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中岡慎太郎 陸援隊始末記

2010年02月11日 | 読書日記など
『中岡慎太郎 陸援隊始末記』
   平尾道雄・著/中央公論社1977年

岩倉具視と中岡慎太郎はかなり深いな仲であるかのような表現があった……。



四天王の一人。下「」引用。

「土佐藩を、薩、長とならんで維新の勤王三藩の勤王三藩とよばれるまでの名声を盛りあげたのは、いうまでもなく「土佐勤王党」の献身的な愛国運動であった。その勤王党の中核となったのは郷士と庄屋であったといわれる。盟主武市瑞山はのち白札から留守居組まで昇格したが、もと長岡郡吹井の郷士であり、坂本龍馬も郷士の家に生まれた。吉村寅太郎は高岡郡檮原(ゆすはら)村の庄屋であり、中岡慎太郎は安芸郡北川郷の大庄屋であった。四人とも贈四位、「土佐勤王党」のうちでは、その功績をもっとも高く評価されたもので、四天王と呼ばれるのも偶然ではあるまい。-略-」

郷民の要請によって……。下「」引用。

「-略-中岡家は前記のごとく大庄屋断絶となったが、郷民の要請によって要七の長子小伝次が天保七年九月に新規大庄屋に任命された。名字帯刀御免の待遇をうけたのは、累代中岡家の功績と衆望によったものと思われるが、中岡慎太郎はその長男として天保九年(一八三八)四月に誕生、幼名は福太郎、のち光次と称し、慎太郎と改めたのは文久三年(一八六三)脱藩前後のことらしい。」

武市瑞山の道場にいた中岡。

松代・佐久間象山へ。下「」引用。

「中岡らは水戸城下を辞して関東平野を横ぎり、碓氷(うすい)峠を越えて、信州松代に閉居している佐久間象山をたずねた。海内(かいだい)の先覚としてみずから持している象山は、談論風発、攘夷の話になると、幕府のきずいた品川台場など無用の長物だと冷笑した。
「トルコはかつて海上に砲台を築いて英国人のもの笑いになった。およそ砲台の海面に突き出しているのは、まったく役に立つものではない。西洋砲術の進歩するにしたがって、海防の術もしぜん変らねばならぬ道理だ」
 象山はこう言って、椎の実型の尖弾(せんだん)をとりだして見せ、欧米の制度や文明のたくましさを説明するのである。中岡も、その博大な知識と高邁な意見におされて一言もなく、辞去するや門外で久坂と顔を見合わせ「今日は完全にまいった」と苦笑したそうである。(「維新土佐勤王史」)」

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「島津久光要撃」の失敗。

西郷と倒幕の約束。下「」引用。

「西郷からもすぐ快諾の返事があって、その夜、小松帯刀の御花畑の屋敷で、西郷、吉井と同席、互いに原を割って時事を語った。乾が西郷にむかって「藩論の如何を問わず、一カ月の余裕をあたられるならば、同志をひきいて倒幕の一挙にくわわろう」とちかい、中岡もそばから言葉をそえた。
「乾氏に、もし違約のことあらば、不肖割腹して諸先生におわび申すであろう」
 西郷はこれを聞くとしきりに膝をたたいて「愉快愉快」とよろこんだ。-略-」

初の岩倉具視との出会い。下「」引用。

「中岡がはじめて幽棲(ゆうせい)の岩倉卿をたずねたのは慶応三年四月二十一日、十津川郷士前田雅楽(うた)と同伴した。このことは、中岡の「行々筆記」にも「前田氏に逢ひ岩倉氏初て面会」とみえているが、「岩倉具視日記」にもつぎのように記録されている。-略-」

龍馬暗殺の場面を中岡が語っている……。
屋根づたいに逃げた中岡。

岩倉具視に遺言した中岡。下「」引用。

「「岩倉卿に、王政復古のことはひとえに卿の御力にたよっていると伝言をたのむ」
といった。」

岩倉泣く。下「」引用。

「岩倉具視は中岡の絶命を聞くと「自分の片腕をもがれた」と声をあげて泣いたという。十九日大久保一蔵にあてた手紙にも「この恨み必ず報ぜざるべからず」ともしたためられているので、その痛恨、哀惜の情が想像されるのである。」

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