『母と子でみる43 生命をみつめる-杉原領事とレーロチカのパン-』
早乙女勝元・編/草の根出版会1998年
図書館の説明文。下「」引用。
「第二次世界大戦時、多くのユダヤ人救出に力を尽くした日本の一外交官、杉原千畝の足跡を追った旅日記。リトアニアとロシアの二つの国を歩き、体験者の貴重な証言を多数紹介、生命の尊さを考える。」
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「リトアニアでは、かつての首都カウナスに日本の一外交官、杉原千畝氏の足跡を追いましたが、陰ながら杉原氏を支えた方にお会いできて、直接にいろいろうかがえたのは幸せなことでした。それこそ心のあたたまるひとときでした。次いでロシアに入り、サンクトペテルブルクでの歴史の一コマに注目しましたが、戦慄すべき極限状況にありながらも、幼女の形見のパンを残し得た人たちには、改めて畏敬(いけい)の年を強くしました。レーロチカの食べ残しのパンの一片は、なんと大きく、すがすがしく見えたことか。
いついかなる時代といえども、人が人として生きるには、「パンのみ」ではなかったことを、リトアニアでもロシアでも共にこころに刻むことができました。先行き不透明の混沌(こんとん)とした現実に、いささか明日への展望を得たような思いで、ペンを進められたのは嬉しいことです。」
レーロチカのパンの写真があります。下「」引用。
「ロシアのサンクトペテルブルグの工芸専門学校に展示されているレーロチカの形見のパン。横に添えた10円玉と比較してみたい。」
1997年3月29日、西鎌倉の杉原家で、著者は幸子夫人と会談する。
--ユダヤ人協会の隣に杉原顕彰碑「月光」が建っているという。
「第九要塞強制収容所」 下「」引用。
「一九四○年、リトアニアがソ連に併合されると、いくつもの要塞群は、たちまちにしてソ連管理の刑務所となり、その後第二次世界大戦が激化してドイツ軍に占領されるや、今度はナチ支配下の暗黒時代のシンボル的存在=強制収容所となる。四四年、ドイツ軍が敗退すると、またまたソ連へとバトンが移るのだから、話はひどくややこしい。
つまりソ連時代にの、社会主義を信じてファシズムに抵抗した者は、ナチに徹底的にやられ、そのナチに多少ともなびいた者は、今度はソ連のひどい迫害に遭った。時計の振子ではないけれど、支配者がかわるたびごとに、いやという目にあったというわけだ。それ自身が、大国のはざまにあって翻弄されつづけてきたリトアニアをはじめ、バルト三国の悲劇の歴史を象徴しているかのようである。」
「杉原コーナーでほっと一息」 下「」引用。
「収容所跡は元要塞だけあって、監視塔のある赤レンガの外回りはもちろんのこと、内部もやけに堅固な造りになっている。-略-
奥まった一部屋に、杉原コーナーがあった。リトアニア語のほかにローマ字で、CHIUNE SUGIHARA(1900-1986)と標示されたプレートで、それとわかる。
入ったとたんに、杉原氏の肖像写真が、正面に大きく掲げられていた。多くのユダヤ人を救出した日本人外交官ということで、ごく最近の杉原氏に関する資料が並んでいる。-略-」
「残されたターニャの日記」も掲載されていました。
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もくじ
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早乙女勝元・編/草の根出版会1998年
図書館の説明文。下「」引用。
「第二次世界大戦時、多くのユダヤ人救出に力を尽くした日本の一外交官、杉原千畝の足跡を追った旅日記。リトアニアとロシアの二つの国を歩き、体験者の貴重な証言を多数紹介、生命の尊さを考える。」
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「リトアニアでは、かつての首都カウナスに日本の一外交官、杉原千畝氏の足跡を追いましたが、陰ながら杉原氏を支えた方にお会いできて、直接にいろいろうかがえたのは幸せなことでした。それこそ心のあたたまるひとときでした。次いでロシアに入り、サンクトペテルブルクでの歴史の一コマに注目しましたが、戦慄すべき極限状況にありながらも、幼女の形見のパンを残し得た人たちには、改めて畏敬(いけい)の年を強くしました。レーロチカの食べ残しのパンの一片は、なんと大きく、すがすがしく見えたことか。
いついかなる時代といえども、人が人として生きるには、「パンのみ」ではなかったことを、リトアニアでもロシアでも共にこころに刻むことができました。先行き不透明の混沌(こんとん)とした現実に、いささか明日への展望を得たような思いで、ペンを進められたのは嬉しいことです。」
レーロチカのパンの写真があります。下「」引用。
「ロシアのサンクトペテルブルグの工芸専門学校に展示されているレーロチカの形見のパン。横に添えた10円玉と比較してみたい。」
1997年3月29日、西鎌倉の杉原家で、著者は幸子夫人と会談する。
--ユダヤ人協会の隣に杉原顕彰碑「月光」が建っているという。
「第九要塞強制収容所」 下「」引用。
「一九四○年、リトアニアがソ連に併合されると、いくつもの要塞群は、たちまちにしてソ連管理の刑務所となり、その後第二次世界大戦が激化してドイツ軍に占領されるや、今度はナチ支配下の暗黒時代のシンボル的存在=強制収容所となる。四四年、ドイツ軍が敗退すると、またまたソ連へとバトンが移るのだから、話はひどくややこしい。
つまりソ連時代にの、社会主義を信じてファシズムに抵抗した者は、ナチに徹底的にやられ、そのナチに多少ともなびいた者は、今度はソ連のひどい迫害に遭った。時計の振子ではないけれど、支配者がかわるたびごとに、いやという目にあったというわけだ。それ自身が、大国のはざまにあって翻弄されつづけてきたリトアニアをはじめ、バルト三国の悲劇の歴史を象徴しているかのようである。」
「杉原コーナーでほっと一息」 下「」引用。
「収容所跡は元要塞だけあって、監視塔のある赤レンガの外回りはもちろんのこと、内部もやけに堅固な造りになっている。-略-
奥まった一部屋に、杉原コーナーがあった。リトアニア語のほかにローマ字で、CHIUNE SUGIHARA(1900-1986)と標示されたプレートで、それとわかる。
入ったとたんに、杉原氏の肖像写真が、正面に大きく掲げられていた。多くのユダヤ人を救出した日本人外交官ということで、ごく最近の杉原氏に関する資料が並んでいる。-略-」
「残されたターニャの日記」も掲載されていました。
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