磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原発崩壊-1973年→2011年 樋口健二写真集-

2011年09月26日 | 読書日記など
『原発崩壊-1973年→2011年 樋口健二写真集-』
   樋口健二・著/合同出版2011年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「原発被曝労働者という原発問題の核心に迫る渾身の記録。
原発を38年もの歳月をかけて写し撮ってきた、報道写真の金字塔。」



建設は前は美しかった……。下「」引用。

「柏崎刈羽原発の建設前、黒松に覆われた荒浜自然公園は美しかった。松林はブルドーザーのキャタピラに無惨につぶされ荒涼とした風景が広がっていた。(1979年3月5日、新潟県柏崎市)」

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バラ色の宣伝……。下「」引用。

「東北電力巻原発の建設が予定されていた新潟県巻町区長会の面々が、東北電力がさしまわしたバスで、若狭湾一帯の原発基地見学名目で一泊旅行に招待された。敦賀原発に寄り、バラ色の宣伝に耳をかたむけていた。(1977年7月、福井県敦賀市)」

「誰が原発を推進してきたのか」 下「」引用。

「日本の原発建設への歴史をひもとけば、中曾根康弘元首相の名前がよく出てくる。彼こそ原発推進の第一人者ではないだろうか。
 原発列島への道を歩みだしたのは1954年(昭和29年)のことである。日本はまだ戦後の貧しさの中にあった時代だ。原子力研究開発予算が国会へ提出されたのが、1954年3月のことである。このときの予算作成メンバーは、中曾根康弘、稲葉修、斎藤憲三、川崎秀二の4名であった。
 翌年の1955年6月には、日米原子力協定が仮調印されるという早急さであった。さらに8月に入ると第一回原子力平和利用国際会議が開催され、中曾根が参加した。すさまじい積極姿勢がみてとれる。」

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「原子力の父」=正力松太郎。下「」引用。

「同年(*1955年)11月には、読売新聞の社主であり、科学技術庁長官に就任すると同時に原子力委員会初代委員長も兼務した正力松太郎(故人)が、原子力行政に関わりを持つようになったる1957年8月、茨城県東海村に設置された日本原子力研究所の地鎮祭で鍬入れを行ったのは正力である。
 以後、読売新聞は原発推進の方向性を明確にして今日に至る。-略-
 原子力政策を推進したことから正力松太郎が「原子力の父」と呼ばれるゆえんもここにある。中曾根は1959年に科学技術庁長官と原子力委員長に就任し、正力と共に原発推進役をつとめた。」

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病気になって……。下「」引用。

「近くで働ける魅力は大久保さんも同じであった。病気になってはじめて原発労働の恐ろしさを自覚するのであった。(1978年10月、福島県双葉町)」

台湾の被害者……。下「」引用。

「4人の子どもを残し原発の犠牲となった欧萬居さん(享年34歳)。遺影の若さが悲しみを一層深める。(1988年10月、台湾新荘市)」

ミイラ……。下「」引用。

「土葬後6年目に掘り出して壺に移そうとしたところ、肺臓やその周辺が腐敗しておらず欧さんは司法解剖に付された。その結果、一般人の1000倍もの放射能が検出され、大きな問題に発展した。(1988年10月、台湾新庄市、遺族の写真から)」

構造的暴力……。下「」引用。

「図表を見てもらうとわかるように、原発の労働形態は、電力会社→元請け(財閥系)→下請け(これより未組織労働者)→孫請け→ひ孫請け→親方(人出し業、暴力団含む)→日雇い労働者(農漁民、被差別民、元炭坑労働者、大都市寄せ場、失業者など)というピラミッド構造をなしている。この下請け多重構造の労働形態は石炭産業時代から引き継がれてきた。それぞれの要素は複雑に絡み合い、上から下へと賃金のピンハネがあり、二重構造の差別構造を形成している。-略-」

ボロ雑巾のように……。下「」引用。

「労災認定を勝ち取るには50ミリシーベルト以上を浴びていないと不支給となる。急性骨髄性白血病の場合でも、50ミリシーベルトに達していなければ認定基準からはずされてしまうのである。
 原発労災が認定されたのは現在までわずか10人に過ぎない。私の取材した下請け労働者たちは、「放射性管理手帳」の存在すら知らず、自分がどれほどの放射線被曝を受けたのかさえ知らず、死亡したり、病気になったりしたあげく、ボロ雑巾のように捨てられてきたのである。」

自殺……。下「」引用。

「四国各地でしめだされた四国電力は、伊方でひそかに地主を買収、ボーリング調査の許可印と偽って契約書に押印させた。夫の留守に押印した妻は、事件が明るみに出るや自殺に追いやられた。」

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死亡、JCO事故……。下「」引用。

「被曝以後、体中の血管が破れ、ひどい斑点となった。ボロボロの身体が痛々しい。2011年2月7日、最高裁判判決を待たずして、大泉昭一さんは亡くなった。(2009年10月3日、東海村にある大泉工業の工場事務所)」

診断書は……。下「」引用。

「おかしいですよね。日本にはお医者さんや病院が明確な形でないなんてね、事故がひとたび起こると、病気になることがわかっていたはずなのに、臨界事故の診断書を書いてください、と村のみなさんが行っても「のどがただ赤いだけ」と言って、診断書は書けないと言われるわけです。私は、診断書は駆けないと言われるわけです。私は、臨界事故によるストレス性のうつ状態によるPTSDという診断書を東邦大学の医師に書いてもらいました」」

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