OMKSRU's monologue

なにはともあれ、生かされているうちは頑張らねばと、思いつつも・・・。

ポルトープランス (from 17/Jan/'95 to 12/Jan/'10)

2010-01-15 21:20:41 | Report


2010年1月12日、カリブ海の小国ーハイチーで地震があった。
国連平和維持活動(PKO)の国連ハイチ安定化派遣団(MINUSTAH)の監視を受けながらの現状に有って、第一に早急な被災者の救出と、治安の維持が求められている。



ハイチ共和国(ハイチきょうわこく)、通称ハイチは、中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス。

1804年に独立したラテンアメリカ初の国家かつ、アメリカ大陸で二番目の国家であり、世界初の黒人による共和制国家でもあるが、独立以来現在まで混乱が続いている。(wikipediaより)
          
     その他ハイチについての詳しい説明は、下記サイトに譲る。
           読者には、どうぞ目を通してほしい。


    wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81       

(ポルトープランスで、がれきの下敷きになった被害者を救出する住民ら)

日本のジャーナルも速報から現状へと伝えてはいるが、政治むきの話題の方が喧しく、詳しい情報にかけている風に見受けられる。

今速報で、議員が逮捕されたとのこと。18日過ぎると「不逮捕特権」がネックになるからだろう。この話は別の機会に、今回は地震。

リンクできるいくつかのサイトを示す。ごらんください。

    New York Timeshttp://global.nytimes.com/

    CNNhttp://www.cnn.com/video/

    Roiterhttp://jp.reuters.com/news/video?videoChannel=200&videoId=27387572


実を言うと、この回は1995年1月17日の話を予定していた。
予期せぬ事態が、いや不幸が、偶然出現し、多少戸惑っている。
情報は、読者もご存じの事が多々有るだろうけれど、今私が伝えたい事に絞って書くことにする。


日刊紙各紙(朝日、毎日、その他)の報道やweb上各サイトの情報は、まだ錯綜しているところだが、
今日(1月15日)の読売新聞によると、今回の地震と'95「阪神淡路大震災」は、学術的にも酷似しているらしい。記事を「まま」引く。

*** 
 ハイチ大地震、規模・仕組み「阪神」に酷似
 中米ハイチを襲った地震は、発生の仕組みや規模、地理的状況などが、1995年1月の阪神大震災とそっくりだった。
 米地質調査所(USGS)の速報値などから、日本国内の専門家らが指摘している。
 どちらの地震も、断層の岩盤が左右にずれる「横ずれ型」で、ずれた断層面の長さは約40キロ・メートル。地震のエネルギーを示すモーメントマグニチュード(Mw)は、ハイチが7・0、阪神大震災が6・9。震源の深さも、ハイチが13キロ・メートル、阪神が約15キロと、ほぼ同じだった。

 八木勇治・筑波大准教授は、「ハイチの地震波からは、激しい揺れが約15秒間にわたって続いたことが読み取れる」と指摘。「近くに大都市があると、悲劇的な破壊をもたらすタイプの地震。首都が断層のすぐ近くにあったことで、大きな被害につながった」と話す。

 一方、USGSとは別に地震波を解析した名古屋大地震火山・防災研究センターの山中佳子・准教授によると、今回の地震では、長さ30キロ・メートル、幅15キロ・メートルに及ぶ断層面が約10秒かけて最大3・8メートルずれた。震源の深さは約9キロ・メートルで、Mw7・1と計算された。
 Mwが0・1増えると、地震のエネルギーは約1・4倍になるため、ハイチの地震は阪神大震災に比べ、1・4~2倍程度、エネルギーが大きかったとみられる。
 阪神大震災の時と同様、今回活動した断層も、大地震を引き起こす可能性がかねて指摘されていた。

 八木准教授は「適切な対策が行われていれば、犠牲者を減らすことができたのではないか」と話している。
                                                   (2010年1月15日07時08分 読売新聞)
                                                                        ***

この災害の学術的、科学的、解明は、時間の経過に任せる他無いが、生命の救済と、社会の安定とは、待った無しに行われねばならぬ。

世界各国は、救援策を打ち出した。

<ハイチ大地震>各国が支援表明 救援活動始まる
1月14日21時40分配信 毎日新聞

 ハイチに対し、国際機関や各国政府は14日までに相次いで緊急支援を表明した。主な支援額は米国と世界銀行がそれぞれ1億ドル(約92億円)、国連1000万ドル、オーストラリア930万ドルなど。

 ハイチの首都ポルトープランスには14日、中国の救助隊60人や支援物資を積んだ米空軍輸送機が到着、外国からの救援活動も始まった。米国は陸軍空挺(くうてい)部隊最大3500人や海兵隊2000人、空母、病院船を派遣する。

 オバマ米大統領は14日、ホワイトハウスで会見し、「米国の軍事力や外交の総力を挙げてハイチを支援する」と述べ、長期的な支援をする方針を示した。ロイター通信によると、米政府は医療関係者1万2000人をハイチ派遣に向けて待機させているという。
                                                 【ニューヨーク小倉孝保、ヒマニ庭田学】

ニュースに有るように、
 米国は「隣人として」と「隣人であるが故に」との大きくは二つの理由で即座に行動を起こしている。
この時期に、不遜ではあるが敢えて記すと、
米国にとっての最悪のシナリオは、ハイチからの「難民」の流出と、その流入であろう。カリブの海に出張った空母のミッシヨンにおける「First Priority」は?と、少々勘ぐってしまう。

中国の素早い行動は、既に国交の樹立している台湾をにらんでの、自国の存在感のアピールと、将来的な外交関係樹立に向けた「地震外交」を推進する狙いとみられる。

 新華社電などによると、国際救援隊50人は現地時間14日未明に、救助機材と救援物資約20トン、救助犬3頭を伴ってハイチに到着。工兵チームが直ちにPKO隊員の捜索を行うとともに、医療チームも臨時病院を設置し、ハイチ住民への診察治療に当たっている。無事だった中国のPKO隊員も救援活動に加わったという。(毎日新聞)

日本は、14日時点で、500万ドルの無償供与を決めたが、15日に成ってやっと、人的援助の(医師団)決定に至った。NGO活動団体の方が、はるかに対処が早かった。

広義には、「天災」は防ぐべくもない。しかし、狭義には『防ぐ事の出来た「天災」』があろう。
だが、今はまだそれは語らず、被災者の無事と、ハイチの救済を、ただひたすら祈ろう。

この先、「天災」が「人災」として紙面を賑やわすだろう。既に、建物の瓦礫の山に、その兆候を指摘する声が多々ある。その時私たちは、再度熟考し、声をあげよう。


                       

ブログトップの、ポルトープランスの写真とそっくりである。上の写真は、1995年1月17日の神戸である。

  1995年(平成7年)1月17日火曜日午前5時46分、兵庫県南部地震によって「阪神・淡路大震災」は発生した。 

死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名
避難人数 : 30万名以上
住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
被害総額 : 約10兆円規模
以上が、2010年現在の公式な発表。

15年たった今でも、震災の傷跡は、其処此処に、寧ろ外形に表れないところに残る。
心の癒しは、被災者たちには、訪れがたいやもしれぬ。
しかし、彼らの忍耐強い頑張りと、その精神力とは必ずや、他人の人生をも含めて、被災者個々の血となり受け継がれるはずだ。

2010年1月17日午前5時46分、日本のあちこちで鐘が鳴るだろう。
読者は、観光として定着した、ルミナリエのある、東遊園地公園に鐘があるのをご存じだろうか?

      東遊園地公園の鐘http://www.youtube.com/watch?v=I0f2Rwjx8Dw

澄んだ大気を震わせて響く鐘の音に乗せて、静かに、穏やかに、哀悼と感謝の黙祷を捧げたい。


最後に一通のコメントを紹介して、この回を終えよう。あの日、日本では、全ての人が被災者であったという事を心に刻みながら・・・。


***
   2010-1
    1月17日が近付くと、15年経った今でも胸が騒ぎます。

遠く九州の地で震災を知り、すぐに神戸の弟と友人達へと電話を入れたのですが、通じるわけもなく(そんな当たり前の事に気付かぬ程動揺していたのです)後ろ髪引かれる思いで出勤した事が、ありありと蘇えります。
その後、被災者達からの連絡があるまでの何日か何時間か、私自身と私の家族とは、心情としての被災者でした。現地のあわただしさは、彼らの生活の変化と、行動とにより、遅ればせながら、ほんの少しではありますが理解しましたが。

友人は、全壊した西宮の借家を引き払い九州に戻り、当時高校球児だった彼の息子は、今では元気に長唄を教えています。時は留まる事がありません。○○さん達もご無事で何よりでした。
15年目の冬がまたやってきます。どうぞ健やかにお過ごしください。
                                        ***


・・・お詫び・・・

  この回のブログ記事は、1月16日の夜にUPするつもりで、下書き草稿として保存してあった積りでしたが、操作を誤り、15日に中途半端な形で公開に成っていました。訪問して下さった読者の方々にお詫び申し上げます。
今後注意致します。どうぞ、ご容赦のほど。


***
1月16日(土)14:00現在、ハイチの地震による被災死者は、15万人に上るであろうとの速報が伝えられた。


greeting

2010-01-11 23:39:51 | Report
Hi Guys,

I wish you and your loved ones a very happy and musical 2010!

2010 will be a busy year for Jazzguitar.be, I have lots of new
ideas in the pipeline. 2009 was a bit of a slow year for the
website because I had other things to do, like remodeling my
house and office, which is nearly finished.

2009 has been good to the forum though, thanks to you and the
other members.

That's all for now, you'll hear from me soon...

Best Wishes,


とまあ、別のサイトでの挨拶を流用したところで、ここからは日本語で。

僕が管理人のs23k16です。何人かのomksruのうちの一人ですが。
このブログで独り言ちてくれるメンバーはまだまだ沢山居るのですが、管理人としても、ご挨拶をしない訳にはいかん、との思いで書きこんでいる次第です。
ただ、僕は日本語でしゃべると話が長くなる傾向にあって、仲間内からは少々敬遠されているみたいですが、何とか肝に銘じてそこのところ、気を付けようとこの正月誓ったところであります。
どうぞお見知りおきを。

さて、基本的に僕の順番では主に、音楽の事を独り言ちる事になります。それしかないから・・・。
しかし今日は、pre-settion という事で、昨年の事を語りたいと思います。音楽とはあまり関係が無いけれど、悪しからず。「物言わぬは腹膨るる業なり」との言い伝えもありますし。

昨年は、多くの友人や、一方的に憧れていたり尊敬していたりした人々が鬼籍入りした。
○○さんや△△さんと書いても、読者は興味がないだろうから、皆の良く知っている人の事。


緒形拳。



『白野ー』、女子大の小さな箱での公演だったが、チケットがとれなかった。とても残念。昨年NHKの追悼番組でやっと観れた。普通の一人芝居だけれど(歌舞伎ではないのだけれど)最後の台詞に、大向こうから掛け声がかかった。

「~それは男の、心意気ー。」
「緒形ッ。」
新国劇は、良く知らないのだけれど、島田正吾の時も掛け声はあったのかしらん。



『ゴドー』、写真の共演者は、串田和美。調べればわかるけれど、めんどくさいので、確か2003年か04年。とてもよかった。

個人的には、『復讐するはー』のギラギラした彼が一番好きかもしれないが。
ご冥福を祈る。


筑紫哲也。



写真は左から
「こちらデスク」の頃、「週刊金曜日」創刊準備のころか?、そして晩年。
 
生前二度ほどお会いした。
1992年夏、
「週刊金曜日」の創刊準備九州地区の幹事会。
読者及び九州地区拡販員代表の一人(創刊前の読者とはおかしな話だが)として、初代編集長・発行人の和多田進氏と共に訪れた筑紫さんと、半日ほどご一緒させていただいた。
その後、「月刊金曜日」という準備号の発行までおよそ一年間、faxや手紙でのやり取りがあって、はれて創刊?された「月刊金曜日」の第二号には、僕の冗長な投稿を採用していただいた。「金曜日」の第一号の投稿として、投稿欄の最初に掲載された我が名前を見つけた時、どんなに嬉しかったことか。懐かしい。

2005年5月?(記憶違いかもしれない、もっと前かも)
 別府のビーコンプラザ。
 マイスキーをどうしても聞きたくて出張ったホールのロビーでバッタリお会いした。コンサート終了後、のこのこと筑紫さんの後に従い楽屋まで訪問させてもらった。狂喜乱舞。
その後、近くの居酒屋で酒とタバコを供に話が弾んだのは言うまでもない。「金曜日」の話よりも、その夜のマイスキーの話から始まり、(マイスキー)~(オペラ)~(リング)~(丸山眞男)~(1969年)~~(アンドレ・カンドレ)~(また音楽)~、止めどなく話が弾んだ。
驚いたことに、(アンドレ・カンドレ)を含めて、筑紫さんの膨大な交友の集合と貧弱な僕のその集合に、CAPしている部分があって、とうとう二人とも入店したときに買い求めたタバコが空になるまで話し込んでいた。
そうか(アンドレ・カンドレ)は「ニュース23」のエンディング・テーマ歌ってたもんなぁ。

そのようにして、月日が過ぎ、09年11月彼の死を知った。
TVを通して(こちらデスク)、雑誌を通して(朝日ジャーナル)、そしてまたTVを通して(ニュース23)、さらに(金曜日)、(たくさんの著書)(2回の面談)を通して僕は人生の指針を示す人に出会い、そして失った。

それでも、今でもこれから先も、筑紫さんは僕の心の中にいてくれるだろう。彼の死から二カ月余りすぎて今、「丸山眞男集」をまた読み始めた。ご冥福を心から祈る。

尊敬するもう一人の顕学、立花隆氏も病を得ているとのこと、世の常とはいうものの、心が寒い。

というわけで、長々とセンチメンタルな昨年の思いを綴ったけれど、これですっきりと今年の独り言へと進める気がします。お付き合いありがとうございました。

このブログで、色々な事を吐き出して、より良い明日が迎えられるようにと、祈りつつ、次回からは、楽しいレッスンをお届しましょう。

今夜はこの辺で、もうじき夜が明けますから。



まず第一にー。

2010-01-06 22:24:36 | Report
2010/01/06

登場人物をとりあえず設定しましょうか。

   何人かの男女、雄雌、たちが独り言を綴ります。

   いろいろな事、楽しい事、辛い事。

   今日は私です。お見知りおきの方もあるやもしれませんが、名前は伏せておく事にします。

  今日の独り言。


   朔日の清潔き寒さに

   我は知る

   死はまた生の一部成りしと


       とまあこんな所です。

       人生色んな事がありますが、まぁ順番が狂っていなければ、それで良しとしましょうか。


                       ではまたいつか。