『平和の芽 語りつぐ原爆・沼田鈴子ものがたり』
横山秀夫・著/講談社1995年
歴史のことも、わりときちんと書かれてあります。若い人に向けられて書かれてあると思います。ここに等身大の人間の人生がある……といってもいいのではないでしょうか?
沼田鈴子さんは、語り部として有名な方だと思います。
有名ならセレブとかいって、世の中をなめている人たちとは関係のない方です。
沼田さんとアオギリの関係も、有名な話だと思います。下「」引用。
「鈴子は原爆で片足をうしないました。そのとき二十二歳。結婚式をあげる三日まえのことでした。原爆によって、足も、青春も、お嫁にいく喜びも、よき母になる夢も、すべてうばわれたのです。鈴子は、生きることに絶望し、死をえらぼうとしました。
しかし--。
鈴子は長い時間をかけて死の淵から立ちあがりました。きょうを、あしたを、せいいっぱい生きようと誓ったのです。その力を鈴子にあたえたのが、ほかでもない。この被爆したアオギリだったのです。」
当時、後に「十五年戦争」といわれる長い戦争を日本はしていました。
そんな戦争をしていると、街の景色もかわります。下「」引用。
「女学校の行き帰り通る道ばたの店です。その店のウインドーには、たくさんの義手や義足、松葉づえなど、体が不自由な人のための装具がならんでいました。当時は、戦争で傷つく人も多く、そうした専門の店が街にいくつもあったのです。」
今の時代も戦争や紛争があるところでは、このような方たちが増えます。
広島逓信局(現在の中国郵政局)で働く沼田さん。
その運動場に植わっていた大木をみる。
鈴子が生まれたころ、この世に生を受けたあのアオギリ……。
戦争があると、夏休みなどがなくなったそうです。
「楽しいはずの夏休みは、「夏期練成期間(かきねんせいきかん)」とされ、子どもたちはみな、合宿をして軍隊のきまりを学んでいたのです。」
そのアオギリも被爆。燃えていたという……。
家族のはげましなどで、沼田さんは学校の先生に。
10フィート映画運動で、35年前の沼田さんの映像をみることに……。
1983年3月、被爆体験をはじめて話す。
相手は修学旅行で広島にきた東京の高校生。
のちに「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」をつくる江口保さんの紹介。
たくさんの人たちに語られます。
その中には、ツッパリたちもおり、ツッパリたちはやさしかったという。
もくじ
横山秀夫・著/講談社1995年
歴史のことも、わりときちんと書かれてあります。若い人に向けられて書かれてあると思います。ここに等身大の人間の人生がある……といってもいいのではないでしょうか?
沼田鈴子さんは、語り部として有名な方だと思います。
有名ならセレブとかいって、世の中をなめている人たちとは関係のない方です。
沼田さんとアオギリの関係も、有名な話だと思います。下「」引用。
「鈴子は原爆で片足をうしないました。そのとき二十二歳。結婚式をあげる三日まえのことでした。原爆によって、足も、青春も、お嫁にいく喜びも、よき母になる夢も、すべてうばわれたのです。鈴子は、生きることに絶望し、死をえらぼうとしました。
しかし--。
鈴子は長い時間をかけて死の淵から立ちあがりました。きょうを、あしたを、せいいっぱい生きようと誓ったのです。その力を鈴子にあたえたのが、ほかでもない。この被爆したアオギリだったのです。」
当時、後に「十五年戦争」といわれる長い戦争を日本はしていました。
そんな戦争をしていると、街の景色もかわります。下「」引用。
「女学校の行き帰り通る道ばたの店です。その店のウインドーには、たくさんの義手や義足、松葉づえなど、体が不自由な人のための装具がならんでいました。当時は、戦争で傷つく人も多く、そうした専門の店が街にいくつもあったのです。」
今の時代も戦争や紛争があるところでは、このような方たちが増えます。
広島逓信局(現在の中国郵政局)で働く沼田さん。
その運動場に植わっていた大木をみる。
鈴子が生まれたころ、この世に生を受けたあのアオギリ……。
戦争があると、夏休みなどがなくなったそうです。
「楽しいはずの夏休みは、「夏期練成期間(かきねんせいきかん)」とされ、子どもたちはみな、合宿をして軍隊のきまりを学んでいたのです。」
そのアオギリも被爆。燃えていたという……。
家族のはげましなどで、沼田さんは学校の先生に。
10フィート映画運動で、35年前の沼田さんの映像をみることに……。
1983年3月、被爆体験をはじめて話す。
相手は修学旅行で広島にきた東京の高校生。
のちに「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」をつくる江口保さんの紹介。
たくさんの人たちに語られます。
その中には、ツッパリたちもおり、ツッパリたちはやさしかったという。
もくじ