12:46 | 日記
 山に暮らす生活の中で、冬に向けての作業がある。わが家の場合、先ずは庭木の手入れ。自然に任せたままで伸び過ぎた下枝や逆さ枝、徒長枝を、見栄えや日当たり改良の観点から切り落とす。鋸での作業は、直径10センチ位までが限界、2017年の今年は、落葉樹ではコブシ、コナラ、桂、壇香梅(だんこうばい)、カスミ桜、常緑時ではイチイとシラビソの下枝。二連梯子を伸ばし、地上3~4メートルほどの枝を切断した。太いダケカンバ、コハウチワカエデの枯れ木と、十数年来、花の見られなかった花木・フサザクラ(?)、アオハダは、根元から次男にチェーンソーで切ってもらった。

 アオハダには10粒ほどの赤い実が、フサザクラと思われる木には黒紫の実が無数に付いていた。フサザクラは傾いて成長してしまったことも伐採を決めた理由だが、アオハダは赤い実を冬にツグミ類が好んで食べに来ることを知って植えた。しかしいっこうに花を咲かせ実を付けないので、春先、もし実を付けなければ伐ってしまうと呟いた記憶がある。植物にも音楽や語りかけが通じると聞いたことがあるが、それは本当にあることなのだろうか。

 二番目の作業は、庭の隅に作った野菜畑の手入れと準備。先ずミニ耕運機での耕作。今年、成長不十分だったルバーブは、株を掘り起こし日当たりの良い所に石灰を入れて植え替えた。そして来年もトマトとミニトマトを植える予定の畝の上には、庭で集めた枯れ葉を敷き詰めて腐葉土にした。

 三番目の作業は、屋根とデッキ桟の間に溜まったからカラマツ葉の除去。屋根の傾斜が緩い平屋なのでできることだが、二連梯子で屋根に上り、電気コードを伸ばして連結したブロワーで溜まった落ち葉を吹き飛ばす。北面はそのまま吹き飛ばして下に落すが、南面は雨樋の中にも入るので、デッキに一旦下りて梯子に乗り、ゴム手袋で取り除く。それが終ったらデッキ桟間を丁寧にブロワーで吹き飛ばす。家を建てた今となっては、10本ほど残っているカラマツ伐採をできないための止むを得ない作業だ。

 今年は野鳥の巣の残骸が庭木に残っていなかったが、ドウダンツツジの枝にラクビーボール大のキイロスズメバチの巣が残されていた。花木の蕾のつき具合はどうか、日照改善による花木や山野草への期待、見栄えと見通しの良くなった樹形、来年の野菜作りへの思い・・・・・。冬支度を終えた後、来年への思いをめぐらせて過ごすのも、この時期の楽しみのひとつになっている。
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私的妄想進化論

2017-12-01 06:56:51 | 日記
 ヒトは万物の霊長、一寸の虫にも五分の魂、などという言葉はいつの頃からか覚え馴染んでいた。それがヨーガや仏教の本を少しばかりかじってから、おぼろげながらわかってきたことがある。それは物質的形態とそこに宿る霊(魂)で構成されるあらゆる生物の進化は、現世体験によって培われ、物質的形態が滅んでもその魂は来世に受け継がれて物質的形態と共に進化していくのではないかということ。

 仏陀の言う“知恵の完成”とは、現世体験を通じて究極的な悟りを得ること。それは一朝一夕に得られるものではなく、肉体が滅んでも再生の都度、霊性の進化によって培われていくのではないか。そう理解して現世での霊性の進化に努力を重ねれば、やがてそれはいつしかの来世で達成されることになるように思う。

 “悟り”を得た人、それは過去や現代に於いても確実に存在する。それは座禅や瞑想、ヨーガでの修行などの場で、そして今日では、このブログで紹介した『あるヨギの自叙伝』を書いたパラマハンサ・ヨガナンダ(1893~1952)がアメリカに創設したSRF(セルフ・リアリゼーション・フエローシップ)本部から、【クリヤ・ヨガ】の指導を受けるなど、本人の意識や努力があれば自身の霊性を現世で進化させることができる。

 仏経やヨーガでは、現世に於いてカルマ(業)を作らない、そして残さない生き方を求めている。もしも万物に輪廻転生や因果応報があるとすれば、過去世で残したカルマに捉われる現世が待っていることになる。それは言い換えれば、生を得てからの出発点がゼロ以下からなので、その解消に時間がかるだけ現世で霊性を進化させることができない。“現世体験を通じて霊性や霊格を進化させていく”それはヒトが本来目指すべき生き方であり、人類の未来に繋がる生き方ではないかと思う。
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江戸時代の古文書から・入会山(いりあいやま)

2017-11-24 06:56:08 | 日記
 江戸時代の農村部では、生活の中で山の入会権が大切であった。互いに決め事を取り交わして、争いになるのを防いでいた。私の住む町では、そのような定書(さだめがき)の写しが、子孫に受け継がれ集落の公民館などに保存されている。町の仲間たちと解読した古文書のひとつを、現代文風に解読して以下に紹介する。

取替申す扱い証文の事
一. 釜無山については、甲州領分・大武川(おおむかわ)、上教来石(かみきょうらいし)2ヶ村と諏訪領分・上蔦木(かみつたき)、下蔦木(しもつたぎ)、神代(じんだい)、平岡、机、瀬沢、休戸(やすみど)の7ヶ村、計9ヶ村で従来から双方共通の入会山になっている。その中で甲州側は大澤・黒川・中野川の3ヶ所、諏訪側は白谷・唐沢・洞ヶ沢・白川・前小沢の5ヶ所の計8ヶ所は、20年以上前の申年に甲州、諏訪のお役人様方がご相談の上、入山してはいけない御留山(おとめやま)として取り決めた。しかし近年になって出入りする者が出てきたので、このたび甲州御城下八日町・中沢伊衛門、諏訪御城下本町・小平三右衛門ご両人様の扱いをもって、前記8ヶ所のうち甲州側は大澤山、諏訪側は白谷山の2ヶ所を御留山にお決めになり、その他6ヶ所は入山しても良い明山(あけやま)として仰せつかり有難き幸せに思う次第である。

一. 大澤山、白谷山の2ヶ所は、御留山としていっさい入山してはいけないことは勿論だが、明山であってもヒノキ、さわら、ケヤキはいっさい伐採してはいけない。そのほか御双方様の御用木となるツガ、モミ、カツラの目通り7尺廻り以上の大木はいっさい伐採してはいけない。

一. 御双方様の御用木は、御留山の場合であってもお役人様方にご相談の上であれば、釜無山域においては伐採してもよいと定めている。

一. 伐採した木が洪水で山から流出した時は、斧の目付けや小口に印がある木は1本たりとも引き上げてはいけない。もっとも甲州領分川筋の村々は、お役人様に書き付け申し上げ、川流しの際にそれらを加えるべきこと。

一. 御双方様の御用木を切り出す際は、9ヶ村とも互いに他国の木こりを一人たりと
も入れてはいけない。地元の木こりだけに山仕事をさせることとする。また萩、よもき、くずの葉、藤の葉そのほか下草などは繁茂するので、以前の取り決めの通り、双方日を相談して一斉に刈り取りをすること。

右に述べた通り、このたび中沢伊右衛門、小平三右衛門様の扱いをもって9ヶ村相談の上お役人様方へ申し立て、それが済んだ後は少しも相違なきよう努めること。後日のため、9ヶ村並びに扱い人の連判手形をして、双方取替すよう申し述べたものである。
元禄十二(1699)年卯年四月
以下に甲州領、諏訪領双方9ヶ村と枝郷(えだごう)合わせて37人の名主、年寄名と扱い人2名の名がこの取替証文の写しの中に記載されている。

☆釜無山(2,116.5m)は高遠町と富士見町の境界にあり、南アルプス北側に位置する。甲斐駒ケ岳~鋸岳の延長稜線上にある横岳(2,142m)近くが水源とされる釜無川は、八ヶ岳側の河川を集めて山梨県を流れる。笛吹川と合流した後は、富士川と名前を変えて駿河湾に注ぐ一級河川である。江戸時代の農村部の暮らしでは、薪や焚き木、炭焼き、建材、牛馬の餌、狩猟や魚とり、キノコや山菜採りなど、山や川に依存する部分が多かった。また300年以上も前のこの古文書に書かれていた当時の村名が、現在の町行政区名として受け継がれている。町の図書館で確認してみたら、最奥の前小沢から最短の村まで8km、最遠の村では12kmほどあった。昔の村人は釜無川源流に近い山奥まで入り込んでいたことがわかった。
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諏訪神社の起源と信仰 2/2

2017-11-17 06:47:50 | 日記
 4.神長家からの眺め
(1)神長屋敷内の地形と構築物
 往時、広さ五千四百五十二坪を四段に構えてくね道が通り、溝水がめぐらしてありました。今でもその一部がせぎと呼ばれ残っております。
① 御頭御社宮司(おんとうミシャグチ)総社
 この神長屋敷西南最上段で、幼い頃から祖父が大事な行事がある度に厳かに拍手(かしわで)を打ち、祀りごとを行っていたことが鮮明に思い出されます。それがミシャグチ様と呼んでいた神様であり御頭御社宮司総社であることを後に知り、祖父の何よりも大事な信仰対象であったことに納得いたしました。
 その境内に湛(たた)えの木であろうと思われます梶の老木が長々とその枝を伸ばしておりました。幹は、既に空洞となり、更に折れ曲がってその古さがしのばれましたが、平成二年にとうとう枯れてしまいました。全く残念というほかありません。
② 古墳
 最上段の東南の位置には、小高い丘のような場所があり、塚と呼んでいました。この塚の存在について、祖父の生前、「あの塚は、いつ頃のものですか」と問われました際、「千二百年以上の遺物です。用明天皇の御世のわが祖先武麿の墳墓です。」といった内容の説明をしていたことをかすかに記憶しております。
 その後、塚に行くたびに、祖先の墓という円墳の石室を覗き込み、古代に想いを寄せたものです。また塚の頂上にある杉の大木に背をもたせ、眼下の諏訪盆地に流れる宮川、上川の流れや東にそびえ立つ八ヶ岳の稜線がくっきり見える景色を好んで眺めたものです。八ヶ岳を拝す位置にありますところに、神長が居を定めた意味もここに立つと頷かれるところです。
③ 神使(おこう)精進屋敷地
 明治五年前の家屋建物の図(省略)によりますと、現在、祈禱殿のあります位置に精進屋があったようです。ここに籠り、御頭役の神使達が精進潔斎を行い、その上で前宮での神事に参加いたしました。
④ 祈禱殿(きとうでん)
 精進屋に対し、屋敷の東側に祈禱殿がありました。昔は、屋敷と直接つながらず、少し離れて建っていたもののようです。この中で真夜中、一子相伝が口伝によって行われていたことを後で知り、身がひきしまる感がいたします。しかし、現在は、祈禱殿の位置は、精進屋のあった西側に移っております。
⑤ 神長屋敷
 最も東側、屋敷の奥座敷十畳の間は、古来、朝廷のお遣いが立ち寄ったとされる勅使(ちょくし)の間(ま)があります。昔は、一段高く作られた座敷でありましたが、現在は、他の部屋と同様の高さにされております。西南側に別火所、北西側に学問所、厩(うまや)など、西に御神使(こうどの)屋敷があったといわれますが、それは図にも見当たらず、更に以前のことであったろうと思われます。
⑤ 郎党屋敷、参詣古道
 四段地斜面の門外に一般家の子、郎党屋敷はくね道内外におき、参詣古道は更に下部にあったとされます。今でも地番名に残っています大道上が四段地にあたるようです。

(2)屋敷周辺の地形と構築物
① 墓地Ⅰ(千代の宮)
 屋敷から更に西南、薬師堂近くに神長の墓地が元々あり、埋葬法は土葬でした。しかし諏訪頼広が分家し、大祝職に就き、宮田渡(みやたど)へ住まわれました際、この地を墓地として求められ、守矢家の墓地は熊野堂へ移りました。旧廟所は千代の宮といわれ、その祠があったそうですが、今はその祠は失われています。
② 墓地Ⅱ(熊野堂)
 慶安三年(1650)五月、重実代よりここに葬られました。そして現在に至るまで代々ここに葬られています。埋葬は土葬で行われ、先代七十七代まで続いておりましたが、祖母登里の時、時代の変化に応じ初めて火葬といたしました。
③ 墓地Ⅲ(夏直路廟:なすぐじびょう)
 御柱年に亡くなった祖先は、厳しい物忌令(ものいみれい)により、この別廟に葬られました。夏直路廟は、下馬沢(げばさわ)川を遡り、磯並(いそなみ)社、小袋石(おふくろいし)を右に見て少し過ぎた杖突(つえつき)峠の登り口にあたる位置にあります。
 今でも毎年夏の終わりに村の古老とここに登り、一年の間にうっそうと繁茂した草を取り、お参りしています。この別廟がなぜ夏直路(なすぐじ)と呼ばれたのかそのいわれは未だに紐解かれていませんが、ふと思い出されることがあります。それは、御廟の墓碑は、粗末な自然石で、それが時の流れに風化を重ね、刻まれた文字も苔むして読み取りづらくなっています。ある時その文字に興味を抱いたことがあり、読んでみますと、葬られた日付は、全て夏だったことにあります。
 冬の間は、雪深く凍てついた別廟を訪れることさえ困難であったと思われますし、まして、冬に葬ることは、言うまでもありません。別廟の墓碑に刻まれた日付が全て夏であったことに驚くと同時に「夏直路」と名付けられた意味を考える手がかりになったような気がいたします。
④ 高部村
 「高部:たかべ」という名称は、諏訪明神に捧げる贄鷹の鷹狩りから来ているのであろうと思われます。江戸末から明治期にかけての高部村の様子を七十五代実顕が描いた絵図が残っており、近年に至るまで、村の衆は、土地の境などを定める際、役所の公図よりは、絵図の方が分かり易いと拡げては協議したそうです。それは今でも村の大事な宝であるとして、村の倉にしまわれていると聞いております。
⑤ 薬師堂
 屋敷の東側にあり、実顕の遣した記録『古今家談』によれば、「大同年間に建立され、明治三十二年まで八百十三年経た」と書かれております。薬師堂建立の意味は「古記に当家遠祖洩矢神の本地は薬師如来なりと言い、故に古来諏訪上社瑞離内へも安置し、且つ屋敷内へも祀りしものなり」ということです。
 神長官守矢史料館は、多くの方々のご理解とご協力のお陰により開館することができました。守矢家の土蔵から史料館に移されました中世や近世の文書によって新しい事実が解明され、信州の厳しい自然の中で自然と共に生きた人々の祭りや心の様相が復元されますことを願い、家に伝わります事柄をでき得る限り記して、皆様方のご参考に供します。

☆おわりに
 守矢早苗さんは私より二歳ほど年下と知ったが、まだお会いしたことはない。しかし、彼女の文章を写させてもらって、一子口伝で伝えられてきた歴史の重みを一身に背負われていることを知った。また諏訪神社の起源や信仰について疑問に思っていたが、全て洩矢神から受け継がれていることを知って納得した。洩矢神に率いられ諏訪盆地で暮らしていた人々は、狩猟と採集の生活をしながら巨木や巨石などの自然に精霊が宿り、神と対話できると信じていた祖先を持つのではないだろうか。それは私たち多くの日本人が忘れてしまった遠い記憶でもあるが、こうして守矢早苗さんの願いをより多くの人たちに伝えることができるのも、この地の住民としてまた意味のあることだと思う。
なおこの『神長官守矢史料館のしおり』は、
第一部 守矢神長家のお話し(今回紹介した内容)
第二部 展示品の解説 になっていて、守矢史料館で購入できる。(一部200円)
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諏訪神社の起源と信仰 1/2

2017-11-10 06:43:07 | 日記
 ☆はじめに
 諏訪大社上社の前宮と本宮の中間くらいの場所に茅野市の神長官守矢史料館がある。そこでは、弥生時代から生神(いきがみ)・諏訪大明神の祭祀や神事をつかさどってきた神官の長・守矢家に伝わる貴重な史料が展示公開されている。平成三年(1991)の史料館開設にあたり、作成された[神長官守矢資料館のしおり]の中から、七十八代当主・守矢早苗さん寄稿による文章を引用して紹介する。

1.洩矢神からの生命のつらなり
諏訪盆地には、『古事記』に書かれた出雲の国の国譲り神話とは別にもうひとつの国譲り神話が云い伝えられています。そのことは、室町時代初期に編まれました『諏訪明神絵詞(すわみょうじんえことば)』などに記されています。
それによりますと、大和朝廷による日本統一以前の話になりますが、出雲系の稲作民族を率いた建御名方命(たけみなかたのみこと)がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神(もれやのかみ)を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。建御名方は手に藤の蔓(つる)を、洩矢神は手に鉄の輪(かぎ)を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の双方の陣地の跡には今の藤島明神(岡谷市川岸三沢)と洩矢大明神(同川岸橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祀られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいますし、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。

 一子口伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が初めて文字化した「神長守矢氏系譜」(省略)によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私でもって七十八代の生命のつらなりになっております。今でも、洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。口碑(こうひ)によりますと、その頃、稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原(かにがわら)の長者、佐久良(さくら)の長者、須賀の長者、五十集(いさり)の長者、武居(たけい)の長者、武居会美酒(えみし)、武居大友主(おおともぬし)などが住んでいたそうです。

 さて出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作以後の新しい時代を生きてゆくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々は決して新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありませんでした。このことは諏訪大社の体制を見ればよく分かります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝(おおほうり)という生神の位に就き、漏矢神の子孫の守矢氏が神長(じんちょう:のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。

 大祝は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、また、即位に当たっての神降ろしの力や、呪術によって神の声を聴いたり神に願いごとをする力は神長のみが持つとされており、こうしたことよりみまして、この地の信仰と政治の実権は守矢が持ち続けてたと考えられます。こうして、諏訪の地には、大祝と神長による新しい体制が固まりました。こうした信仰と政治の一体化した諏訪祭政体は古代、中世と続きました。

2.ミシャグチ様のこと
 諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝に降りてくる精霊を中心に営まれます。家ではミシャグチ様と呼んでいましたし、多くの呼び名や宛字のある神様ですが、ここではミシャグチ神とします。そして、一年に七十五度の神事が、中世までは前宮と大祝の住む神殿(ごうどの)、そして冬期には掘られた竪穴である御室(みむろ)や十間廊、八ヶ岳山麓の御射山(現・諏訪郡富士見町)で行われました。

 そのミシャグチ神の祭祀権を持っていましたのが神長であり、重要な役割としてのミシャグチ上げやミシャグチ降ろしの技法を駆使して祭祀をとりしきっていました。大祝の分身である童児は、内県(うちあがた:旧諏訪郡一帯)、外県(とのあがた:旧伊那郡一帯)、大県(おおあがた:信州一円の神氏系の代表)からそれぞれ一年毎に選ばれて奉仕していました。童児たちは神長屋敷西側の祈禱殿(きとうでん)の位置にあったといわれます精進屋の中で一定期間の籠りをした後に前宮で神事に参加いたしました。

3.一子口伝の秘法の終り
 このように守矢家は諏訪信仰と共に長い長い歴史を生きてきたのですが、明治維新によって大きな変化を蒙りました。明治五年、世襲の神官の制度が廃止され、神長という職は消えます。また明治六年には家宝であった鹿骨製の御宝印や御頭お占法用具そして鏡、太刀などが諏訪大社上社に移されました。しかし、神長がミシャグチ神の祭祀に使う佐奈技(さなぎ)鈴は家に残されました。そうした激変の時期に神長であった七十六代の守矢実久は、神長の祭祀が消えることを惜しみ、七十七代の真幸にその一部を伝えました。

 私は更に、次のように伝え聞いております。明治の解職に至るまで神長の神事の秘法は、真夜中、火の気のない祈禱殿の中で、一子相伝により、「くちうつし」で伝承されました。その内容は
。ミシャグチ神祭祀法
。冬期に竪穴の御室の中で行われる神事の秘法
。御頭(おんとう)祭の時に行われる御府礼の秘法など年内神事七十五度の秘法
。大祝が前宮のカエデの樹の下で行う即位式の技法
。祈禱殿で行う蟇目(ひきめ)の神事法
。家伝の諏訪薬なる製造法
。守矢神長の系譜
 などでした。神事の細目は『年中神事次第旧記』などに記されていますが、具体的な神事の方法につきましては、一子相伝で伝わったのです。しかし、それも明治の一大変動により七十六代実久でもって永遠に絶えました。祖父の七十七代真幸は、ミシャグチ神御頭占定の秘法と蟇目神事についてのみ口伝を受けたそうですが、それも、七十七代で終焉を迎えました。今となっては惜しまれるばかりです。
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