磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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長崎医科大学潰滅の日-救いがたい選択“原爆投下”-

2009年06月08日 | 読書日記など
『長崎医科大学潰滅の日-救いがたい選択“原爆投下”-』
    小路敏彦・著/丸ノ内出版1995年

長崎医学と医科大学略年表:p125~129
口絵写真・「瓦礫の教室を応急修理しての講義」



「長崎医科大学の誕生」は華々しかったようだ。下「」引用。

「明治二十五年(一八九二)三月七日、長崎市郊外の浦上山里村は小雨模様の生憎の天候であった。しかし、これまでの車の行き交う大通り一つなかった浦上川沿いの山裾に広がる寒村は、この日朝から全村あげての賑わいに沸いていた。-略-」

医学部長の名は吉田健康(一八四六-九七)。

第五高等中学校校長嘉納治五郎らが来賓。

アンゼラスの鐘の浦上天主堂の隣に、長崎医科大学のグランドがあった……。

永井隆のことも書かれてあった。下「」引用。

「物療科学教室は外来本館二階と内科教室の一室に分散疎開していた。永井隆助教授が部長として、教育、診療の指導を行っていたが、当日の休講で学生はいなかった。被爆時、永井助教授は自室でレントゲンフィルムをより分けていた。-略-」

「遺族の手記の中から ●野津恭(学部一年生)……兄・野津彰」下「」引用。

「-略-
 永井隆先生は郷党の先輩であり、親しく指導をうけ、先生の様子を詳しく知らせてくれた。思えば高校生活と医大生としての生活が、お前の短い人生の中で、最も充実し、また楽しく、生甲斐のある時期ではなかったろうか。(後略)  (昭和44年9月24日)〈『忘れな草』第三号より〉」

歌碑……。下「」引用。

「そして、裏には、
 傷つける 友をさがして 火の中へ とび入りしまゝ 帰らざりけり   永井隆
と、四面いずれも生き残ったものの万感の想いが刻まれている。」

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「附属病院長・内藤勝利教授の圧死」
--8月1日の空襲で病院は250キロ爆弾6発が命中。
9日朝から残った図書を病院新館の一室に整理することになった。下「」引用。

「「この本も助かってよかったね」といかにも嬉しそうに水浸しになった黒焦げの洋書に手を触れた。-略-
 運命の一瞬はその直後に来た。-略-十一日午後、焼け残った産婦人科一階の廊下で大きな梁が転がっている下に上着、巻ゲートル姿で発見された。すぐ側の白壁には手形の血痕が残っており、頭上に落下した梁により脳挫傷、失神そして死亡が推定された。」

久野文次郎・学部四年生。下「」引用。

「-略-この日、調教授、木戸助教授から応急の外科的処置をうけた。その後、故郷の病院で左手三指を切断する手術をうけ、久野君は奇跡的に一命を取りとめた。戦後、小児科助教授、福岡県下の病院長などを勤めたが、左手に巻いた包帯は外れることがなかった。」







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