磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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NHK 彼は生きた -----小頭症被爆者・47年の生涯-----

2006年08月11日 | 読書日記など
NHK2006年8月9日

彼は生きた
〜小頭症被爆者・47年の生涯〜


この番組は一人の女性被爆者がいなかったから、できなかったかもしれない。

一人の女性被爆者がテープにとっておいてくれたのです。

世の中にこのことを伝えなければならないという信念をもって。


光石信幸さん


父は長崎原爆の日に死亡。
母は妊娠三カ月
長崎市、住吉。
わずかに小学校の同級生のみが知っていた。

「体が小さかった」

【ABCCの検査に頻繁にいっていた】
毎年、身体測定、血液検査。
平均身長より18cm小さかった。
知能検査、IQ=62で、精神遅滞。

【中学の時の学級担任】
・体が丈夫ではなかった。
・胎内被爆とは聞かなかったという。

【光石さん自身知らなかった】
・光石さんが被爆者とは知らなかったという。
・母、祖父、兄と暮していたが、教えてくれなかったという。

【母、生存(88歳)】
・高齢の被爆者の入所施設。
・会話も困難になっているという。

【被爆者健康手帳ももっていなかった】

祖父とよく平和公園にいっていたという。

【中学卒業とともに働く】
・パン屋の寮で住み込み。
・原因不明の足の痛み、そして失職。
・別のパンへ。そして再び痛み、失職。

【ABCCのカルテには小頭症と書かれてあった】

足や腰の痛みで長期雇ってくれるところはなかった。

【16歳でチンピラ仲間へ】
・恐ろしくなって逃げ出した。

【長崎・造船で好景気】
・自動車整備工場へ就職。19歳
今工場主、当時中学生。
・光石さんとキャッチボールをしたという。
しかし、足と腰の痛みで失職。

【パン屋へ再就職】
転々と職をうつる。

【昭和42年小頭症の国の支援はじまる】
・光石、被爆者健康手帳も持っていない。
・島原の知的障害者施設へ
 農業や木工を習う。2年間。

【昭和45年被爆者健康手帳取得】
・病院に通いやすくなった。
・持続的腰痛(26歳)
 働くことができない状態。
・支援団体によって、原爆小頭症と認定。
 1万4千円と生活保護で生活。
 しかし、生活保護は辞退。

【自分史を書こうとする】
・生きる目標になったという。
・病状がひどくなり、物も書けない。
・心臓にも問題があったという。
・足は大腿骨頭壊死。

【平成4年 呼吸困難】
・遺体解剖の承諾
・ベッドから起き上がることもできなくなる。

【平成5年11月13日死亡】
・享年47歳

原爆小頭症として23人が認定。(今年3月)
その総数はわかっていないという。

ABCCはデータは採取するが、
被爆者手帳のことさえ教えなかったようですね。







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