磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆と祇園町

2006年05月27日 | 読書日記など
『原爆と祇園町』
    広島市祇園公民館(編)/
      広島市祇園公民館運営委員会s61年

この冊子は、広島市の公民館活動によって
できた本のようです。



はじめにこう書かれあります。下「」引用。

「このたび、祇園町被爆体験継承事業・編集委員の方々の苦労の成果として「原爆と祇園町」が発刊されるにあたり、深く感謝を申しあげるとともに、皆様型とともに喜びをわかちあいたいと存じます。-略-
  昭和六十一年三月三十一日(国際平和年)
     広島市祗園公民館
         館長 佐伯一幸」

一つの公民館が、その地区のことを、
きちんと伝えようと、アンケート調査などを
されて作成されたようです。

これは地区の人たちの貴重な
財産になったことだろうと思います。

貴重な写真などもあり、
慰霊碑などもあり、
地区の人たちの、熱い気持が
伝わってきます。

この祗園町内には、三菱、油谷の二大軍需工場があ
ったといいます。

戦後は軍需ではなく、鍋などをつくる民需になった
ようです。

戦時中には工場疎開や、地下工場を造られたようです。

工場疎開というのは、昭和21年1月から、
山間部工場を移そうとされたようです。
しかし、ガソリンがなく、牛車で
のろのろとしか進まず、生産もあまり
できなかったようです。

地下工場の建設は下「」引用。

「現在の祗園五丁目三十九番地ブロックの祗園中学校一帯(当時は松尾山の丘陵地)に、入口の高さ約二メートル、横幅約二・七メートル、中は高さ約三メートル、横幅約三・五メートルで、入口が五カ所ぐらいであり、奥行きは総延長百メートル近くもあった。そこに資材のみ蓄積し、終戦を迎えた。」

爆風で飛んで赤ちゃんをさがすことが書かれてあります。同。
「泣き声もせず、不吉な予感がして、恐怖心と不安であった。次の部屋にも居ない。その次の部屋のたんすの引き出しが開いている。見ると、その中に布団で素巻きにゆされて入っていた。かすり傷も負わないで、目をパッチリと開けていい子をしていた。爆風のいたずらにしては、何と温情のあふれる処置であろうかと、深く神仏に感謝した。」

原爆投下もその場その場で、いろいろな
状況があったようですね。

壁がふくらんで、一部のみ穴があいたなども
表現してありました。





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