ラヂオアクティヴィティ[Ra.] 第二部・国境なき恐怖 169殉職消防士 「問題は死の灰でした。四号炉から拡散された放射性核種のわずか二十パーセントだけがウクライナ共和国に降下し、十パーセントはロシア共和国内に落ち、残りの七十パーセントはベルーシアに降りました。チェルノブイリの直後、あるベルーシアの物理学者がミンスクの中央委員会へ行き、放射性降下物の危険を警告したが、彼は中央委員会の事務所自体の放射線レベルを測定しはじめるまでは、だれも本気にしなかった。ただし、そこの放射線レベルは低かった」 放射性物質があるところが危険であるということは、勇気にも理解できた。 「高いのはモギリョフとゴメリ周辺の田舎だけで、党幹部の子どもや孫のいるミンスクからは遠く離れているのです。そのためベルーシアの政治局には、キエフのウクライナ指導者たちが明らかにいだいていたような不安はまるきり存在しなかった。そのうえ、ミンスクは小さな都市なので、党の方針に疑問をさしはさむような地元の科学者や知識人は少なかったのです」 社会の上層部の人たちは安全な所にいたのか、勇気は感心していた。 そして、日本の原発でもそうであるという。 「核エネルギー研究所の核電子工学教授スタニスラス・シュシケヴィッチが放射線レベルの上昇に気づき、当局に電話して警告したところ、事態はすべて掌握していると説得されてしまった。その後、線量測定装置を没収されるが、教授はひそかに新しい測定器を製作したのです。そして、大学生たちに、ゴメリ地域で生産されたコンデンスミルクを試料につかって、放射線の測定方法を教えました。ベルーシアのなかで三十キロ圏に含まれている地域からの避難を指揮したのは、ホイニキ駐在の民間防衛軍管区長でした。ベルーシアの保健相サンチェフは、「最初のうちは経済界の指導者や市民の多くは無関心で、基本的な医学知識に欠けていた」ことを認め、モスクワの医事委員会の活動に協力することにしたという」 画面に五か月後と文字がでる。 「AP通信が伝えたモスクワ発の外電記事には、ウクライナの原子力技術者が語ったところによれば、彼の友人らが、キエフのふたつの病院で働いていた。この友人たちは、事故から五か月のあいだに、少なくとも一万五千人のチェルノブイリの被害者が二つの病院で死亡したと訴えていたという」 あのときのことは、確実な情報というのが手に入らなかったと勉は思う。 「多くの難民が、三十キロ圏内だけで十三万五千人が南の大都市キエフに向かい、さらに黒海へと大移動しました。この十三万五千人が、後の公式発表の数字として十万人前後まで急激に減少しているのです。原発職員の町プリピャチに働いていた人たちが、ソ連の全土に新しい就職口を与えられる形で分散させられたことも、この大量被曝者の集団統計を想像すれば、容易に理解できます。分散することによって、大量の死者が何ごともなく葬られてゆくというのです。しかし避難民は、三十キロ圏内だけではなかった。危険地帯の指定は、まず十キロから三十キロへ広げられ、やがてずっと後日になって八十キロまで拡大されたのです」 画面では、地図にマークされた赤い部分が広がっていく。 「データ隠匿は一九八六年七月二十七日になっても続きます。ソ連邦保健省第三局は、事故処理作業遂行下での秘密体制の強化について、事故の結果を秘密にすること、治療の結果を秘密にすること、チェルノブイリ原発の事故処理参加者の放射線被曝の程度に関する情報を秘密にすることなどをソ連邦保健省第三局長シェリジェンコの名で発したのです」 そんなことをしたら、被害者はますます増えるだろうに、この人たちには赤い血は流れていないのだろうかとナンシーは思った。 「ミンスクのガン研究所の所長は、同じ敷地内に放射線医療研究所があり、人体や植物や食べ物や、土壌に蓄積された放射能を調べています。そこでは事故後四年にわたってデータを集めていました。しかしこれらのデータが全部入った二台のコンピューターが盗まれてしまったのです。フロッピーディスクもハードディスクも一緒に。後に犯人として三人の未成年の若者が逮捕されました。彼らは単に機械を売り払ってお金にしようとしただけだと当局は説明しましたが、人々はそんなことを信じませんでした」 ミス・ホームズは単なる泥棒なら、データは戻ってくるはずじゃないの? と疑問をもらした。 そして原因の追求。 「死人に口なしです。関係者は全員が首を切られ、口を封じられました。最も立場の弱い運転員がすべての責任をとらされ有罪にされたのです。それは、原子力潜水艦の事故のいつもの処理の仕方と同様でした。しかし、これはスリー・マイル島の事故に見られたパターンでもあります。国境をこえた原子力を推進する人たちの思考パターンのようです」 スリーマイル島の事故のときにも、大手マスコミと研究者の人たちとの情報の格差に驚いたものである。 「無実であろうと有罪であろうと、ブリュハーノフと同僚の被告たちは、投獄されただけでなく、それ以上の苦しみを背負いました。ジャトロフはチェルノブイリで五百五十レムの放射線を被曝したが、刑務所での貧しい食事と最低限の医療しか受けなかったために、出所したときは老けて見え、わずか三年間で十五歳も年齢をへたかのようだったという」 写真がうつっていおり、確かにそうだと思う茶の間の勇気の祖父。 「しかし、それだけでは、政府はすませませんでした。“臆病者”は糾弾されたのです」 場面は一転して、うなだれて椅子に腰をかけている一人の中年の男が映し出される。次々と非難の言葉がこの男に浴びせられる。 「裏切り者!」 「おまけに、臆病で利己的だ!」 「彼は自分勝手に行動した。コミュニストじゃない!」 「市委員長には、復旧作業に参加したいと希望する手紙が山ほど来ているのに、われわれの部下は腰ぬけばかりだ。きれいごとを並べて、言い訳などするな!まさに本物の臆病者だ。もう君の協力は必要ない。臆病者の居場所はここにはない」 そして彼はメンバーに採決を求める。 全員が除名と決めた。 末席に立ったままの技師はこれを見て、上着の胸の辺りにとめていた名札の中からカードを取り出し、彼の隣で議事の進行を記録していた男に手渡す。 男たちは黙ってこの様子を見つめている。 もとのアナウンサーたちがうつる。 「事故直後の死を賭けた消防士たちの働きを知り、感動したアメリカのニューヨーク州シェネックダデイ市の消防士たちは、さようなら勇気あるチェルノブイリの同志たちよ、と刻んだ殉職消防士をたたえる記念額を贈りました。これに対して、イギリスの全消防士組合は、チェルノブイリと同様の原発火災が発生した場合、われわれは出動を拒否する、と声明したのです」
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