磯野鱧男Blog [平和・創作・本・京都・元祖藤村屋ファンクラブ]

藤村屋さんは関西のソールフードの店。鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

知っていますか?ハンセン病と人権一問一答 第3版

2009年11月22日 | 読書日記など
『知っていますか?ハンセン病と人権一問一答 第3版』
   神美知宏、藤野豊、牧野正直・著/解放出版社2005年

「はじめに」で書かれあります。下「」引用。

「「ハンセン病問題はもう終わった……」という認識が、社会にはひろまっています。一九九六年に「らい予防法」が廃止され、国に対しておこされた「らい予防砲」違憲国家賠償請求訴訟の裁判で、二○○一年五月、原告の主張を認めた判決が出されました。その後国が控訴を断念し、九○年におよんだ国のハンセン病政策の誤りが認められたからです。
 しかし、ハンセン病療養所に入所している人びとのほとんどは、社会にもどることができていません。社会復帰している人たちも地域での生活がしづらい状況です。−略−」



ハンセン病を理解すること……。下「」引用。

「ハンセン病を理解することは、これまで、日本におけるハンセン病政策がどのような歴史をたどってきたのか、そして今なお、どういう問題が存在しているのか、知ることからはじまります。たんなる知識の積み重ねるのではなく、かつてハンセン病だった人びととその家族が、安心して生活できるような社会をつくっていくことではないでしょうか。そのために一人ひとりが何をしていけばいいか、何ができるかを真摯に考え、とりくむことが大切です。」

「放浪する患者」……。下「」引用。

「ハンセン病は歴史上、人びとにもっとも嫌われた病気の一つです。洋の東西を問わず、その嫌われかたがとても煮ているというのも不思議です。社会からのいぶりだし、「放浪する患者」の出現、救済、隔離、撲滅といった道程が、必ずといってよいほど、どこの社会においてもとられているのです。どうしてこれほどまでにこの病気は嫌われたのでしょうか。その最大の理由はす、変形と機能障害です。−略−」

「らい予防法」 下「」引用。

「隔離されるべき病気というのは、“感染力がきわめて強く、死亡率が非常に高い”という二つの条件が同時に求められます。ハンセン病は本来、病原性のきわめて弱い細菌による感染症で、しかも死に至ることのきわめてまれな病気でありながら、隔離の対象として法律に定められたことにより、しだいに「強烈な伝染病」というレッテルがはられてしまいした。−略−」

プロミンはなかなか手に入らず。下「」引用。

「一九四三年という年は、太平洋戦争の真っただ中で、敵国であったアメリカで開発された特効薬プロミンは、当然日本には入ってきませんでした。日本にプロミンが入ってきたのは戦後の一九四七(昭和二二」年頃のことです。このプロミンという薬は静脈注射でしか使えなかったのですが、その後改良が加えられ、ダプソン(DDS=プロミンをより精製したもの)という錠剤として商品化され、世界中にひろまっていきました。その結果、ハンセン病は可治となり、社会でも治療できる病気へとなるべきでした。−略−」

WHO……。下「」引用。

「一九八○年代の初め、WHO(世界保健機関)が中心となって新しいハンセン病の治療指針を提唱しました。これが多剤併用療法(MDT)といわれているものです。多剤併用療法の主役はなんといってもリファンピシンで、これに免疫制御的に働くと考えられているクロファミジンと従来からのダブソンとを加えたものです。三剤を用いる理由は、耐性菌の出現する確立を抑えるところにあります。とくにクロファミジンを用いることにより、治療の途中で往々にしておこってくる免疫反応の軽減につながるという利点もあります。この免疫反応は、後遺症をひきおこすことが多く、また、治療を長びかせがちで、患者に多大な苦痛を与えます。
 多剤併用療法の出現により、ハンセン病の治療法はほぼ確立されたと考えられます。しかし、微生物と抗生物質との戦いは際限というものはなく、リファンピシン耐性菌の出現も少しずつ報告されてきており、この面での新しい研究成果が期待されています。」

隔離政策に反対した小笠原登医師。

隔離政策をすすめた者たち。下「」引用。
 
「そして、一九五一(昭和二六)年一一月八日、参議院厚生委員会に参考人として呼ばれた国立ハンセン病療養所の三園長、光田健輔と菊池恵楓園長宮崎松記、多摩全生園長林芳信が、異口同音にハンセン病患者への隔離の強化を求めたました。とくに光田と宮崎は、隔離に対する強制力をもっと強めるように主張、また、光田は患者の家族への断種まで要求しました。こうした療養所長の反撃に遭い、当初の厚生省の治癒者に退所を認める方針は破綻してしまったのです。−略−」

断種をさせた事情? 下「」引用。

「一九一五(大正四)年、全生病院(現・多摩全生園)の院長となった光田健輔は、患者の逃走を防ぐために男性患者の性欲を満足させようと考え、院内で男性患者と女性患者の結婚を認めますが、男性患者が断種手術(輸精管を切断する避妊手術)を受けることを条件としました。以後、男性患者への断種は患者管理に有効とされ、他の療養所にも普及していきます。しかし当時、ハンセン病患者に対する断種手術を正当とみすな法的根拠はなく、司法省(当時)などの黙認のもとに、断種が実施されたのです。」

中絶、新生児殺し……。下「」引用。

「そうなると、妊娠九か月では「優生保護法」にもとづく堕胎は不可能であり、違法な堕胎がおこなわれたことになります。新生児殺しの可能性もあります。戦後においてもハンセン病療養所では信じがたい違法行為がおこなわれていた疑いがあります。−略−」

キリスト者と、真宗大谷派なども加担した「無癩県運動」 下「」引用。

「−略−絶対隔離を推進するたろめに重要な役割を果たしました。これには癩病予防協会、あるいはキリスト者を中心とした日本MTL(Mission To Lepers)や真言大谷派の光明会などの宗教団体も参加し、患者のいぶりだしをおこないました。隣人が患者を密告し、医師や警察官が飛んできて、患者を隔離していく光景が全国各地で展開され、「紀元二六○○」にあたる一九四○(昭和一五)年に一万人隔離の目標を達成したのも、「無癩県運動」の成果でした。」

植民地・占領地でも絶対隔離政策。

沖縄、琉球立法院は、1961年「軽快退所」や在宅治療を明記した「ハンセン氏病予防法」を可決。

歴史『日本書記』に612年に、百済から「白癩」の者が渡来したと記録されているという。
−−16世紀フランシスコ会が京都に「癩病院」建設。

偏見・差別は終わったわけではないという。下「」引用。

「現代になってもハンセン病に対する偏見はけっしてなくなっていません。かえって偏見・差別は
より個人的となり、しかも陰湿化してきています。」






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