磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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母と子でみる50 青春の夢みる沖縄

2009年05月25日 | 読書日記など
『母と子でみる50 青春の夢みる沖縄』
   早乙女勝元・編/草の根出版会1999年

米軍問題と、沖縄戦……。



映画「カメジロー・沖縄の青春
準主役の仲村清子さん(表紙の人)。
--1995年「沖縄県民総決起大会」高校生代表で訴えた人。

著者は忘れることができないという……。下「」引用。

「沖縄といったら、私は、あの日を忘れることができない。
 戦後五○年の節目の年、一九九五年九月だった。
 夏休みが終わってすぐのこと、午後八時頃というから、そう遅い時間ではないはずだが、沖縄北部で、米兵三人による少女暴行事件が起きた。ノートを買って、自宅へ戻ろうとしていた女子小学生(一二歳)を、米兵らははがいじめにして車に押し込み、海岸へ拉致して、集団で襲うという残忍非道ぶりだった。
 しかも、米軍は日米地位協定をたてにして、すぐには犯人の引き渡しにも応じなかった。-略-」

沖縄県民総決起大会。下「」引用。

「一九九五年一○月二一日、宜野湾(ぎのわん)市の海浜公園広場で開かれた沖縄県民総決起大会である。設営された正面舞台には「米国人による少女暴行事件を糾弾し、日米地域協定の見直しを要求する」の大会名の下に、1. 米軍人の綱紀粛正と犯罪根絶 2. 被害者への謝罪と完全補償 3. 日米地位協定の見直し 4. 基地の整理・縮小の、四つのスローガンを掲げた。広場をぎっしりと、立錐の余地なく埋めつくした人びとの数は、八万五○○○人にも達した。」

ビデオをみた東京・下町の高校生。下「」引用。

「それから、二年ほどが過ぎた。沖縄から遠く離れた東京の下町、都立墨田川高校二年生の正岡義之君は、父親がたまたま入手したビデオ「平和な沖縄を返して」で、県民総決起大会の実写を見た。
 正味二五分ばかりにまとめられた映像だったが、彼は大いに感激した。暴行米兵を許すまじ立ち上がった大群衆の熱気もさることながら、同年配の女子高校生の訴えに、強く胸をゆすぶられたのだった。
「仲村さんは、誰りも輝いていました。ぼくはビデオを見終えたあと、とにかくすばらしいな、と思ったのです。-略-」

文化祭に協力した「ひめゆり学徒隊」の上江田千代さん。

「島ちゃび」と修学旅行……。下「」引用。

「ひめゆり慰霊碑の前は、かなりの人垣だった。順番待ちで記念写真をうつすグループがいれば、手すりを乗り越えてまで、碑の前の洞窟(どうくつ)内をしげしげと覗き込む者もいる。サングラスの若者たちだった。「島ちゃび」とは沖縄の方言で、島の苦しみという意味だそうだが、とうていそんな雰囲気ではない。」

アハシャガマ」……。下「」引用。

「岩の側面に、プレートがはめこまれていて、戦跡が記されていた。
「この壕はアハシャガマと称し、今時大戦(昭和二○年四月二二日頃)に防衛隊員が持込んだ爆雷によって、村民約百五十人もの尊い命が失われた集団自決壕である」
 当時は車道などはなかっただろうから、海に面した崖の窪みの、自然洞だったにちがいない。鬼気迫る恐るべき事件が発生したのは、四月二二日頃。というと戦闘の最終日だ。
 沖縄戦で住民の集団死がもたらされた離島の悲劇としては、渡嘉敷島などいくつか知られている。ぎりぎりまで追いつめられた住民たちは、捕虜となれば一人残らず殺されると信じこまされていたから、「いさぎよく自決せよ」との命令に、逆らう余地はなかったのだ。
 またスパイ容疑や、軍命令に違反した者も、殺されている。
 自決というと、自死・自殺と受けとられがちだが、日本軍の介入による間接的な殺戮行為だったといえるだろう。その証拠に日本軍が駐屯しなかった島では、そういう例は一件も起きていない。
 アハシャガマは、伊江島の観光地図にも出ていないけれど、見ることができのは、親切な運転手さんのおかげだった。」











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