磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ひろしま平和の歩み

2006年08月05日 | 読書日記など
『ひろしま平和の歩み』
   (編集発行)広島平和文化センター1973年

うすい本ですが、この本ではじめて
出あうことも書かれてありました。



兵庫からも救護もかけつけことが書かれてあります。下「」引用。

「六日の午後から七日にかけて、安芸郡・佐伯郡・豊田郡などの各町村から、警察署・地方事務所・警防団・一般救護班などが来援し、道路整理・負傷者の収容・死体処理・生存者へのたき出しなどにあたった
。その後も、広島県下はもとより、中国地方の各県だけでなく兵庫県からも救護班が来援している。それらの数は、一○日間にわたって一日平均警察官一五○人、警防団員二、○○○人、一般救護班員三○○人、貨物自動車一三○台、また、周辺町村からは、一○日間に五○万人のたき出しが行なわれたという。」


科学者はすぐに広島にやって来られたという。下「」引用。

「すばやかった科学者の活動 当時の理化学研究所の仁科芳雄所長たちは、早くも八月八日に来広して検出した多量の放射能からこの爆弾が原爆であることを断定し、それにもとづく天皇御前会議への進言が終戦を決定せしめたといわれている。」


昭和27年8月に「原爆被害者の会」発足。
・「原爆に生きて」を発刊(昭和28年6月)
・原爆映画「ひろしま」の制作に当たって協力(28年5月〜8月)
・広島県選出国会議員に治療国庫負担要望書を発送(29年7月)

「浮浪者狩り」という言葉は当時の大人たちの精神荒廃をあらわしている言葉かもしれないと書かれてありました。

第二回の平和祭には驚きの一言です。
オーストラリア人たちの行為は横柄で横暴としか思えませんでした。

ドイツからの平和の鐘が贈られたそうです。

日本ペンクラブも平和宣言と書かれてありました。

資料センターについても書かれてありました。下「」引用。

「政府は、四八年八月、広島大学の「原爆放射能医学研究所」の施設を一部拡充して、被災資料の収集に役立てる方針を示したが、それは本来要求されている「資料センター」にはほど遠いものであり、運動は更に継続されている。」






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