磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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かくされた空襲と原爆

2008年12月27日 | 読書日記など
『かくされた空襲と原爆』
    高橋伸一・監修/小林啓治、鈴木哲也・著/機関紙共同出版1993年

「「京都の多くの文化財を守るために空襲の対象からはずされた」との話をほとんどの日本人が信じている。しかし、戦争末期の1945年初頭からの8ヶ月、府下で空襲による死者300人余、しかもそれは広島や長崎の原爆とも深い関係があったのだ。」



調査ではなし……。下「」引用。

「京都府立総合資料館に、一冊の報告書が所蔵されています。『戦災による銃後人口の減耗調査一件』--日本の敗戦から三年がたとうとしていた、一九四八(昭和二十三)年の五月、経済安定本部(現在の経済企画庁)の官房長の指示にもとづいて京都府が調査し、戦災被害の報告書です。-略-「戦災による銃後人口の減耗について 昭和二十三年五月二十三日……照會せられました標記の件、該当ありません」

しかし、実際は……。下「」引用。

「しかし、実際は-略-終戦間近の一九四五(昭和二十)年七月二十九日、舞鶴には大型爆弾が落とされ、九十名以上の被害がでた--このことは、今日、舞鶴の市史の中にもはっきりと記載されています。さらに翌日の七月三十日には、アメリカの艦載機による執拗な攻撃が舞鶴湾内に加えられ、市内や沖合の漁船にも被害が出ました。これも防衛庁に残る海軍の戦闘記録から明らかです。にもかかわらず、舞鶴市は、なぜ戦災被害がないと報告したのか。その理由を語る資料は、残されていません。
 少なくとも百名近い使者を出した空襲が、三年後には、記録から全く姿を消してしまい、それが政府による公式の調査記録となったことだけは明らかなのです。」

ウォーナー伝説……。下「」引用。

「第二部で詳しく述べているように、「アメリカが京都を空襲から救った」という伝説が、戦後のアメリカによる日本占領の中でつくられました。アメリカが、日本をその影響下におくための、喧伝だったということもできるのです。その意味で、京都空襲が「かくされた」ことは、京都に住む人々ばかりでなく、日本国民全体に大きな影響を与えたということができます。」

空襲のシーン……。下「」引用。

「一九三七(昭和十二)年七月二十七日午後七時三十分、京都市内の防護分団に、敵の重爆撃機が京阪神地区に向かっている、との情報が伝えられました。-略-サイレンと同時に、ネオンや街頭は消え、バスやタクシーもヘッドライトを消して止まり、家々の窓の光も失われて、町は闇に包まれました。-略-やかで、静まり返った京都の町に、洛北鞍馬の上空あたりから鈍い爆音がとどろいてきました。市内に置かれた三つの防衛陣地から、サーチライトの光が発せら、-略-高射砲や高射機関銃が一斉に火を噴き、その銃声が響く町の上を三機、また三機と、編隊を組んだ爆撃機が飛び去ります。
「四条寺町に焼夷弾ならびにガス弾投下、民家に火災を発生せり!」
「島原遊廓大門附近に、焼夷弾及びガス弾投下!」-略-」


原爆投下の演習としても投下されたという。下「」引用。

「「春日井の空襲を記録する会」の人々の調査などにもとづいて、このことにふれておきましょう。-略-この訓練用爆弾は、いかにもおおきく異様でした。しかも表面がかぼちゃの色をしたため、第五○九混成群団の兵士たちは、この爆弾を「パンプキン爆弾」と呼んだといいます。-略-米軍の資料によれば、七月二十九日には、舞鶴海軍工廠(米軍の目標名称としては舞鶴海軍基地)のほか、山口県の宇部港駅付近など宇部市内に三発、福島県郡山市内に二発、東京都保谷市と和歌山有田市にそれぞれ一発が落とされ、百五十名近くの犠牲者がでています。-略-」

京都新聞はどう報道したか? 下「」引用。

西陣空襲があった翌日の京都新聞(昭和二十年六月二十七日付)は、空襲について、
 二六日白昼敵一機は小型爆弾若干を京都へ投下した。被害は軽微、府民はもとより特に現場付近の住民は却(かえ)って士気大いに昂(あが)るものがあった。
と述べています。被害の状況、犠牲者がどれだけあったのかなどについてはまったく触れず、それどころか「肝を据え備えよ次の大空襲に」などの見出しで戦意高揚を強調しているのです。-略-」

1973年に「京都空襲を記録する会」が結成されたという。










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