『占領下の「原爆展」 平和を追い求めた青春』
小畑哲雄・著/かもがわ出版1995年
占領下に「原爆展」をやった京大の学生さん。それだけでなく、京都の他の大学の学生や、神戸の学生、丸物の人たちも支援していたようです。大きなことをするには、やはり人の力は大切なものだろうと思います。「綜合原爆展」では、講演会もあり大田洋子も参加……。
同窓会? は祇園ばやしのひびく中で。下「」引用。
「一九九二年七月一一日、祇園祭の鉾が立ちならぶ四条通りをすこし北に上がったところにあるホテルで、一つの集まりが開かれました。-略-一九五○年代の初め、京都大学に在学していた人々です。そのほかに京都工芸繊維大学、大阪大学、大阪女子医科大学(現在の関西医科大学)などに、そのころ在学していた人々もいました。当時、京大の教官であった方々もみえていました。」
1960年、世界平和協議会から、綜合原爆展を主催した京大同学会は「平和賞」を受ける。
--それを記念して小冊子「平和を求めて追うべし」が出版。
この小冊子に、湯川秀樹博士が文章をよせる……。
--アメリカが、朝鮮半島で原爆を使うことを計画。
原民喜は、この記事に前途の希望を失い、鉄道に飛び込み自殺。
この危機意識が、「わだつみの声にこたえる全学文化祭」となったという……。
--その春の文化祭の原爆展で、入場者は四○○○人を越えたという。
この文化祭で、「原爆に関する講演会」。
1 あの原爆被害調査団の一員であった理学部の木村毅一助教授
2 標本を示しながら原爆症の抗議を毎年続けていた医学部の天野重安助教授。
3 小説「屍の町」の作者大田洋子。
学園新聞に掲載された大田洋子の言葉。下「」引用。
「「こんなひどい目にあった私たちはこの時こそ多くの人びとに知らさなければならないのよ。政治的にでなくても、人間として組織的に抵抗しなければ駄目」
「私達現場にいた作家はほかのすべての仕事をすてても、原子爆弾について書きつづける義務があると思う」」
1949年、ソ連の原爆「開発」
1950年、永井隆博士の『この子を残して』、原民喜の『夏の花』、峠三吉の『原爆詩集』出版。
--出版されたのは、ソ連の原爆開発によるだろうと著者は考える……。
1951年、「京大天皇事件」によって、著者は「無期停学処分」を受けたという。
しかし、著者はその場にはいなかったという。
原子力を平和利用としている人たちもいたようです。
著者のいなくなった京大--。
そして、ボクの生まれる前(1957-58年)のことであるが、京大は宇治に原子炉をつくろうとした。阪大も京大も自分さえ良ければいいという態度にはあきれました。
↓の本に書かれてあります。
原子力 闘いの歴史と哲学
【磯野鱧男の感想】
核兵器禁止などの運動を被爆者の方がされているとき、アジアの人たちは日本がおこなったあの戦争のことを訴えられる。--そのことで、もう意見を受け付けてもらえない場合があるという。
彼らも核戦争となれば被害を受けることは確実なのだが……。
そして、これらの費用が福祉などに使われれば、よりよい社会が作られるというのに……。
人殺しと、恫喝にしか役立たないことにお金を出している……。エネルギーを使っている。
--京大の原爆調査をした人たちの跡を引き継ぐ。
このように、立派な働きだけでなく、負の遺産にも目を向けていただきたいものだ……。
731部隊の石井四郎は京大出身で、その部隊には京大の人たちが多かったという……。
これらのことを学者として追究していただきたいと思う……。
花の幻 続・平和を作る人たち
そうしないと、いくら正しいことを言っても受入れてもらえない。
--本当に平和を求めるならば……。
負の遺産も忘れないでいただきたい……。
【関連記事】
昭和天皇への公開質問状など展示 京大「戦後の学生生活」展
目 次
小畑哲雄・著/かもがわ出版1995年
占領下に「原爆展」をやった京大の学生さん。それだけでなく、京都の他の大学の学生や、神戸の学生、丸物の人たちも支援していたようです。大きなことをするには、やはり人の力は大切なものだろうと思います。「綜合原爆展」では、講演会もあり大田洋子も参加……。
同窓会? は祇園ばやしのひびく中で。下「」引用。
「一九九二年七月一一日、祇園祭の鉾が立ちならぶ四条通りをすこし北に上がったところにあるホテルで、一つの集まりが開かれました。-略-一九五○年代の初め、京都大学に在学していた人々です。そのほかに京都工芸繊維大学、大阪大学、大阪女子医科大学(現在の関西医科大学)などに、そのころ在学していた人々もいました。当時、京大の教官であった方々もみえていました。」
1960年、世界平和協議会から、綜合原爆展を主催した京大同学会は「平和賞」を受ける。
--それを記念して小冊子「平和を求めて追うべし」が出版。
この小冊子に、湯川秀樹博士が文章をよせる……。
--アメリカが、朝鮮半島で原爆を使うことを計画。
原民喜は、この記事に前途の希望を失い、鉄道に飛び込み自殺。
この危機意識が、「わだつみの声にこたえる全学文化祭」となったという……。
--その春の文化祭の原爆展で、入場者は四○○○人を越えたという。
この文化祭で、「原爆に関する講演会」。
1 あの原爆被害調査団の一員であった理学部の木村毅一助教授
2 標本を示しながら原爆症の抗議を毎年続けていた医学部の天野重安助教授。
3 小説「屍の町」の作者大田洋子。
学園新聞に掲載された大田洋子の言葉。下「」引用。
「「こんなひどい目にあった私たちはこの時こそ多くの人びとに知らさなければならないのよ。政治的にでなくても、人間として組織的に抵抗しなければ駄目」
「私達現場にいた作家はほかのすべての仕事をすてても、原子爆弾について書きつづける義務があると思う」」
1949年、ソ連の原爆「開発」
1950年、永井隆博士の『この子を残して』、原民喜の『夏の花』、峠三吉の『原爆詩集』出版。
--出版されたのは、ソ連の原爆開発によるだろうと著者は考える……。
1951年、「京大天皇事件」によって、著者は「無期停学処分」を受けたという。
しかし、著者はその場にはいなかったという。
原子力を平和利用としている人たちもいたようです。
著者のいなくなった京大--。
そして、ボクの生まれる前(1957-58年)のことであるが、京大は宇治に原子炉をつくろうとした。阪大も京大も自分さえ良ければいいという態度にはあきれました。
↓の本に書かれてあります。
原子力 闘いの歴史と哲学
【磯野鱧男の感想】
核兵器禁止などの運動を被爆者の方がされているとき、アジアの人たちは日本がおこなったあの戦争のことを訴えられる。--そのことで、もう意見を受け付けてもらえない場合があるという。
彼らも核戦争となれば被害を受けることは確実なのだが……。
そして、これらの費用が福祉などに使われれば、よりよい社会が作られるというのに……。
人殺しと、恫喝にしか役立たないことにお金を出している……。エネルギーを使っている。
--京大の原爆調査をした人たちの跡を引き継ぐ。
このように、立派な働きだけでなく、負の遺産にも目を向けていただきたいものだ……。
731部隊の石井四郎は京大出身で、その部隊には京大の人たちが多かったという……。
これらのことを学者として追究していただきたいと思う……。
花の幻 続・平和を作る人たち
そうしないと、いくら正しいことを言っても受入れてもらえない。
--本当に平和を求めるならば……。
負の遺産も忘れないでいただきたい……。
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