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歴史の旅 10 長州・薩摩・土佐-維新の群像-

2010年01月22日 | 読書日記など
『歴史の旅 10 長州・薩摩・土佐-維新の群像-』
   千賀四郎・著/小学館1974年

司馬遼太郎の小説のことなどが、ときどき出てきました。



司馬遼太郎の宗城評……。下「」引用。

「この話は司馬遼太郎が『伊達の黒船』の中で紹介している。水戸の藩邸ではのときの宗城の水際だった振舞いが評判となり、斉昭は長女を嫁がせようとしたほどである。-略-司馬遼太郎は宗城を評して、「宗城が江戸城大広間詰の末席のぶんざいで諸侯のあいだで独特の位置を占めるようになったのは、その卓抜な時勢眼のほかに、こういう円転滑説な社交能力によるものだろう」と述べている。-略-」

またも、司馬作品……。下「」引用。

「司馬遼太郎の短編『重庵の転々』は吉田伊達家が舞台となっている。土佐人の山田重庵は藩主の腫物を治したばかりに、思いがけない遍歴をたどるのだが、その山田仲左衛門の事跡についてはそれ以上のことをわたくしは知らない。」

『坂の上の雲』は……。下「」引用。

「当時城下では、次のような歌が歌われていたという。
  長州とろとて我が国とられ
    猫に紙袋であとにはう
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、そのあたりから筆を起こしている。」

鹿児島の方言。下「」引用。

「鹿児島の人々は現在でも、独特な方言を使っている。しかしその方言は、たとえば映画やテレビドラマに登場する「薩摩隼人」の、あの第一人称が「おいどん」、第二人称が「おはん」、そして会話のしまいにだけ「ごわすぞ」といった式の語尾をくっつけるしゃべり方とは、まったく似ても似つかぬものである。県人同士の方言での日常会話は、実際のところ他郷の人々が聞いても、何が何やらさっぱりわからない。そして他郷の人と話すときには、鹿児島の人々は実にきれいな標準語を使う。-略-」

支配し続けられた……。下「」引用。

「-略-島津忠久と名乗るようになった。彼が初代で、以来明治維新に至るまで、島津氏の子孫がずっと南九州を統治することになる。これくらい長年月にわたり、同じ領主が同じ土地を支配し続けた例は、日本ではほかに例がない。」

吉田松陰はペスタロッチ。下「」引用。

「吉田松陰は、日本におけるペスタロッチにも比すべき教育者である。だが今日、日教組はほとんど彼をかえりみない。第二次大戦中、吉田松陰があまりにもゆがめられて宣伝され、その苦い思い出があまり強いからである。しかし、そのために彼ほどの巨人を見忘れることは許されない。かえって今こそ、彼の真の姿を正当に見直し、現在のゆがんだ学校教育を正すべき時である。」

松下村塾のおこり……。下「」引用。

「松下村塾というとき、人はともすると吉田松陰が終始主宰した村塾であるかのように思っているが、実は松下村塾の名は天保十三年(一八四二)に叔父玉木文之進の家塾につけたのが始まりで、松陰自身もここに学んでいる。文之進の家塾はその後、嘉永二年(一八四九)まで続き、のち閉鎖になった。
 嘉永六年、こんどは叔父久保五郎左衛門が家塾を開き、その名を踏襲した。-略-」

人の師にみだりになってはいけない……。下「」引用。

「吉田松陰は、「妄(みだ)りに人の師となってはならない。本当に教えなくてはならないことがあって初めて人の師となりうるのである。また妄りに人の弟子になってはならない。師を求むる前にまず自分の心や目標が定まって、それにこたえてくれる師を求めなくてはならない。学問するうえでいちばん大切なことは、思うことがありながらその思いを達せず、なすべきことがありながら、その方法が明らかでないためにとまどっている状態にあることである。この時こそ学を求め、師を求める時である」と言っている-略-」

そもそも、ティーチング・マシーンでしかない教師とは異なりますね……。

吉田松陰の遺言状……。下「」引用。

「わたしの死を悲しまないでほしい。わたしの死を悼むということはわたしの志を継いで、それを実現させることである。それ以外にわたしの死を悼むということは決してないのだ。諸君の協力した行動だけを切望する」というものであった。これによって、塾生たちの動揺する心を引き締めたのである。」

高杉晋作は西洋の書物を読書した。下「」引用。

「師の松陰があれほど書を読みながらも、れそはほとんど日本と中国のものに限られ、経済的知識に比較的暗かったのを思って、高杉は特に西洋の書物、それも経済の本を主として読み、国政を変革する方向と方法を必死になって究明した。そこに久坂玄瑞の助言もおおいに働いている。」

西郷が馬関を素通りしたのは……。下「」引用。

「西郷が馬関を素通りしてしまったのは、幕府の第二次長州征伐を阻止するため、急遽京に上る必要があったからである。
 幕府が愚劣きわまる第二次征長を考えたのは、第一次のときに長州があまりにも容易に全面降伏をしたので、自己の力を過信したためである。-略-」

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