『丸山真男話文集1』
丸山真男・著/丸山真男手帖の会・編/みすず書房2008年
被爆体験も書かれてありました……。
すりかえと現実……。下「」引用。
「秩序とか、愛国心とか、道徳の振興とか、そういった抽象的な言葉自体にはだれも反対しない。ところが実はそういう抽象的な言葉は、具体的なシンボル(「君が代」とか「伊勢神宮」とか「教育勅語」とか)と結びついている。その具体的なシンボルはまた一定の社会的構造から生まれ、それと深い関係にある。だから時代や社会が変わると、同じ言葉がちがったシンボルとと結びつくようになるが、革新勢力がまだ力が弱く、新たなシンボルを作り出せないでいるうちは、古いシンボルが「秩序」とか「道徳」とかいう言葉を独占しているから、伝統や因襲に反抗する運動はすぐさま「無秩序」とか「反道徳」といったレッテルをはられる。ほんとうは旧秩序と新秩序、旧道徳と新道徳とのたたかいなのだが、それが容易に秩序と無秩序というようにすりかえられるのである。」
お祭りも悪用される場合があるという……。下「」引用。
「お祭りを通じて昔ながらの村落共同体的な強制--つまり村八分的な現象--が強化されたり、あるいは、それを通じて顔役の支配が固められてゆく。そうなると、お祭りの復活には明らかに反動的な政治的意味がまつわってくることになる。このケジメをはっきりつけることが大事なのである。」
おみこし主義の日本……。下「」引用。
「日本人のいちばんいけないところは、おみこし主義であります。平生、町で気にくわないところへわざとおみこしをぶつけてガラスなんか破って行く、その場合、責任の所在がないわけです。こういう例は認の何処にもあります。日本の戦争責任にしても究極的に責任のもって行きどころがないのです。満州事変までワッショイワッショイかついでいったおみこしを今度は別の人がかつぐ、そうやってどんどんかついで行くうちにとうとう谷へ落っこちてしまった。つまり敗戦となったわけですが、その場合、戦争責任は誰が負うか、満州事変の責任者、支那事変の責任者は、それぞれ自分はここまで担いだだけで後は知らないということになって、誰も責任を取るものがないのです。」
広島での講演……。下「」引用。
「一九七七年五月二五日、午後四時三○分から丸山を迎えて広島大学平和科学研究センターの第一二階研究会が同大学で開かれた。
センター長(当時)・関寛治東京大学教授の紹介に続いて行われた「'50年前後の平和問題」と題する丸山の講演は二時間に及んだ。丸山が広島を訪れたのは、一九四五年二月に召集令状を受け取り、広島市宇品町の陸軍船舶司令部に応召、四月に参謀部情報班に転属、八月六日司令部前で点呼朝礼中に被爆、そして九月に召集解除になって復員して以来、三二年ぶりのことであった。講演の当日、丸山は被爆三日後に写真撮影をしつつ歩いた爆心地付近の道をたどった。
以下の記録は、当日の丸山のスピーチを広島大学平和科学研究センター(センター長(当時)・松尾雅嗣広島大学教授)から提供されたカセット・テープをもとに復元したものである。-略-」
手帳の申請はしなかったという……。下「」引用。
「なお、丸山は本文中にある通り、被爆者健康手帳交付の申請をしておらず、また原爆慰霊碑に納められる原爆死没者名簿にも名前は記されていない。そして、丸山の「香典類は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上残った場合には、原爆被災者に、あるいは原爆被災者方の制定運動に寄付する」という遺志に従い、やむを得ず受け取った香典類は、遺族の手によって、丸山が設立以来賛助会員として協力してきた財団法人第五福竜丸平和協会に寄付された。
初出『手帖』第六号、一九九八年七月。」
index
原爆投下時のことも書かれてある……。下「」引用。
「丸山 そうです。点呼が終わってから、今度は各班ごとに分かれる。情報班も報道班も一緒になり、コの字型に整列し直して、参謀の訓話を聞くわけです。毎朝。私たちの部屋の隣が参謀の部屋なのです。その参謀は少佐ですが、参謀の訓話を聞いていたときなんです。参謀は、塔を背にして海の方を見ていたのですね。
私たちは、塔の方を向いてコの字型に整列しています。私は、ちょうど塔に向いていました。
訓話を聞いていたところ、突然目の前が、目がくらむほどの閃光がしました。閃光がしたと同時に、私がおぼえているのは、二間ぐらい先に立っている参謀の軍帽がプーッと飛びました。上へ。ピューと飛びましたね。それで、ハッと思った途端に、もう整列していた兵隊は、算を乱して走り出していたのです。-略-」
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丸山真男・著/丸山真男手帖の会・編/みすず書房2008年
被爆体験も書かれてありました……。
すりかえと現実……。下「」引用。
「秩序とか、愛国心とか、道徳の振興とか、そういった抽象的な言葉自体にはだれも反対しない。ところが実はそういう抽象的な言葉は、具体的なシンボル(「君が代」とか「伊勢神宮」とか「教育勅語」とか)と結びついている。その具体的なシンボルはまた一定の社会的構造から生まれ、それと深い関係にある。だから時代や社会が変わると、同じ言葉がちがったシンボルとと結びつくようになるが、革新勢力がまだ力が弱く、新たなシンボルを作り出せないでいるうちは、古いシンボルが「秩序」とか「道徳」とかいう言葉を独占しているから、伝統や因襲に反抗する運動はすぐさま「無秩序」とか「反道徳」といったレッテルをはられる。ほんとうは旧秩序と新秩序、旧道徳と新道徳とのたたかいなのだが、それが容易に秩序と無秩序というようにすりかえられるのである。」
お祭りも悪用される場合があるという……。下「」引用。
「お祭りを通じて昔ながらの村落共同体的な強制--つまり村八分的な現象--が強化されたり、あるいは、それを通じて顔役の支配が固められてゆく。そうなると、お祭りの復活には明らかに反動的な政治的意味がまつわってくることになる。このケジメをはっきりつけることが大事なのである。」
おみこし主義の日本……。下「」引用。
「日本人のいちばんいけないところは、おみこし主義であります。平生、町で気にくわないところへわざとおみこしをぶつけてガラスなんか破って行く、その場合、責任の所在がないわけです。こういう例は認の何処にもあります。日本の戦争責任にしても究極的に責任のもって行きどころがないのです。満州事変までワッショイワッショイかついでいったおみこしを今度は別の人がかつぐ、そうやってどんどんかついで行くうちにとうとう谷へ落っこちてしまった。つまり敗戦となったわけですが、その場合、戦争責任は誰が負うか、満州事変の責任者、支那事変の責任者は、それぞれ自分はここまで担いだだけで後は知らないということになって、誰も責任を取るものがないのです。」
広島での講演……。下「」引用。
「一九七七年五月二五日、午後四時三○分から丸山を迎えて広島大学平和科学研究センターの第一二階研究会が同大学で開かれた。
センター長(当時)・関寛治東京大学教授の紹介に続いて行われた「'50年前後の平和問題」と題する丸山の講演は二時間に及んだ。丸山が広島を訪れたのは、一九四五年二月に召集令状を受け取り、広島市宇品町の陸軍船舶司令部に応召、四月に参謀部情報班に転属、八月六日司令部前で点呼朝礼中に被爆、そして九月に召集解除になって復員して以来、三二年ぶりのことであった。講演の当日、丸山は被爆三日後に写真撮影をしつつ歩いた爆心地付近の道をたどった。
以下の記録は、当日の丸山のスピーチを広島大学平和科学研究センター(センター長(当時)・松尾雅嗣広島大学教授)から提供されたカセット・テープをもとに復元したものである。-略-」
手帳の申請はしなかったという……。下「」引用。
「なお、丸山は本文中にある通り、被爆者健康手帳交付の申請をしておらず、また原爆慰霊碑に納められる原爆死没者名簿にも名前は記されていない。そして、丸山の「香典類は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上残った場合には、原爆被災者に、あるいは原爆被災者方の制定運動に寄付する」という遺志に従い、やむを得ず受け取った香典類は、遺族の手によって、丸山が設立以来賛助会員として協力してきた財団法人第五福竜丸平和協会に寄付された。
初出『手帖』第六号、一九九八年七月。」
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原爆投下時のことも書かれてある……。下「」引用。
「丸山 そうです。点呼が終わってから、今度は各班ごとに分かれる。情報班も報道班も一緒になり、コの字型に整列し直して、参謀の訓話を聞くわけです。毎朝。私たちの部屋の隣が参謀の部屋なのです。その参謀は少佐ですが、参謀の訓話を聞いていたときなんです。参謀は、塔を背にして海の方を見ていたのですね。
私たちは、塔の方を向いてコの字型に整列しています。私は、ちょうど塔に向いていました。
訓話を聞いていたところ、突然目の前が、目がくらむほどの閃光がしました。閃光がしたと同時に、私がおぼえているのは、二間ぐらい先に立っている参謀の軍帽がプーッと飛びました。上へ。ピューと飛びましたね。それで、ハッと思った途端に、もう整列していた兵隊は、算を乱して走り出していたのです。-略-」
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