磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ヒロシマの母の遺産

2008年02月26日 | 読書日記など
『ヒロシマの母の遺産』
   石田明・著/労働教育センター1981年

性差別はしてはいけないと思うけど。さいきん、南アフリカをドラマにした映画をみました。母性がしっかりした人が登場。すばらしいと思いました。偉大だとやはり思いました……。



カンフルを母に注射したという。下「」引用。

「医者の遠いわたしの家では、ながわずらいの母のことも気づかって、カンフル注射を三、四本もとめて用意していました。わたしは、日ごろ医者のおこなう手順で、手ばやくカンフル注射を一本、二本とつづけざまに母の腕にうちました。」

そして、医者が来たという……。下「」引用。

「「ご臨終です」
 医者はそういって手を合わせました。
 ときに、昭和二三年一一月一四日、午前二時半、母シゲノ、五○歳の生涯を閉じたのです。」

母の思い出。それは原爆と切り離せないようです。下「」引用。

「息子の一人を原爆で失い、もう一人の息子を、文字通りの不眠不休の看病によって死の淵から救い、そしてみずからはその看病づかれもあって、病にたおれた一人のヒロシマの母、わたしは母とのふれあいを回想するなかに、生命を産み、育てる母親のつよさとやさしさを感じています。」

そして、子供のころを思い出す著者。
女子をいじめて、母から「弱い者いじめ」をするなと叱られたという。

軍隊での生活では、母からの短い手紙がたのしみで、待ちわびたという。
面会に来られた時のことも楽しい思い出だったようです。

--広島に原爆投下。
中国新聞社あたりから、流川あたりまで夢中で逃げたという。

途中、参謀中佐が陸軍病院までつれていけというが、「伝令であります」挙手の礼とともに思わず叫んでいたという。

--)原爆症で寝込む、息子(著者)のため、あちこちから情報をいれ看病する母。
柿の葉がいい、カボチャ、サツマイモ……。
しかし、著者は、全身に血の斑点、吐血、鼻血、血便……。

兄の思い出。
--兄のいるところ爆笑があったという。
芝居の一座で、村祭りなどで、万雷の拍手をうけていたという。

母、肺浸潤。
--高価なペニシリンを手に入れたいと思われたが、手に入らず……。

市電で被爆した著者。下「」引用。

「わたしは一七歳のとき、爆心地から七五○メートルの市内電車のなかで原爆に遭いました。兄とふたりで乗っていたのですが、満員電車の真ん中にいたために即死した人たちの下敷きになり、奇跡的に無傷で電車の外へ這い出ることができました。」

電車内被爆者の証言


山城光明さんの文章も掲載されていました。

被爆二世の史樹(ふみき)さんの本『ぼく生きたかった』の紹介を「結びにかえて」で書いてあります。

ぼく生きたかった 被爆二世 史樹ちゃんの死

1969年広島県原爆被爆教師の会結成、会長に就任。
1972年全国被爆教師の会連絡会結成。
1976年「石田原爆訴訟」勝訴。



石田明さんの逝去を悼んで









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