サッカー日誌 / 2007年10月17日


’80年代の日本サッカー(中)


記者席から見た代表チーム
(10月4日「日本サッカー狂会」出版記念会)

◆1960年代は「クラマー系」
 『日本サッカー狂会』出版記念のトークショーで、都並敏史さんが「1980年代の日本のサッカー」を語ったのを聞いた。選手として代表チームの内側にいた立場からの話である。
 そのころ、ぼくは読売新聞のスポーツ記者だった。それで「記者席から見た1980年代の日本のサッカー」は、どんなものだっただろうか、と振り返ってみた。
 記者席からサッカーを見続けてきた立場からいえば、1980年代の日本のサッカーは、いろいろな意味で過渡期である。
 1960年代に、ドイツから来たコーチのデットマール・クラマーさんが、日本のサッカーを改革し、代表チームは1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを取った。
 その後、1970年代前半までは、クラマーさんのコーチとしての直弟子であった長沼健、岡野俊一郎が代表チームの監督を務めた。いわば「クラマー系時代」である。

◆実業団の日本リーグ系
 1970年後半に二宮寛、下村幸男が日本代表の監督を務める。それぞれ三菱重工、東洋工業の監督だった人で、いわば実業団(会社チーム)からの「日本リーグ系」である。どちらも、クラマーさんの影響は、それほどは受けていない。クラマーのサッカーから、さらに抜け出そうと試みているように、記者席からは見えた。
 1980年代の森孝慈監督は、選手としてクラマーの指導を受けた組である。この世代の日本代表選手は、ヨーロッパに何度も遠征して試合をして、サッカー先進国のサッカーを、当時としては数多く体験している。国内では「日本リーグ」の実業団チームでプレーした。その世代が指導者になった。いわば、当時としての「新世代監督」だった。その次の石井義信監督は日本リーグのフジタ工業を優勝に導いた「日本リーグ系」である。
 このころは、クラマー後のいろいろな試みが入り乱れた過渡期だったように思う。

◆読売クラブ育ちの選手
 選手のほうは、もっと入り乱れていた。1980年代はじめの若返りで、読売クラブの選手たちが加わったからである。読売クラブは現在の東京ヴェルディ1969の前身である。会社や学校のチームでない欧米型のクラブ作りをめざしていた。実業団チームではじまった日本リーグには遅れて入ってきて、創設14年目の1983年に初優勝した。
 読売クラブでは、自由奔放に選手が育った。都並敏史や戸塚哲也などである。そういう選手たちが、代表チームに入ってきて、大学チームや会社チームの選手たちの中に混じった。それが、1980年代の代表チーム内「不協和音」の一因だったのではないか。
 そういう状況を「記者席から見ていた」と言いたいところだが、正直にいうと、ぼく自身はスポーツ記者ではあったが、必ずしも客観的立場にいたわけではない。読売クラブには、創設にも運営にも深くかかわっていた。「二足のわらじ」だった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
«  ’80年代の日... ’80年代の日本... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.