『忘れな草 第二号』
旧長崎医科大学原爆犠牲者遺族会/
昭和四十四年二月十五日
永井隆博士がおられた、長崎医科大学の方たちが作られた冊子です。
この本には永井隆博士のことは書かれてありませんでした。
「忘れな草」を刊行されて、遺族の方や、長崎新聞でもとりあげられたという。下「」引用。
「−−原爆の犠牲になった旧長崎医科大学関係者の肉親の思い出の手記集「忘れな草」の一編である。みずからも肉親を失った調来助氏(長大名誉教授)が、同僚や若くして散った教え子たちをしのびながら、老骨にムチ打って刊行した。父が、夫が、子供が−−「グビロが丘」の悲劇に寄せる思いがにじんでいる。」
「「慰霊の水」と香華立て」という文章を調来助が書かれています。
その説明もされていました。下「」引用。
「「慰霊の水」というのは、口絵の写真にあるように、鶴を型どった石像で、その嘴から常時水が垂れるようになっている。−略−これで慰霊碑参拝の折りに口や手を清めることが出来るし、又植木に水をやることも出来、一石二鳥の名案であった。」
赤痢が流行っているから水を飲むなという遺族の方の当時の文章がありました。
息子さんの最後を書かれてあるのが印象に残りました。下「」引用。
「(※)医専一年生 平山真之 遺族・平山ナツ(母)「十二日頃からポツリポツリ当時の模様を話し出しました。原爆が落ちた時、窓際で講義を聞いて居りましたそうで、先生の「伏せッ」との声に机の下にもぐったそうですが、気がついて這い出し、その夜は防空壕で過し、翌十日ようやく汽車に乗って帰宅したのだそうでございます。
自分で命がないものと思ったのか、「お母さん、ボクは何一つ孝行もせず、今日まで勉強勉で暮しました。許して下さい」と、私の両手の指一本一本を撫でながら話しましたので、看護婦の久保さんも泣かれました。
真之は昭和三年十二月十五日生まれですから、死亡した八月十六日は丁度十六才八カ月でした。」
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旧長崎医科大学原爆犠牲者遺族会/
昭和四十四年二月十五日
永井隆博士がおられた、長崎医科大学の方たちが作られた冊子です。
この本には永井隆博士のことは書かれてありませんでした。
「忘れな草」を刊行されて、遺族の方や、長崎新聞でもとりあげられたという。下「」引用。
「−−原爆の犠牲になった旧長崎医科大学関係者の肉親の思い出の手記集「忘れな草」の一編である。みずからも肉親を失った調来助氏(長大名誉教授)が、同僚や若くして散った教え子たちをしのびながら、老骨にムチ打って刊行した。父が、夫が、子供が−−「グビロが丘」の悲劇に寄せる思いがにじんでいる。」
「「慰霊の水」と香華立て」という文章を調来助が書かれています。
その説明もされていました。下「」引用。
「「慰霊の水」というのは、口絵の写真にあるように、鶴を型どった石像で、その嘴から常時水が垂れるようになっている。−略−これで慰霊碑参拝の折りに口や手を清めることが出来るし、又植木に水をやることも出来、一石二鳥の名案であった。」
赤痢が流行っているから水を飲むなという遺族の方の当時の文章がありました。
息子さんの最後を書かれてあるのが印象に残りました。下「」引用。
「(※)医専一年生 平山真之 遺族・平山ナツ(母)「十二日頃からポツリポツリ当時の模様を話し出しました。原爆が落ちた時、窓際で講義を聞いて居りましたそうで、先生の「伏せッ」との声に机の下にもぐったそうですが、気がついて這い出し、その夜は防空壕で過し、翌十日ようやく汽車に乗って帰宅したのだそうでございます。
自分で命がないものと思ったのか、「お母さん、ボクは何一つ孝行もせず、今日まで勉強勉で暮しました。許して下さい」と、私の両手の指一本一本を撫でながら話しましたので、看護婦の久保さんも泣かれました。
真之は昭和三年十二月十五日生まれですから、死亡した八月十六日は丁度十六才八カ月でした。」
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