磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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人形になったよう子ちゃん-原爆で子どもをなくした夫婦の物語-

2008年06月26日 | 読書日記など
『人形になったよう子ちゃん-原爆で子どもをなくした夫婦の物語-』
   大浦由美子・著/大浦由美子・写真/
     クリエイティブ21 2003年

この本は絵本かと思って手にしましたが、そうではありませんでした。絵本にしてもいいような作品だったように思えます……。



像の近くによう子ちゃん一家は住んでいたという。下「」引用。

「蔵満さんの自宅跡は、現在爆心地公園になっています。公園内の平和モニュメントの一つ、「平和を祈る子の像」の辺りだったようです。両手に折り鶴を持った女の子の像は、世界中の子供たちが二度と戦争の犠牲にならないようにとの願いが込められ、「長崎平和の折り鶴会」が、被爆二十周年に呼びかけ、一九六七(昭和四二)年に建立されました。」

被爆死したゆり子ちゃんは生前……。下「」引用。

「今でも当時を知る近所のおばさんたちは、「ゆりちゃんは踊りが上手やったもんね」と口をそろえるくらいです。大人顔負けの舞いが、周囲を驚かせたそうです。」

当時は物不足、特攻酒と呼ばれるものがあったという……。下「」引用。

「当時の酒は、ガソリンを水で薄めたような粗悪品で、祖母たちは「特攻酒」と呼んでいたそうです。飲みすぎで目が見えなくなることもあったといいます。」

長崎では「弁太郎さん」を贈るという風習があったそうです。下「」引用。

「一九四五(昭和二十)年七月二四日。母の七つの誕生日でした。誕生日を祝う宴会の席に、蔵満さん夫婦も招待されました。そのとき、一体の「弁太郎さん」が贈られたそうです。
 長崎では、子供の健やかな成長を祈って、七歳の誕生日を迎える女の子に「弁太郎さん」を贈る習慣があったといいます。蔵満さん夫婦は、モタエさんが作った真っ赤な着物姿の愛らしい「弁太郎さん」を、母のために持ってきました。」

蔵満とはよう子ちゃんの父母。
--贈られたのは著者の母。

その贈られたお人形は市松人形だったという。

そして、原爆投下。
--よう子ちゃんは亡くなる……。

モタエさんは著者の母に贈った人形が目にとまる。
その人形の着物は原爆でなくなった葉子(よう子)さんの着物とおそろいだったという。

そして、そのお人形をプレゼント。

--『人形になったよう子ちゃん-ナガサキ原爆物語』の劇の公演がナガサキであったというテレビ・ニュースを見たという。

……著者の母は電話をかけたという。

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